世代を継いだ誠備グループの亡霊:
70年代にかけて、兜町の風雲児、最期の仕手筋と称された加藤昂の名前が、再び、新聞紙上に亡霊のように、浮かび上がってきた。しかも、世代を跨がって、大学で金融工学を教えている、その息子をして、60億円もの巨額な利益を得たと言われている。しかも、劇場型ではないが、自らが、顧客を扇動して、30億円もの豊富な資金を動員して、株価を意図的に、つり上げておいて、売り逃げるというまるで、ババつかみのようなやり方で、更には、これを、如何にも、金融数学工学に基づいて、理論づける手口は、まるで、詐欺紛いの犯罪以外の何ものでもなかろう。もっとも、手口がしたたかで、一種の新興宗教のように、顧客には、しっかりと、利益をきちんとお裾分けしておけば、間違いなく、そのカリスマ性は、教祖様のように、輝きを増して、密かに、グループは、再生、蘇生してくるものである。それにしても、金融犯罪というものは、刑事犯罪と異なって、人を殺したり、傷つけたりするモノではない代わりに、人間のカネへの無限の欲望を、これでもか、これでもかと、駆り立てることにより、より逆説的に、倫理的に、人の心を、醜くさせてしまうものである。それでも、金融取引の機会平等性とか、情報の透明性という問題において、犯罪であると、認定されるものである。もっとも、その犯罪性を、刑事責任を、立証するためには、大変な証拠集めために、労力と時間が、費やされ、巨額の保釈金を積みたてられることによって、合法的に、保釈もされ、ババを掴まされたある種の被害者は、置き去りにされて、裁判の長期化と、物理的な拘束もされることなく、美味しいものを食べて、豪華な住まいと暮らしを享受しつつ、結局は、又、前回と同様に、適当な軽い刑罰だけで、判決によっては、可もなし、不可もなしという社会正義とは裏腹の不条理な結末に至ることは、必定であろうか?既に、個人資産などは、分散された上に、合法的に、しっかりと、ケイマン諸島辺りのタックス・ヘブンに、細かく分散されているに違いない。こういう不条理は、まるで、昭和初期の金融恐慌に伴う、社会正義の不満へと集約されてゆく、得体の知れないドロドロとした、不安のようなものに、どこかで、繋がってゆくのであろうか?そんな加藤某も、74歳になって、何を思い、どんな風に、カネを使うのであろうか?心内を、尋ねてみたいものである。