パリのテロと難民・移民:
昔、ロンドンやパリに、出張した折に、アフリカ出身者が、ゴミ収集や様々な社会の底辺で、所謂、3Kの仕事に、関係しているのを目にしたのを、想い出す。旧植民地からの移民で、1世達は、如何にして、その国へと同化と、異民族としての出自と誇りを両立させてきたのであろうか?それは、丁度、ハワイへの移民が、日系1世・2世へと戦前・戦中・戦後と亘って、強制収容所や人種差別と偏見から、見事に、合衆国へ、同化し、日本人の地位向上に成功していったのに、較べて、フランスでのアルジェリアやモロッコ、等の旧植民地諸国からの移民2世・3世の現代のそれとは、全く、大きな違いがあろう。無論、植民地からの移民と、沖縄や和歌山・広島を中心に米国やブラジルなどへの移民とは、異なる面もあろうが、それでは、台湾や朝鮮半島からの移民、もっとも、それは、ある種の強制労働連行とも、不可分に関わっているであろうから、必ずしも、同一視するわけにはゆかないであろうが、私には、同じ差別と偏見を受けながらも、その国へと生活の基盤を築いてきた日本人移民とは、一体、何処が、異なるのであろうか?或いは、中国人クーリーや華僑とは、どこが、異なり、何処が、共通しているのであろうか?イスラムという宗教的な大義が、民族の誇りと共に、ISに、歪曲・利用されてしまい、不満と失業で、鬱積した将来への不安が、恰好のテロ要員として、自爆テロにかり出されてしまったのであろうか?これまで、異文化への理解と共生とを、比較的、寛容であったフランスも、流石に、こう度重なるテロに見舞われると、私見の制限とか、共謀罪の事前適用とか、移民の制限も含めて、様々な議論が出てくることは、理解されるものの、フランスだけではなくて、我が国でも、同様の議論が、程度の差こそあれ、出てくることも間違いないであろう。通信の傍受とか、秘密保護法の制定以後、更には、その運用の内容が問われそうである。ベトナム反戦運動の時、軍隊の銃剣付き銃口の先に、一輪の花を挿して、唄われたピーター・ポール&マリーの反戦歌ではないが、「花は、何処へ行った?」の、花は、実際、何処へ行ってしまったのであろうか?死者を悼む多くの花束は、何処かへ、空しく、捨てられてしまうであろうか?そして、自分には、何が出来るのであろうかと問われているような気がする。