塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

五輪モデルという起爆剤

2019-10-26 01:08:59 | 日記
 1992年バルセロナの地で、スペインサッカーは見事金メダルを獲得し、その大役を果たします。

 その中には若き日のグアルディオラがおり、支給されたケルメのスパイクで中盤のかじ取り役を担っていたのです。

 それ以上に注目を集めたのが、バスケットボール米国代表の面々であり、マイケル・ジョーダンの存在は漫画、スラムダンクの影響であり、日本国内では一般レベルで浸透します。

 このバルセロナ五輪が画期的だったのは

 1・従来のバッシュで五輪のデザインを加えることで、全く異なる印象を与えることがわかる
 2・有名選手モデルは、五輪記念という付加価値が加算され、より注目される

 という2点が露わになった点でした。

 当然このとき一番売れたのは、ナイキのエアー・ジョーダン7でしょうが、

 パトリック・ユーイングに提供された「ユーイング・エクリプス」
 マジック・ジョンソンに提供された「コンバース・アクセレレイター」
 ラリー・バードに提供された「コンバース・USプロスター」

 など、注目作とスター選手が勢ぞろいした点です。

 何故ここまで、五輪とバッシュの話をしたかといいますと、東京五輪では各ブランドがサッカー・スパイクで同様の試みをしてもらえないか、と思ったためです。

 バルセロナ以降、バッシュの世界では五輪モデルだけでなく、アッパーを絵画でいうキャンバスに見立て、独創的なデザインが幾つも確認できるようになったのです。

 スパイクは街履き出来ない分、選手モデルに頼る以外の「術」が必要でしょうし、仮にそれが「五輪限定」という日本国内だけのマーケティングとしても、波及効果が期待できる。

 そう想像したためなのです。

 単純に用具を眺めること、楽しいですもんね。
 
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中庸は普遍性に繋がってゆく

2019-10-26 00:59:01 | 日記
 銀行のように女性行員には制服が支給され、男性は原則自前で出社する例があります。

 皆が皆、服装や服飾に関心があるわけではありませんから、女性のように制服支給があれば良いと考える方もいると思います。

 ただ、大抵の場合、男性は服装がおざなりの印象が強いですね。

 どの服飾本、マナー本を読んでも

 1・チェックやペイズリーのネクタイを勤務中に身に着けるな
 2・靴はしっかり「自分で」磨き、色は黒、紐がついた内羽を選択しなさい
 3・シャツの襟はイングリッシュ・スプレッドが基本で、ネクタイはディンプルができるように結ぶこと

 など、「原理原則」が確認できます。

 しかし、これらを逸脱している男性の多い事。

 何のために服飾本とマナー本が販売されているのか、僕にはさっぱりわかりません。

 逆に言いますと、「中庸」であれば他人と差別化が自然にできるというわけです。

 紺かチャコール・グレイの無地で織られた背広
 紺の無地、水玉、小紋のネクタイ
 磨かれた美しい紐靴に、上質の鞄とベルト

 少なくとも嗜みがある人間は、背広が痛みますからショルダーやリュックの鞄で出社をしないでしょうし、夏は生地と仕立てを変えることで、上着を脱ぐこともないはずです。

 言い換えれば「中庸」は「普遍性」に通じるというわけです。

 レアルとバルサがいつの時代でも選手のあこがれであるのは、この普遍性を常に感じるからに違いありません。

 この2クラブに続くのがバイエルン、強いて言えばリバプールのように思えますが、このスペインの2強は、仮に優勝できなくとも

 常に攻撃を追求する
 常に名手の獲得を目指す
 選手はジャージが汗だくになるまで集中力を切らさない

 という不文律を徹底しています。

 今、この2クラブに日本人選手がオファーを出されるまでになったことは、もっと大きく取り上げられても不可思議ではない、と感じています。
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