夢とまで いひてくたしし 月影の たかきにすみて なにもかたらず
*何か長い文を書いてくれと言われたので、書くことにしましょう。これは少し前にツイッターにあげた歌の一つですね。最近は馬鹿に邪魔をされて、なかなかいい歌を詠み込むことができません。
大火の作ですが、大火としては今一つキレが甘いような気もします。いつもの彼ならこんなやさしい言い方はしないと思いますね。さて。
あれを崩すのが夢なのだと言って、みなで馬鹿にしつくした月は、高いところに澄んで、何も語りはしない。
ご承知のように、陰からかのじょを馬鹿にしていた人間たちのやっていることは、ひどいものでした。かのじょがいやなことになるのが、生涯の夢だとでもいうように、情熱的に馬鹿をやっていた。男も女も、狂っているとしか思えないようなことばかりやった。
それが、みごとに自分に帰ってきて、とんでもないことになったというときに、詠んだのが表題の歌です。
みんなが馬鹿にした月は、つまりかのじょは、痛いことになったわけでもなく、高いところに澄んで何も語りはしない。いやなことをされたとはわかっていますが、別に復讐を考えるでもない。何も言わずに引いていくだけだ。そして静かに眠って夢を見ている。
美しいものはいつも、美しいところにいる。
それに対し、汚いことをしたものは、どうしても汚いところに落ちる。それが法則というものです。
何度も言ってきたことだが、自分のしたことが帰ってきて、あまりにも苦しいことになるのがいやなのなら、自分のしたことが馬鹿だったと認め、皆に謝るべきなのです。
真実はいつも簡単ですっきりと美しい。悪いことをしたのなら謝って償うのが本当なのだが、それがいやだと思うものは、複雑な論理を尽くして逃げ道を探そうとする。そしていつも、妙なことになる。
なぜかのじょをあそこまで馬鹿にしたのか。それはかのじょが理想的に美しかったのに嫉妬したからです。自分とは何もかもが違うのが、あまりにも悔しかったからです。それが真実なのだが、馬鹿はこれを認めるのがいやで、どうしてもどうにかしたいと思うものだ。
悪いのはかのじょの方にできないかと、ぐだぐだと長い愚論を組むものだ。それは結局は、愛が馬鹿だということに帰する。何もかもをさかさまにすることになる。
こんなこと、全部馬鹿なんだと、すべてをひっくり返してしまう。それでいつもだめになるのです。
長い文をぐだぐだと書いてしまいましたが、言いたいことは、簡単だ。謝れ、のひとことにつきる。
すみのぼる 月のかなたに 神あれば 身をつぶしても ひたにあやまれ
自分のしたことを正直に認めて、謝りなさい。それがもっとも美しい道だ。しつこくしつこく何度も言います。
でも、何も語らない月のほうが、もっときついことを言っているような気もしますね。