上田都史著、「山頭火の秀句」を読む
小諸の山浦にある茶房、「読書の森」に、久しぶりに、伺ったところ、たまたま、書架の中に、この本を見つけたので、しばし、拝借して、読むことにした。元々、山頭火の俳句は、気になっていたが、体系立てて、その作品を読む機会に恵まれなかった。最近観た映画の「あなたへ」の中で、北野たけしが、演じる偽元教師の車上荒らしが、高倉健に、旅の途中で、「山頭火の句集」を手渡す場面があった。又、「旅」と「漂泊」の違いを、説明するところがあり、一寸、心のどこかに、引っかかるものがあったのも、事実である。373句の選ばれた句を、一つ一つ、解説したものである。
山頭火の俳句は、同じ17文字でも、自由律俳句で、必ずしも、5 ・7・ 5とは、限らない。何故か、「当たり前」のような情景を、当たり前に、何事もなきが如く、さらっと、表現しているように、字面だけ読むと、そうとしか思えないが、山頭火は、「私は、自然を通じて私をうたう」という。彼の胸の痛みとして考え感じなければほとんど理解できないと、「現代の俳句は生活感情、社会感情を表現しなければならないことは勿論だが、それは、意識的に作為的に成し遂げ得るべきものではない。俳句は、現象を通じて、“思想”なり“観念”なりを描き映さなければならない。刹那的に摂取した感動が俳句的な律動として表現されなければならない」と、荻原井泉水の門人で在り、実家が父の放蕩が原因で、家が破産し、母が自殺、弟も自死し、自らも、離婚し、関東大震災で被災し、漂泊しつつ、行乞し、俳句を発句して歩いた山頭火である。幕末から明治期にかけて、伊那谷を中心に、放浪、漂泊した俳人、井上井月が、思い出されるが、途中で、墓参もしている。膨大な句の中から、自分が、気に入った句を幾つか、勝手に、選びながら、解説を引用しながら、辿ってみたい。特に、自分勝手に気に入った句には、赤字で、表記してみたが、、、、、、、。
鉄鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ):
この句を詠んだ年の8年前、漂泊流転の内に、自分らしさを見出し、関東大震災に遭い、8年後には、亡くなっている。漂泊の辛さから、安穏・定住の中で、全身全心を、迷妄から覚醒された句とされている、終焉の地に碑が建っているものである。
ふるさとはみかんのはなのにほふとき:
松はみな枝垂れて南無観世音 :
この句は、単なる自然諷詠の写生句ではないと、厳しい精神の軌跡を背景としている。「私は瓦礫だ。それも他から砕かれたモノではなくて自ら砕いてしまったのだ。・・・・既に砕けた瓦は粉々に砕かれなければならない。木っ端微塵に砕き尽くされなければならない。」、「一度行った土地へは二度と生きたくない」というのは身を瓦礫と砕いても、忌まわしいものと断絶したい願いの激しさにほかならないと。
分け入っても分け入っても青い山 :
山頭火の漂泊の旅には、到着する目的地はないことが多い。漂泊とは、帰るべき地がなく、往く宛もない、目的地がないものである。歩くことは、自己の存在を確認することであり、漂泊の旅という時間を持つことは、それを明日に持続することであると。「雲のゆく如く、流れるようでなければならない。一寸でも滞ったら、すぐ乱れてしまう」だから、歩くことが、刻々到着していることなのである:歩歩到着、戦い抜いてきた無言の自負の表れであろう。
この旅果てもない旅のつくつくほうし :
終わりなき漂泊の旅は、現在の時とこれからの果てることもない精神の行脚とを、その確認の軸において、心身両面のこれからの旅をせわしくなく蝉と共に、人生を続けてゆくことに他ならないのであろうか?。
へうへうとして水を味ふ :飄々として
「作者の生涯を知らないでは、優れた俳句は、十分に味わえない。前書きのない句というモノはない、その前書きとは、作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」「奥の細道も野ざらし紀行も前書きである」、読む方に、その句の創作された状況の把握を求めるか、俳句の中に、その状況を創作するのでなければ、状況からの作品の信の自立はないのではないか、という常識的な俳句の作り方の方法論をラディカルに、超出していると、もっとも、芭蕉の句での宇宙観とも、違いがあると思われるが、、、、、、。
まっすぐな道でさみしい :
「人生とは、矛盾を生きることである。矛盾と闘うことによって本来の自己を失いたくない。」ここにこそ、真っ直ぐな道がある。その道は、さみしいのであると、
しぐるるや道は一すじ :「真っ直ぐな道」は、燃焼を志向する象徴で、漂泊への促しであり、定住への惰性からの自己の自立を意味すると、自己の内なる矛盾を投げ捨ててしまうことをしなかった。
またみることもない山が遠ざかる :
別れの感傷ではない。昨日を捨てたいと真面目に思う、日々を捨てていこうとする願いが旅立たせる、捨て身懸命であると、もう二度とみることもないと思ったことがあるが、命があって、縁があって又、通るのである。そんな句である。
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ:
捨てきれない程の荷物の重さとは、? 改めて、考えさせられる。
すべってころんで山がひっそり :
ふとめざめたらなみだこぼれてゐた :
行乞の手記を日々書いてきたが、昨日をみる、昨日を再び今日に引き戻すことになるから、せめて、焼いてしまおうとする。その形を消し去らなければならない。焼いても焼いたことにはならない。捨てても捨てきれるものではない。憂愁は更に耐えがたいまでに募ってくる。何故か、こちらも、涙が、溢れてきそうな句ではないだろうか?何か、深遠な精神性、思想性を感じざるを得ない。
てふてふひらひらいらかをこえた :
永平寺の甍を超えていったのは、単なる蝶蝶ではない。己を蔑視しなければならなかった山頭火の心であると
山のしずかさへしづかなる雨 :
水音のたえずして御仏とあり :
分け入れば水音 :
ふりかへらない道をいそぐ :
山頭火の道は、道があって行くのではない。行くことによって道が作られるのであると、現在を充実したものとして、生きることは、昨日を捨てることに他ならないと、
いただいて足りて一人の箸をおく :
いただきますとごちそうさまという習慣的な感謝の言葉はあっても、ことさらに、しみじみと有難いと思うことはそう度々あるものではない。一人の箸をおくという言葉が、何とも言えない孤独感が滲み出ているが、、、、。
こころつかれて山が海がうつくしすぎる :
さくらさくらさくさくらちるさくら :3/3/2/3/2/3音で、サ行の繰り返しで、寂しい心が奏でられていると、
あるひは乞うことをやめ山を観てゐる :
おもいではかなしい熟柿が落ちてつぶれた :
落ちて潰れたものには、死の無惨があり、母の自死、弟の自裁、祖母の死、父の死、そして、自らの死をも語っているようであると、
同じ柿の句に、次のようなものがある。
さみしさのやりどころない柿の落ちる :
枯れゆく草のうつくしさにすわる :
良寛和尚の言を引用して、死ぬるときには死ぬるがよろしく候と、「死ぬるまで死なないでいる。生きられるだけ生きたい、生も死も忘却して、是非を超越した心境にまで、磨き上げなければならないと思う」と、又、死を待つ心、それはまことに、落ち着いた、澄んで湛へた、しづかな、しんみりとした心であると、「草のうつくしさ」と言う言葉が、何とも良いではないだろうか?
蝉もわたしも時がながれゆく風 :
時が流れるとは、どういうことなのであろうか?記憶と現実と期待に秩序づけられれば、それは、過去・現在・未来で、決して、時間は等質に流れ去ったものではないはずであると、蝉という対象をおくことで、自己の現存を時間の中で、捉え、風には、無常が感じられると、
けふのよろこびは山また山の芽ぶく色 :
自殺未遂後、4ヶ月の発句である
水をわたる誰にともなくさやうなら :
「九官鳥になれ、くつわ虫になれ、そこに安住せよ」と己を問い詰めてきて、流れる水の行方に目をやりながら、誰にともなく、さようならと呟く。何とも、澄んだ精神性の深い句であろう。
こちら向いてひらいて白い花匂ふ :
只、読んだだけでは、全く、当たり前の句であるが、その生涯を振り返れば、自ずと、趣が異なる句である。元旦に一輪の水仙の花を活け、言祝ぐ習慣、この年、十月には、生涯を閉じることになる
寝ころべば信濃の空のふかいかな :
以前、果たせなかった井上井月の墓がある伊那で、墓参を果たした時の峠道での句、今日只今、生かされていることに目頭が熱くなる思いがする。自分も、ごろんと信濃の空の下に、思わず、寝転がって空を眺めてみたい気になるが、、、、、、、。何か、深遠な精神性を、感じられずにはいられない句ではないだろうか?
小諸の山浦にある茶房、「読書の森」に、久しぶりに、伺ったところ、たまたま、書架の中に、この本を見つけたので、しばし、拝借して、読むことにした。元々、山頭火の俳句は、気になっていたが、体系立てて、その作品を読む機会に恵まれなかった。最近観た映画の「あなたへ」の中で、北野たけしが、演じる偽元教師の車上荒らしが、高倉健に、旅の途中で、「山頭火の句集」を手渡す場面があった。又、「旅」と「漂泊」の違いを、説明するところがあり、一寸、心のどこかに、引っかかるものがあったのも、事実である。373句の選ばれた句を、一つ一つ、解説したものである。
山頭火の俳句は、同じ17文字でも、自由律俳句で、必ずしも、5 ・7・ 5とは、限らない。何故か、「当たり前」のような情景を、当たり前に、何事もなきが如く、さらっと、表現しているように、字面だけ読むと、そうとしか思えないが、山頭火は、「私は、自然を通じて私をうたう」という。彼の胸の痛みとして考え感じなければほとんど理解できないと、「現代の俳句は生活感情、社会感情を表現しなければならないことは勿論だが、それは、意識的に作為的に成し遂げ得るべきものではない。俳句は、現象を通じて、“思想”なり“観念”なりを描き映さなければならない。刹那的に摂取した感動が俳句的な律動として表現されなければならない」と、荻原井泉水の門人で在り、実家が父の放蕩が原因で、家が破産し、母が自殺、弟も自死し、自らも、離婚し、関東大震災で被災し、漂泊しつつ、行乞し、俳句を発句して歩いた山頭火である。幕末から明治期にかけて、伊那谷を中心に、放浪、漂泊した俳人、井上井月が、思い出されるが、途中で、墓参もしている。膨大な句の中から、自分が、気に入った句を幾つか、勝手に、選びながら、解説を引用しながら、辿ってみたい。特に、自分勝手に気に入った句には、赤字で、表記してみたが、、、、、、、。
鉄鉢(てっぱつ)の中へも霰(あられ):
この句を詠んだ年の8年前、漂泊流転の内に、自分らしさを見出し、関東大震災に遭い、8年後には、亡くなっている。漂泊の辛さから、安穏・定住の中で、全身全心を、迷妄から覚醒された句とされている、終焉の地に碑が建っているものである。
ふるさとはみかんのはなのにほふとき:
松はみな枝垂れて南無観世音 :
この句は、単なる自然諷詠の写生句ではないと、厳しい精神の軌跡を背景としている。「私は瓦礫だ。それも他から砕かれたモノではなくて自ら砕いてしまったのだ。・・・・既に砕けた瓦は粉々に砕かれなければならない。木っ端微塵に砕き尽くされなければならない。」、「一度行った土地へは二度と生きたくない」というのは身を瓦礫と砕いても、忌まわしいものと断絶したい願いの激しさにほかならないと。
分け入っても分け入っても青い山 :
山頭火の漂泊の旅には、到着する目的地はないことが多い。漂泊とは、帰るべき地がなく、往く宛もない、目的地がないものである。歩くことは、自己の存在を確認することであり、漂泊の旅という時間を持つことは、それを明日に持続することであると。「雲のゆく如く、流れるようでなければならない。一寸でも滞ったら、すぐ乱れてしまう」だから、歩くことが、刻々到着していることなのである:歩歩到着、戦い抜いてきた無言の自負の表れであろう。
この旅果てもない旅のつくつくほうし :
終わりなき漂泊の旅は、現在の時とこれからの果てることもない精神の行脚とを、その確認の軸において、心身両面のこれからの旅をせわしくなく蝉と共に、人生を続けてゆくことに他ならないのであろうか?。
へうへうとして水を味ふ :飄々として
「作者の生涯を知らないでは、優れた俳句は、十分に味わえない。前書きのない句というモノはない、その前書きとは、作者の生活である。生活という前書きのない俳句はありえない」「奥の細道も野ざらし紀行も前書きである」、読む方に、その句の創作された状況の把握を求めるか、俳句の中に、その状況を創作するのでなければ、状況からの作品の信の自立はないのではないか、という常識的な俳句の作り方の方法論をラディカルに、超出していると、もっとも、芭蕉の句での宇宙観とも、違いがあると思われるが、、、、、、。
まっすぐな道でさみしい :
「人生とは、矛盾を生きることである。矛盾と闘うことによって本来の自己を失いたくない。」ここにこそ、真っ直ぐな道がある。その道は、さみしいのであると、
しぐるるや道は一すじ :「真っ直ぐな道」は、燃焼を志向する象徴で、漂泊への促しであり、定住への惰性からの自己の自立を意味すると、自己の内なる矛盾を投げ捨ててしまうことをしなかった。
またみることもない山が遠ざかる :
別れの感傷ではない。昨日を捨てたいと真面目に思う、日々を捨てていこうとする願いが旅立たせる、捨て身懸命であると、もう二度とみることもないと思ったことがあるが、命があって、縁があって又、通るのである。そんな句である。
捨てきれない荷物のおもさまへうしろ:
捨てきれない程の荷物の重さとは、? 改めて、考えさせられる。
すべってころんで山がひっそり :
ふとめざめたらなみだこぼれてゐた :
行乞の手記を日々書いてきたが、昨日をみる、昨日を再び今日に引き戻すことになるから、せめて、焼いてしまおうとする。その形を消し去らなければならない。焼いても焼いたことにはならない。捨てても捨てきれるものではない。憂愁は更に耐えがたいまでに募ってくる。何故か、こちらも、涙が、溢れてきそうな句ではないだろうか?何か、深遠な精神性、思想性を感じざるを得ない。
てふてふひらひらいらかをこえた :
永平寺の甍を超えていったのは、単なる蝶蝶ではない。己を蔑視しなければならなかった山頭火の心であると
山のしずかさへしづかなる雨 :
水音のたえずして御仏とあり :
分け入れば水音 :
ふりかへらない道をいそぐ :
山頭火の道は、道があって行くのではない。行くことによって道が作られるのであると、現在を充実したものとして、生きることは、昨日を捨てることに他ならないと、
いただいて足りて一人の箸をおく :
いただきますとごちそうさまという習慣的な感謝の言葉はあっても、ことさらに、しみじみと有難いと思うことはそう度々あるものではない。一人の箸をおくという言葉が、何とも言えない孤独感が滲み出ているが、、、、。
こころつかれて山が海がうつくしすぎる :
さくらさくらさくさくらちるさくら :3/3/2/3/2/3音で、サ行の繰り返しで、寂しい心が奏でられていると、
あるひは乞うことをやめ山を観てゐる :
おもいではかなしい熟柿が落ちてつぶれた :
落ちて潰れたものには、死の無惨があり、母の自死、弟の自裁、祖母の死、父の死、そして、自らの死をも語っているようであると、
同じ柿の句に、次のようなものがある。
さみしさのやりどころない柿の落ちる :
枯れゆく草のうつくしさにすわる :
良寛和尚の言を引用して、死ぬるときには死ぬるがよろしく候と、「死ぬるまで死なないでいる。生きられるだけ生きたい、生も死も忘却して、是非を超越した心境にまで、磨き上げなければならないと思う」と、又、死を待つ心、それはまことに、落ち着いた、澄んで湛へた、しづかな、しんみりとした心であると、「草のうつくしさ」と言う言葉が、何とも良いではないだろうか?
蝉もわたしも時がながれゆく風 :
時が流れるとは、どういうことなのであろうか?記憶と現実と期待に秩序づけられれば、それは、過去・現在・未来で、決して、時間は等質に流れ去ったものではないはずであると、蝉という対象をおくことで、自己の現存を時間の中で、捉え、風には、無常が感じられると、
けふのよろこびは山また山の芽ぶく色 :
自殺未遂後、4ヶ月の発句である
水をわたる誰にともなくさやうなら :
「九官鳥になれ、くつわ虫になれ、そこに安住せよ」と己を問い詰めてきて、流れる水の行方に目をやりながら、誰にともなく、さようならと呟く。何とも、澄んだ精神性の深い句であろう。
こちら向いてひらいて白い花匂ふ :
只、読んだだけでは、全く、当たり前の句であるが、その生涯を振り返れば、自ずと、趣が異なる句である。元旦に一輪の水仙の花を活け、言祝ぐ習慣、この年、十月には、生涯を閉じることになる
寝ころべば信濃の空のふかいかな :
以前、果たせなかった井上井月の墓がある伊那で、墓参を果たした時の峠道での句、今日只今、生かされていることに目頭が熱くなる思いがする。自分も、ごろんと信濃の空の下に、思わず、寝転がって空を眺めてみたい気になるが、、、、、、、。何か、深遠な精神性を、感じられずにはいられない句ではないだろうか?