ゆきすぎて かへりて訪ひし すみれかな 夢詩香
*まだすみれが咲くのには早いと思うでしょうが、冬にすみれが全く咲かないわけではないですよ。ここは南国ですし、最近では冬もよく咲くパンジーなどが店で売られている。季節感ていうのは、だんだん区切りがあいまいになってきていますね。
季語というのも時代に応じて増えてくるらしいですが、形にとらわれていると難しくなる。季節は情感がたゆたう風の行方のようなものだ。生きていく中で、表情を変えていく世界を感じる、自分を育てていくために、神が下さる物語だ。
園芸業者が売り出した小さな三色すみれが、野生化して、冬の最中に、どこかの小さな空き地のすみに咲いている。そんなことをよく見るようになりました。
毎日忙しく働いていると、そんな小さなすみれのことなど、気にしている暇もないでしょうから、すぐに通り過ぎていくでしょうが。寒い風の中を歩くのもつらいから、急いで家に帰りたいとも思うでしょうが。
今、目の隅にひっかかった小さなすみれの花を、そのまま見ないで捨ててしまえば、後で強く後悔しはしないか。そう思って、時々家に帰る足を止め、振り返る人がいる。
たったひとつのはかないすみれのことなど、気にしないでもよさそうなものだが。そんなことを気にしても、何も変わらないように思うが。何かに心が引っかかって、振り返らずにいられない。それで足を戻して、すみれの前に膝を折って、よく花を見てみるのです。
それは美しい。小さな花を凛と立てている。冷たい風の中にかすかに揺れている。なんでこんなところに咲いているのか。たぶん種が飛んできたのだろう。花は種が落ちたところに咲くしかない。どんな思いで咲いているのだろう。
思いは揺れ動く。理屈などどうでもよいのだ。何かの交感があり、見えないものをもらったような気がする。それでよい。幸せは、いつかそれが必ずよいことになって返ってくるのだと、神さまが言っていることが、わかることだ。
心に引っかかるものがあったら、それを見捨てておかず、ほんの短い時を割いてでも、そのもののところに訪れなさい。
神が幸いの種を植えてくださるでしょう。