三島由紀夫、没後、45年か!!:
1970年11月25日のその日のことは、いまでも、忘れない程、衝撃的だった。二人の子供を遺してまで、守らなければならなかった自身の「言葉と行動」の言行一致は、自刃という形で、壮絶に、若い私達には、とりわけ、東大全共闘との安田講堂での討論会で、三島により、挑発的とも受け取られた、「言葉に対する責任の取り方」のやり取りは、その時点では、彼の結末が、予測できなかったが、一報を聴いたときに、皆、一様に、「してやられた」と思ったに違いない。それは、戦後体制に対する所謂、右からのアンチテーゼと左からのアンチテーゼが、何処かしら、ぶつかり合いながら、しかしながら、何処かで、心情的に、共感できるようなところがあったのかも知れない。しかしながら、今日、没後、45年経過した時点でも、提起された問題は、未だに、解決されていないことだけは、事実である。虚構に生きて、自作自演の虚構に、自らをおいて、自刃しか遺された途は、なかった等と、マス・メディアに、或いは、文化人ずらした評論家に、したり顔に、分析されたりもしたが、それでは、「檄」文に、提起された課題が、今日、解決されているのであろうか?一様に、当時の「楯の会」の若い会員も、或いは、東大で討論会に参加した学生達も、同じ、45年と言う時間の経過の中で、どのように、変節してしまったのであろうか、それとも、まだ、当時の燃えたぎるような情熱と怨念が、沸々と、心の底に、心凍らせて、残っているのであろうか?そして、当時、市ヶ谷のバルコニーで、野次っていた当の現役の自衛隊員達も、同じように、45年という時を経て、既に、退官してしまったのであろうか?少なくとも、当時の自衛隊の治安出動を前提とした、民間・学生による祖国防衛隊構想は、どうなってしまったのであろうか?時代が変わったという一言では、到底、未だに、解決され得ない課題が、遺されているし、永遠に、解決され得ない課題を、問題提起する為に、或いは、私達に、死よりも、大切なものがあることを、身を以て、提起したのであろうか?50年経っても、100年経っても、この問題提起は、解決されないのであろうか?戦後70年、沖縄返還からも、50年経過しても、何も変わらないのか、それとも、何が、変わったのであろうか?三島没後45年で、又、又、考えさせられてしまう。