私が司馬遼太郎氏の本を読んだのは、今から10年近く前です。日本人とはなにか?に目覚めたことからです。
そこで、小説は読んでいませんが、とりあえず、司馬遼太郎氏の日本人論が一番良いだろうと思い、5~6冊くらい、日本人・歴史について書かれた本を読みました。
「ものすごい物知りだ」と思ったことと、人間の生きている姿をなにか、上から、見下して評価する考えにこれではだめだとあきらめた経過があります。
その後、加藤周一氏の考えに触れ、全面的に賛成ではありませんが、歴史、日本人論を勉強するには非常にためになっています。
「清張さんと司馬さん」半藤一利著(文春文庫)は、当時の文芸春秋社編集者として見てきた二人の作家を描いています。
しかし、半藤氏は司馬遼太郎氏への思いが大変強いと思いました。大変印象に残ったのは、明るい明治を書き、昭和の暗黒時代を切り離してとらえる司馬氏に疑問をなげかけ他のに対し、司馬氏が答えた言葉です「「『ノモンハンを書けと言うことは、私に死ねと言うことだよ』寂しく笑うのが、おしまいごろの返事になりました。」
「司馬遼太郎と藤沢周平」佐高信 (知恵の森文庫)は、佐高氏を含め様々な方のこれまでの、司馬遼太郎への評価をまとめた感じがする本です。佐高編集という感じですが、著名人の司馬評を知る上では役に立ちました。
司馬氏を一貫して評価してきた、井上ひさし氏の「この国のかたち」の一巻目、二巻目を呼んだとき「あれ、作家は成長する、変化するというのは本当に言えるんだな」と僕は思った」。「司馬さんは独特の書き方で、実は自己批判なさっているなと感じて感服したのです。そして、もう五年くらい「この国のかたち」をお書きになったら、相当烈しいところへいったんじゃないかという気がします」と述べています。
わたしは、司馬氏の歴史観の矛盾を率直認めることのできない?寂しさを感じました。
「異評 司馬遼太郎」岩倉博 (草の根出版)は、加藤周一氏の馬遼太郎の史観についての文が載っており、参考になりました。
「歴史の代用品にはならぬといいうことである。この小説が提供する歴史の解釈、歴史的事件の全体像は、われわれ自身の社会的現実と歴史的立場を発見するには役立たないだろう」とずばり指摘しています。
この岩倉氏も大変な読書量の方のようですが、「あまりにも国民的作家などともてはやされると、生来の天の邪鬼(あまのじゃく)精神が頭をもたげて文句のひとつもいいたくなるのである。」と書かれているのは、真正面から司馬論取り上げているのは、決して天の邪鬼ではないと思うのですが。
そこで、小説は読んでいませんが、とりあえず、司馬遼太郎氏の日本人論が一番良いだろうと思い、5~6冊くらい、日本人・歴史について書かれた本を読みました。
「ものすごい物知りだ」と思ったことと、人間の生きている姿をなにか、上から、見下して評価する考えにこれではだめだとあきらめた経過があります。
その後、加藤周一氏の考えに触れ、全面的に賛成ではありませんが、歴史、日本人論を勉強するには非常にためになっています。
「清張さんと司馬さん」半藤一利著(文春文庫)は、当時の文芸春秋社編集者として見てきた二人の作家を描いています。
しかし、半藤氏は司馬遼太郎氏への思いが大変強いと思いました。大変印象に残ったのは、明るい明治を書き、昭和の暗黒時代を切り離してとらえる司馬氏に疑問をなげかけ他のに対し、司馬氏が答えた言葉です「「『ノモンハンを書けと言うことは、私に死ねと言うことだよ』寂しく笑うのが、おしまいごろの返事になりました。」
「司馬遼太郎と藤沢周平」佐高信 (知恵の森文庫)は、佐高氏を含め様々な方のこれまでの、司馬遼太郎への評価をまとめた感じがする本です。佐高編集という感じですが、著名人の司馬評を知る上では役に立ちました。
司馬氏を一貫して評価してきた、井上ひさし氏の「この国のかたち」の一巻目、二巻目を呼んだとき「あれ、作家は成長する、変化するというのは本当に言えるんだな」と僕は思った」。「司馬さんは独特の書き方で、実は自己批判なさっているなと感じて感服したのです。そして、もう五年くらい「この国のかたち」をお書きになったら、相当烈しいところへいったんじゃないかという気がします」と述べています。
わたしは、司馬氏の歴史観の矛盾を率直認めることのできない?寂しさを感じました。
「異評 司馬遼太郎」岩倉博 (草の根出版)は、加藤周一氏の馬遼太郎の史観についての文が載っており、参考になりました。
「歴史の代用品にはならぬといいうことである。この小説が提供する歴史の解釈、歴史的事件の全体像は、われわれ自身の社会的現実と歴史的立場を発見するには役立たないだろう」とずばり指摘しています。
この岩倉氏も大変な読書量の方のようですが、「あまりにも国民的作家などともてはやされると、生来の天の邪鬼(あまのじゃく)精神が頭をもたげて文句のひとつもいいたくなるのである。」と書かれているのは、真正面から司馬論取り上げているのは、決して天の邪鬼ではないと思うのですが。