小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

映画「ハンナ・アーレント」に考える:

2014年01月08日 | 映画・テレビ批評
映画「ハンナ・アーレント」に考える:
洋画は、だいたい、イタリア映画とか、フランス映画を観たことがあるものの、あまり、ドイツ映画を観た記憶がない。ニュー・ジャーマン・シネマの女流監督であるマーガレット・フォン・トロッタ監督による、「ローザルクセンブルグ」以来の2012年東京国際映画祭でも、好評を博した映画である。もともと、友人のブログで、この映画の内容は、大変興味深思っていたものの、地方では観れる機会がほとんどないので、諦めていたところ、たまたま、年末年始の新聞を、東京で、読み返していたところ、新宿駅東南口の映画館で、上映していることを見つけて、早速行ってみることにした。何せ、いつも、シニア料金で、座席指定といっても、がら空きだからとたかをくくって午前の第一回上映時間間際に到着したところ、既に、満席寸前、6席しかありませんと、窓口で告げられ、最前列で、結局、満席の中、観る羽目になりました。流石東京ですね!全く、驚きました。しかも、公演後には、係の人が、大きな声で、700円の映画パンフレットは完売で、当分、品切れ状態で、ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんと、、、、、景気が、この映画館では、上向いているのかな?!! (作品さえ宜しければ、多くの映画ファンが見に来ることは間違いないらしい。)想い起こせば、私が、子供の頃、確かに、強制収容所の元所長だったアイヒマンが、アルゼンチンで、拉致されて、イスラエルに送られて、裁判に掛けられる様子が、とりわけ、ガラス越しに、東京裁判の東条英機ならぬ大きなイヤホンを耳に当て、怯えたような小心者の中年の男が、被告席に座らされている新聞記事が想い出されました。(映画の中では、巧みに、当時の生中継の白黒フィルムを重ね合わせて製作されている)当時は、そんな論争が、NYを舞台にして、あったことなど知るよしもありませんでしたが、この女流監督が描いた、「ローザルクセンブルグ」(未だ、観てはいないが)は、その著作などで、既に、学生時代、その思想的な考察、或いは、ハイデッカー、「存在と時間」や、フッサールやヤスパースやマンハイムなどの著作には、何らかの形で、触れていたこと、又、ハンナ・アーレントの著作、「暴力について」等も、読んでいたことを思いだしました。それにしても、これらの哲学者とある種、同じ時代の空気を吸っていたことにも、改めて、驚かされます。皮肉なことに、アーレントは、奇しくも、アイヒマンと同じ1906年生まれであるとは、、、、、、。この映画の内容に関しては、既に、友人のブログや他の映画批評家にも、詳しく、書かれているので、割愛させて戴くことにして、ここでは、今日的な意味合いから、少し論じてみたいと思います。全体主義の起源の中で、論じられた人種主義と官僚主義の関係性は、この時代では、確かに、ナチズムやスターリニズムの解明という点では、確かに、大きな成果かも知れませんが、アーレントが、ひもといたものは、今日でも尚、コソボに於ける忌まわしい「民族浄化紛争」や、アフリカに於ける度重なる部族間での際限なき報復の繰り返しだったり、600万人にものぼる犠牲者を出しても未だ、「加害者と被害者」という単純な言葉では、語り尽くせぬような新しい進化形で、「戦争と革命は、暴力という公分母になっているという」彼女の言説も、残念乍ら、現在進行形であることも又、事実でありましょう。「責任と判断」、「悪の凡庸さ」、「思考の停止」は、思慮と想像力を欠く所に、思考停止と正義も不正義もないところに、悪が宿り、全体主義を受け容れるところの素地があるという説明は、戦後の今日でも、未だに、様々な矛盾として、そこここに地下マグマのように、噴出を待っているし、既に、一部は、吹き始めつつあるのが現状でありましょう。日本に於けるファシズムの研究では、これまで、様々な学者により、研究がなされてきているが、ナチズムとは、若干異なり、民衆レベルでの農本主義や、各地域での「光の家」運動など、土着の農本主義が、神道や天皇制・官僚制などとの中で、都市型のそれをある種凌駕するような形で、進行・増殖しつつ、これが、軍隊という一種の官僚主義の中で、全体主義化と底流で、結びついていったと言う説に、ある種、私は、同意するものである。その意味からすると、ミルグラム効果なる一種のアイヒマン実験に於ける、閉鎖的な極限状況や環境下で、絶対的な権威や権限に従う人間の心理的状況は、決して、特殊な戦争状況下だけではなく、つい最近でも、尼崎集団監禁致死事件や、それらに類する犯罪事件などでも、今日、既に、もっと、進化した形で、日常生活の中で、ハイブリッド化しているのではないだろうか?「未必の故意」、とか、「不作為」等という言葉にも、我々は、今日、もっともっと、敏感にならなければならないでしょう。アーレントは、政治哲学者としては、この裁判を通じて、ある種の「ユダヤ民族」という地平から、「人類共通の視点」へとその昇華に成功したかも知れないけれども、残念乍ら、同じシオニストというユダヤ民族同胞、或いは、その被害者を家族に持つ同胞からは、逆に、名声と思想的な足跡とは反比例して、許容されなかったのかも知れない。私には、それは、丁度、今日的なアジア諸国、とりわけ、韓国・中国からの「歴史認識」を迫られている今日の日本という国、或いは、日本人に、重ね合わされてならないように感じられる。当時のアイヒマン裁判が、奇しくも、露呈した如く、単純な加害と被害という構図ではなくて、植民地支配者が、被支配者に対して、狡猾に、その被支配者を手足の如く、組織化し、(ある時は、アメで、又、ある時には、暴力的に、恐怖と拘束とにより)合理的に管理された「ユダヤ評議会」のような組織で、(日本の植民地統治でも、同様な組織は、みられるが、)つまりは、被支配者側に、更なる二重構造を強いるというか、自主性を活用するというか、真摯に、自主的な己の判断をすることなく、職務に励む公務員の姿のようなものだろうか?それは、丁度、日本国内で抑圧された日本の軍隊の一兵卒が、戦場で、更なる抑圧者へと転化していったことにも通じよう。韓国・中国では、逆説的に、反日を鼓舞すればするほど、その自国内での協力者の存在が、浮かび上がり、その親族末代までも、責任追及をするのであろうか?そんなことをしていたら、朴大領の親爺さんなどは、どうなるのでしょうか?それとも、単純な被害者、それも、民族的な被害者=戦争の一方的な被害者という立場で、歴史を論じるのであろうか?中国にしても、ウィグル・チベット問題、汚職・太子党・裸官・環境問題など、どれをとっても、それどころの問題ではないであろうが、、、、、、、。私は、これらの動きに対して、ベトナムによる歴史認識の対応を、極めて、興味深く、注意深く、眺めている者であります。彼らは、あれ程の長きに亘って、フランス軍、(戦時中の日本軍も入るのであろうか?)、米軍による民族解放闘争を勝ち抜いてきたにも関わらず、政治的には、非植民地被害者意識を、改めて、表沙汰に、敢えてしない国策を、只単に、ベトナム人の政治的経済的なプラグマティズムとのみ、断定するのは、如何なものかと密かに、思っています。そこには、もっと、ファン・ボイ・チャウから、ホー・チー・ミンへと流れる何か、海外留学を経験した人間の思想的な背景が、あるのではないかとも想像しますが、そんな想いで、この映画を観た後で、明日から、暫く、旧い友人からの有難いベトナム招待旅行を愉しんできたいと考えています。日本人にとって、第二次世界大戦が、どのような立ち位置になっているのかというように、彼らにとっては、ベトナム戦争が、どのようなものであったのかを、酒でも飲みながら、じっくりと、聴いてみたいと思います。それは、又、後ほどのお楽しみとして、是非、この映画を観られることをお勧め致します。それにしても、銀幕越しに、漂ってくるたばこの煙には、むせてしまいそうで、マスクが必要ですよ。

新宿セテラ館HPとブログ、「海神日和」HP:
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2013-12-04


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