塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

過去の僕達が今はいない理由

2025-02-28 10:52:53 | 日記

 我が家から徒歩10分程度の場所に、新しい公園があります。

 

 また徒歩1分の場所にある、地区公民館にも遊具がありますが、寒いこともあるのでしょうが遊んでいるお子さんはまずいません。

 

 今は新築の家が建設されていますが、斜向かいに空き地があり、幼少期はみなでゴムボールとプラスチックバットで野球をし、目の前の移動路ではドッジボールを投げ、サッカーボールを蹴飛ばしていたものです。

 

 空き地は工事関係者が出入りしていたため、砂利や小石だけでなく、釘などが平気で落ちており、両親は僕たちが怪我をしないか不安に感じていましたが、基本僕たちの自由でした。

 

 当時はバブル経済の時期であり、金銭的におとなたちはゆとりがあった。

 

 現代同様に誘拐事件、学校から見知らぬ大人についてゆくな、という伝言はありましたが、今のように

 

 子供が防犯ブザーや携帯電話を所持していない時代

 片田舎はそれほど物騒ではない

 

 わけで、ぼくたちが道端でサッカーをしても、周囲がとがめることはありませんでしたね。

 

 今は騒音、怪我、何より犯罪の可能性もあり、子供たちがボールをける風景はありませんが、それが普通だと思います。

 

 今のご時世、80年代の僕が犯した、サッカーボールでお隣の鉢植えを壊したということは、大問題になり両親がいかに謝罪しても受け入れてはもらえないことでしょう。

 

 それだけ経済も社会の概念も変化した、そして子供たちはブラジルでもドイツでも道ではなく、スクールでサッカーを学び、成長してゆくというビジネスに変化した、ということでしょうか。

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