さて、本日は旧暦平成廿五年の十一月七日で、正しく今日は何の日であるかと問えば、379年前の寛永十一年の今日、伊賀上野の仇討があった日である。
…ぁ、これって4年前の本稿にも同じような文言を書きましたね。
(2010年12月22日「伊賀越え」をご参照いただけますれば幸甚です)
あまり声を大にして我が胸の内を明かしたことはないが、日本三大仇討のうち、たぶんもっとも私が愛し執着しているのは、この、鍵屋の辻の因縁譚なんである。
それは何故かと…尋ねられなくても申しますが、たぶん子ども時代を過ぎ、晴れて市井の生活人となり、自分の好みの赴くままに名画座で黄金期のold日本映画に湯水のように浴していた当初、観た作品だったからだと思う。
そして、昭和の終り頃から始めた猫にマタタビ的股旅歴史紀行の第一歩がどこだったかは想い出せないのだが、官軍とは逆に♪西へ~!!と、志向するようになったきっかけが、鍵屋の辻の景色だったことは違い無い。芝居の書割そのままの風景に、関東者は度胆を抜かれたのだ。ただの自然の眺めであるのに情感がある。どこか懐かしいのである。
歴史がある、とはそういうことだ。迂闊なことに、そのとき初めて気がついたのだった。
さて昨秋、今まで手薄になっていた山陰方面を旅した。小学生の私は山中鹿之助も好きだったので、まず、不昧公の松江ではなく、鳥取から倉吉、津山から若桜方面を廻った。
旅の最終日、鳥取城から市街を突っ切って、空港へ向かおうとした日暮れ間近、私は懐かしい文字を道標に見付けてしまったのである。
荒木又右衛門の墓
もう、吃驚した。そのとき頭の中は、その前々日に偶然見つけた里見忠義公の墓のことで、南総里見八犬伝一色になっていたから、物凄くビックリした。
寺社建築の意匠のすごいことときたら。
そうだった。荒木又右衛門が国替えになっていた池田家に帰参叶い、同地で没したことをすっかり忘れていた。
魚心あれば水心。素通りとは水臭い、お待ちなさい…と、又右衛門に呼ばれたのだ。めっちゃウレシイ!!
そして、記憶が胡乱になっていた“三なすび”の謂れを鳥取市に教えていただいた。ありがとうございます。
ところでどうした廻り合わせか、それから一年経った今年の秋、歌舞伎も文楽も、今まで絶えて久しかった『伊賀越道中双六』が連動して通し興行された。
九月の東京国立小劇場文楽公演、11月の大阪国立文楽劇場公演、ともに伊賀の水月マニアの私は見届けました…と改めて又右衛門の墓の御影に告げよう。
で、関連事というのは不思議とつづくもので、つい先月、とある旅の途中で偶々沼津を通りがかってしまったので、千本松原の段よろしく、本当の沼津の千本松原に行ってしまった。
それが表題の写真である。
この日は恐ろしいほどよい天気だったのに、かつて体験したことのないほど激しく、駿河湾の波濤が吹きつけていた。
決死の思いで護岸の堤防に立った私に、どういうわけか松原から、4匹の野良猫が猛然とダッシュし、みゃぁみゃぁ啼きながら土手を駆け登りすり寄ってきた。白と黒の斑、茶虎…みな毛色が違う。
沼津の里の平作一家かも知れなかった。
海風はびょうびょうと松が枝を鳴らしていた。
「だって、お芝居だょ??」
最近、歌舞伎や文楽の評判や感想を聴くと、ちょっと驚く感想を耳にすることが増えた。忠義の為の児殺しが許せないので、伊賀越の岡崎の段は絶対観ない、という意見などもその一つ。
そんなこと言ってたら、もうたいがいの歌舞伎も文楽も能も見られないょ。
凶悪犯罪を取り上げた現代の映画だって、犯罪者がそこに至る心理や状況を慮ってこそ、一つの作品として成り立っているのでしょうに。
なぜ、日本の古典作品となると色眼鏡のレンズが濃く厳しくなるのだろう。
劇中で起きる事象だけを現代の価値観・判断基準で評価するのなら、歌舞伎や文楽を観る意味がないではないか。
…ぁ、これって4年前の本稿にも同じような文言を書きましたね。
(2010年12月22日「伊賀越え」をご参照いただけますれば幸甚です)
あまり声を大にして我が胸の内を明かしたことはないが、日本三大仇討のうち、たぶんもっとも私が愛し執着しているのは、この、鍵屋の辻の因縁譚なんである。
それは何故かと…尋ねられなくても申しますが、たぶん子ども時代を過ぎ、晴れて市井の生活人となり、自分の好みの赴くままに名画座で黄金期のold日本映画に湯水のように浴していた当初、観た作品だったからだと思う。
そして、昭和の終り頃から始めた猫にマタタビ的股旅歴史紀行の第一歩がどこだったかは想い出せないのだが、官軍とは逆に♪西へ~!!と、志向するようになったきっかけが、鍵屋の辻の景色だったことは違い無い。芝居の書割そのままの風景に、関東者は度胆を抜かれたのだ。ただの自然の眺めであるのに情感がある。どこか懐かしいのである。
歴史がある、とはそういうことだ。迂闊なことに、そのとき初めて気がついたのだった。
さて昨秋、今まで手薄になっていた山陰方面を旅した。小学生の私は山中鹿之助も好きだったので、まず、不昧公の松江ではなく、鳥取から倉吉、津山から若桜方面を廻った。
旅の最終日、鳥取城から市街を突っ切って、空港へ向かおうとした日暮れ間近、私は懐かしい文字を道標に見付けてしまったのである。
荒木又右衛門の墓
もう、吃驚した。そのとき頭の中は、その前々日に偶然見つけた里見忠義公の墓のことで、南総里見八犬伝一色になっていたから、物凄くビックリした。
寺社建築の意匠のすごいことときたら。
そうだった。荒木又右衛門が国替えになっていた池田家に帰参叶い、同地で没したことをすっかり忘れていた。
魚心あれば水心。素通りとは水臭い、お待ちなさい…と、又右衛門に呼ばれたのだ。めっちゃウレシイ!!
そして、記憶が胡乱になっていた“三なすび”の謂れを鳥取市に教えていただいた。ありがとうございます。
ところでどうした廻り合わせか、それから一年経った今年の秋、歌舞伎も文楽も、今まで絶えて久しかった『伊賀越道中双六』が連動して通し興行された。
九月の東京国立小劇場文楽公演、11月の大阪国立文楽劇場公演、ともに伊賀の水月マニアの私は見届けました…と改めて又右衛門の墓の御影に告げよう。
で、関連事というのは不思議とつづくもので、つい先月、とある旅の途中で偶々沼津を通りがかってしまったので、千本松原の段よろしく、本当の沼津の千本松原に行ってしまった。
それが表題の写真である。
この日は恐ろしいほどよい天気だったのに、かつて体験したことのないほど激しく、駿河湾の波濤が吹きつけていた。
決死の思いで護岸の堤防に立った私に、どういうわけか松原から、4匹の野良猫が猛然とダッシュし、みゃぁみゃぁ啼きながら土手を駆け登りすり寄ってきた。白と黒の斑、茶虎…みな毛色が違う。
沼津の里の平作一家かも知れなかった。
海風はびょうびょうと松が枝を鳴らしていた。
「だって、お芝居だょ??」
最近、歌舞伎や文楽の評判や感想を聴くと、ちょっと驚く感想を耳にすることが増えた。忠義の為の児殺しが許せないので、伊賀越の岡崎の段は絶対観ない、という意見などもその一つ。
そんなこと言ってたら、もうたいがいの歌舞伎も文楽も能も見られないょ。
凶悪犯罪を取り上げた現代の映画だって、犯罪者がそこに至る心理や状況を慮ってこそ、一つの作品として成り立っているのでしょうに。
なぜ、日本の古典作品となると色眼鏡のレンズが濃く厳しくなるのだろう。
劇中で起きる事象だけを現代の価値観・判断基準で評価するのなら、歌舞伎や文楽を観る意味がないではないか。