
事実は認識する以前の只今ゆえ、我は未だ不生。
只今は、認識する主体と客体が分別される以前。
法を伝えるのは法であり、事実を見るのは事実。
目や耳は分別せずに、因果一如の法を伝えてる。
我が見る聞くと言う処は、認識後の過去の残影。
我が立たぬ処には疑問も、問の対象も認めない。
問が立つ処は我の懐ゆえ、既に自他の間の事柄。
自他の狭間で、自他不二の問答は埒が明かない。
酒席で、断酒論議に花を咲かせるが如きである。
言葉の肯定や否定は我を養うが、法に届かない。
問いの立つ処は既に過去ゆえ、問うに過ぎたり。
自他不二の法ならば、倶胝和尚の一指で足りる。
見る処は只今ゆえ、未だ善悪の付く以前の事実。
事実を見る処に、我の属性の思量や分別は未在。
問は問う者に等しく、問いを滅す処に我を滅す。
問に対する答えの選択肢は、分別と我を離れず。
記憶に依存する我は、概念と同化した過去の影。
答えを残し座す処は、我の住す処に他ならない。
自らの答えが我執を招くなら、本末転倒である。
法は事実と不二の応無処住、我の座す処に非ず。
問を解く処に答え無く、留まる処なき故に無我。
問の消滅する処は、問う者が滅する処に等しい。
法は我を忘じる処ゆえ、問の消滅が答えとなる。
習学と異なり、法を得る処に答えの残滓は無い。
法は答えに依拠せず、正しく問う処に導かれる。
自由へ導く問があり、自縄自縛を招く問もある。
答えを求める以前に、問の真偽を問う事が肝要。
「公案現成 羅籠未だ到らず
若し此の意を得ば 龍の水を得るが如く
虎の山に靠るに似たり 當に知るべし
正法自ら現前し 昏散先ず撲落する事を」道元