今日17日は、旧暦だと平成廿三年十二月十四日である。元禄十五年の今月今夜、赤穂浪士が本所松坂町吉良邸へ討ち入った。その前年、西暦でいえば1701年、元禄十四年三月十四日に切腹した主君の命日である。
(ちなみに、祥月命日というのは、日にちだけでなく月も同じ命日のことである。昨年、電車の中吊り広告の、とあるお寺さんの沿線散策風紹介記事に「毎月の祥月命日には…」という記述があって、ビックリしたので、蛇足ながら書く)
この仇討ちに関しては、あまりにもポピュラーなので、もはや私が言うべきことは何もない。
しかし、日本三大仇討の1と3に言及しておきながら、2を捨て置いてそのまま…というのも、それこそ片手落ちというものでありましょうから、とにかく書く。
この、暦日を旧暦に当てはめて『金色夜叉』の「今月今夜」的想いにひたる密かな愉しみは、今年は雪が降らなかったねぇ…と、独りごちることである。
ひとつ言いたいのは、吉良上野介は憎まれ役ではあるのだが、高家筆頭という、朝廷に倣った幕府の儀式を取り仕切る家の人なのだから、人品骨柄いやしからぬ、立派な顔立ちで品のある役者に演じてもらいたい…ということだ。
先代勘三郎の高師直の意地の悪いことといったら、痛快ですらあった。しかし私はあるときから…もう二十年以前だが、畝と水田のうつくしい三河の国・吉良の荘へ旅したとき、吉良贔屓になった。
討ち入り前夜、忠臣たちはほうぼうに、しかし先方にそうと知れぬよう、別れを言いに行った。もとより、命懸けである。
このあいだ煤竹を売っていた大高源吾は道すがら宝井其角に、赤垣源蔵はお兄さんに徳利の別れ、そして、大石内蔵助は、主君・浅野内匠頭の奥方・瑤泉院に。
瑤泉院というと、どうしても私には口元がほころばずにはいられない、想い出がある。
今はなき銀座・並木座の、昭和の文豪名作映画特集だったかで、林芙美子の『放浪記』を観たときのことだ。
並木座は、おなじみの古い日本映画を実に絶妙なタイミングで、何度も上映してくれる心強い名画座だった。八月が来るたびに戦争映画特集をやり、心深き秋になれば、社会派推理ドラマの松本清張原作作品特集をやった。
たしか、私がはじめて並木座へ行ったのは、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』が上映されたときだったと思う。プランタンはまだ、なかった。
成瀬巳喜男監督の『放浪記』で、高峰秀子の林芙美子が、艱難辛苦の末、立派な作家先生になり、自宅で編集者たちが原稿待ちをしている。ところへ、母親役の田中絹代が編集者諸氏をねぎらうために出てくる。立派な被布を着ている。被布(ひふ)というのは、簡単にいえば、着物の道行コートにへちまカラーのような折れ襟と、組紐の飾りがついている衣装である。
芙美子は苦労をしたので、ことさら自分に、このような立派な衣装を着せたがって困る、と母親が愚痴ると、たしか、編集者役の加東大介が「忠臣蔵の、瑤泉院みたいですね」とぽろっという。
場内大爆笑。観客一同、社会通念が世代を超えて共通していた時代だったので、同じ映画を観て一喜一憂している一体感というものが、昔の映画館にはあった。加東大介のセリフの面白さ以上に、みなでドッと笑った楽しさ、というものが、劇場内に満ちていた。面白さは誰かと共有すると倍増するのだ。
今世紀になってから、『少林サッカー』を封切り時に映画館で観たとき、この感覚が甦ってきて、愉しかったものである。たぶん、同じ作品を自宅のビデオで一人、もしくは少人数で観るより、何割方かは、愉快ツーカイ度が増している。
今日では歴史散歩はすっかりポピュラーになったので、内蔵助が最後の挨拶に行く浅野屋敷があった南部坂は赤坂福吉町、今でいえば、赤坂アークヒルズの六本木通りを挟んだ真向かいの細い道を入った先のあたりにある、というのはみなさんよくご存じであろう。
しかし、昭和の終わりごろから平成ひとケタ時代、日本文化のまったく打ち捨てられ忘れ去られていたころ、この南部坂は、麻布のものと勘違いされていたことがあり、誰かからもそう聞かされたことがあった。寄席でそう言っていた講釈師もいたような…。
南部藩のお屋敷があったから南部坂と命名されたわけだが、未亡人となって落飾した瑤泉院が身を寄せていたのは、親戚筋の浅野家のお屋敷。今の東京がそうであるように、三百年の長い間、江戸の切絵図も出版年代によって変わっているから、参考文献に使うときは、気をつけなくてはならない。
元禄十四年を遡ること五十年ほど前にすでに、プレ有栖川公園は、浅野家から南部侯のお屋敷に替わっていたそうなのだ。
さて、麻布の南部坂。広尾駅から有栖川公園へ向かっていくと、右手にスーパーのナショナル。そのナショナルと公園の間の、ゆるゆるとした道が南部坂だ。
学生のころ、渋谷の学校からテクテク歩き、ナショナルで食糧を仕入れて、有栖川公園でおやつの時間。それから園内の図書館で、一応、調べ物のようなことをする。昭和の空はまだまだ青く、私は呑気だった。そのころの広尾の商店街は、まったくもって庶民的だった。
よく観光地に「○×の奥座敷」という形容があるが、昭和の終わりのころ、広尾も赤坂も、「東京の奥座敷」というような、そんな感じの場所だった。
広尾にも福吉町にも、もうずいぶん行っていない。すっかり違う街になっているのでしょうね…。
(ちなみに、祥月命日というのは、日にちだけでなく月も同じ命日のことである。昨年、電車の中吊り広告の、とあるお寺さんの沿線散策風紹介記事に「毎月の祥月命日には…」という記述があって、ビックリしたので、蛇足ながら書く)
この仇討ちに関しては、あまりにもポピュラーなので、もはや私が言うべきことは何もない。
しかし、日本三大仇討の1と3に言及しておきながら、2を捨て置いてそのまま…というのも、それこそ片手落ちというものでありましょうから、とにかく書く。
この、暦日を旧暦に当てはめて『金色夜叉』の「今月今夜」的想いにひたる密かな愉しみは、今年は雪が降らなかったねぇ…と、独りごちることである。
ひとつ言いたいのは、吉良上野介は憎まれ役ではあるのだが、高家筆頭という、朝廷に倣った幕府の儀式を取り仕切る家の人なのだから、人品骨柄いやしからぬ、立派な顔立ちで品のある役者に演じてもらいたい…ということだ。
先代勘三郎の高師直の意地の悪いことといったら、痛快ですらあった。しかし私はあるときから…もう二十年以前だが、畝と水田のうつくしい三河の国・吉良の荘へ旅したとき、吉良贔屓になった。
討ち入り前夜、忠臣たちはほうぼうに、しかし先方にそうと知れぬよう、別れを言いに行った。もとより、命懸けである。
このあいだ煤竹を売っていた大高源吾は道すがら宝井其角に、赤垣源蔵はお兄さんに徳利の別れ、そして、大石内蔵助は、主君・浅野内匠頭の奥方・瑤泉院に。
瑤泉院というと、どうしても私には口元がほころばずにはいられない、想い出がある。
今はなき銀座・並木座の、昭和の文豪名作映画特集だったかで、林芙美子の『放浪記』を観たときのことだ。
並木座は、おなじみの古い日本映画を実に絶妙なタイミングで、何度も上映してくれる心強い名画座だった。八月が来るたびに戦争映画特集をやり、心深き秋になれば、社会派推理ドラマの松本清張原作作品特集をやった。
たしか、私がはじめて並木座へ行ったのは、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』が上映されたときだったと思う。プランタンはまだ、なかった。
成瀬巳喜男監督の『放浪記』で、高峰秀子の林芙美子が、艱難辛苦の末、立派な作家先生になり、自宅で編集者たちが原稿待ちをしている。ところへ、母親役の田中絹代が編集者諸氏をねぎらうために出てくる。立派な被布を着ている。被布(ひふ)というのは、簡単にいえば、着物の道行コートにへちまカラーのような折れ襟と、組紐の飾りがついている衣装である。
芙美子は苦労をしたので、ことさら自分に、このような立派な衣装を着せたがって困る、と母親が愚痴ると、たしか、編集者役の加東大介が「忠臣蔵の、瑤泉院みたいですね」とぽろっという。
場内大爆笑。観客一同、社会通念が世代を超えて共通していた時代だったので、同じ映画を観て一喜一憂している一体感というものが、昔の映画館にはあった。加東大介のセリフの面白さ以上に、みなでドッと笑った楽しさ、というものが、劇場内に満ちていた。面白さは誰かと共有すると倍増するのだ。
今世紀になってから、『少林サッカー』を封切り時に映画館で観たとき、この感覚が甦ってきて、愉しかったものである。たぶん、同じ作品を自宅のビデオで一人、もしくは少人数で観るより、何割方かは、愉快ツーカイ度が増している。
今日では歴史散歩はすっかりポピュラーになったので、内蔵助が最後の挨拶に行く浅野屋敷があった南部坂は赤坂福吉町、今でいえば、赤坂アークヒルズの六本木通りを挟んだ真向かいの細い道を入った先のあたりにある、というのはみなさんよくご存じであろう。
しかし、昭和の終わりごろから平成ひとケタ時代、日本文化のまったく打ち捨てられ忘れ去られていたころ、この南部坂は、麻布のものと勘違いされていたことがあり、誰かからもそう聞かされたことがあった。寄席でそう言っていた講釈師もいたような…。
南部藩のお屋敷があったから南部坂と命名されたわけだが、未亡人となって落飾した瑤泉院が身を寄せていたのは、親戚筋の浅野家のお屋敷。今の東京がそうであるように、三百年の長い間、江戸の切絵図も出版年代によって変わっているから、参考文献に使うときは、気をつけなくてはならない。
元禄十四年を遡ること五十年ほど前にすでに、プレ有栖川公園は、浅野家から南部侯のお屋敷に替わっていたそうなのだ。
さて、麻布の南部坂。広尾駅から有栖川公園へ向かっていくと、右手にスーパーのナショナル。そのナショナルと公園の間の、ゆるゆるとした道が南部坂だ。
学生のころ、渋谷の学校からテクテク歩き、ナショナルで食糧を仕入れて、有栖川公園でおやつの時間。それから園内の図書館で、一応、調べ物のようなことをする。昭和の空はまだまだ青く、私は呑気だった。そのころの広尾の商店街は、まったくもって庶民的だった。
よく観光地に「○×の奥座敷」という形容があるが、昭和の終わりのころ、広尾も赤坂も、「東京の奥座敷」というような、そんな感じの場所だった。
広尾にも福吉町にも、もうずいぶん行っていない。すっかり違う街になっているのでしょうね…。
しかし、この台詞が分かる人類もだいぶ減ってしまいまして・・・
私が会社勤めの時、必ずやっていたのが、アルバイトの大学生に京橋近辺を案内すること。
地方出身者が多かったから、せめて銀座周辺の知識でも、と思ってね。
50人以上いたと思うのですが、
「ここが八丁堀」と説明して、すぐわかったのは2人でした。
悲しかったです。由緒ある町名なのに。
テレビの時代劇も減ってしまったし、ゲームなんかで忙しいのかも。
十年くらい前に、忠臣蔵好きの友人が、ご主人経営の会社の新人採用の時、
もう、誰選んだって同じだから(最初から教育しなくてはならないから)
「赤穂浪士を3人言ってみなさい」を試験問題にしようかしら、なんて言ってましたが、
答えられる人いなかったのでは。
林芙美子のダンナさん役が小林桂樹だったような気がするので、加東大介で行ってみました。
そうですか、八丁堀が…必殺シリーズも、捕り物帖ブームも、もはや過去のもののようですね。
殺陣も昔の時代劇と違って、日本が舞台でも中華電影ワイヤーアクション路線ですし。
若い世代の方々が歴史に詳しいので、なんでかな~と思っていたら、そうそう、ゲームなのだそうですね。
みなさん戦国や『三国志』に、やたらと詳しい。
愛社精神になぞらえたりして、昭和時代は人気のあった忠臣蔵も、今の世相には合わないということなのでしょう。
義士祭は過ぎたので近いところだとやはり三月十四日というあたりでしょうか、薄桜忌とかいったりして。
時の砂嵐に晒されて、いろいろな記憶がごった煮になっておりますから、そういう資料はいいですね。
瑤泉院で印象に残っているのは、東映のどの忠臣蔵か忘れましたが桜町弘子と(たぶん大川橋蔵が判官)、たぶん大河ドラマの松坂慶子です。