乾ききる 砂をグラスに ついで飲む 鉛の肺に 降り積もる虚無
*相変わらず妨害があって歌が詠めませんので、10年前のかのじょの作品からいただいてきました。
10年前といえば、かのじょの中から彼が出てきて、この多重人格活動の先触れをやっていたころですね。かのじょは彼の突然の登場に驚きながらも、何とかついてきてくれていた。まだ自分の人生を降りなければならないとは気づいていなかったが、わたしたちの活動に、大部分自分を譲ってくれていました。
それは半面、かのじょが疲れ切っていたことを表す現象でもあるのですが。裏から現れてきた彼の強さにあらがえる力が、もうかのじょにはなかったのです。
表題の作品は、そういうかのじょの疲れを表しているように思いますね。かのじょは愛に恵まれず、砂を飲むような毎日を過ごしていた。世間の誤解と無理解にもまれて、自分の魂が疲れ切っていくのに、もはや何もできない自分がいる。
このままではかのじょは死んでしまう。魂が疲れ切って、人生をやっていくことができずに、倒れてしまう。この存在が倒れたら、人類の救済が倒れてしまう。そう思った彼は、強引にかのじょの人生を奪って、この人生の主役に躍り出たのでした。
こんなことは、本当は絶対にやってはいけないことなのですよ。だがやらざるを得なかったところに、わたしたちの苦しさがある。
絶望的な状況を何とかするために、愛の法則を破って彼がしてくれたことに、わたしは感謝します。そしてわたしとしてなんでもやって、彼を助けていきたいと願う。それが愛です。
愛がほとんど何もなくて、乾ききった砂を飲むような毎日を過ごしていた。鉛の肺に虚無が降り積もる。なんと悲しい歌でしょう。酸素のない風にさいなまれて氷の中を進んでいるようだ。かのじょはボロボロだったのです。
今は歌を詠うことがなかなかできませんが、できるならこのさみしい歌に明かりをともすような返歌をさしあげたいものだ。あなたを愛しているものがここにいますよと。
夢去りて 砂漠の砂を 飲む君の あばらの壺に 光を注ぐ
下手ですが、何とか詠めました。