人は、美しいものを愛で慈しみ、そしてひいては自らも…創造するために生まれてきた。
誰だっけ、むかし偉い人がそう言ってた…「人はパンのみに生くるにあらず」。
あとを受けて「おかずもいるんです」と茶化したのは昭和の漫才師だったかなぁ。
身体にエネルギーがいるように、心のエネルギーがいるのは当然です。
うつくしいとは、見た目の様子が整っているというだけの、概念ではない。
コンピュータ・グラフィックの為せる技なのか、目の前に実際に見えるものの姿かたちだけとか、耳に聞こえる額面通りの言葉とかしか理解できない…という人が増えちゃったのは、悲しいことである。
一から十まで説明されないと理解できない…想像力の欠如。要するに「察する」というスペックが無いんだ、平成人には。日本人はね、ニンジャだからね、相手の身になって考えるってことができたんですよ、むかしはね…って、笑い話じゃなくて現実なんだ。
なんかね、最近、街を歩いていて電車に乗ったり、お店で買い物したり、電話で社会生活上必要な事務手続きをしたりするとき、やたらと感じます。
まぁ…とにかく、心が渇くと、もう本当に人間は生きていけなくなるから、生ける屍になっちゃうから――そんな心の糧を求めて私は終日うろうろし、うろたえ者になっていた。
人間、心が満たされるとあまりおなかが空かない。胸がいっぱいだと、おなかも一杯になるのだ。霞を食って生きていける、と思えるのは、そんなときだろう。
ありがとう、私をうろたえ者にしてくれた、うつくしき者どもよ。
うろたえて、うろたえ果てて生きる、罪深く恥多き人生の、なんと豊饒なことだろう。
さて、うろたえ者とは、自分が本来なすべき事を忘れ果て、何事かに心奪われて、道を見失ってしまったもののことである。
♪…うろたえ者には誰がした、みんな私が心から…
これはまぁ、むかしは実にポピュラーだった「忠臣蔵」に出てくる詞章ですね。
勘平という、この上もなくうろたえ果ててしまった男を、ガールフレンドのお軽が励ます言葉なんである。
町内で芝居大会なんかやろうものなら誰しもが勘平を演りたがる、そんな色男。小咄に、みんなが勘平役をやりたいので舞台に47人ほど勘平が出た、まさしくカンペイ式→観兵式…まさに大衆芸能の華・落語も形無し、もはや21世紀市民には分かるまい。英語のジョーク覚える前に、国語を勉強しろってなもんでさ。
世の中の常識、誰もが知ってるポピュラーな事柄…というものは、存外寿命が短い。…いや、平成になってからこの20年というもの、明らかに昭和時代の世の移り変わりとは違い加速度を増して変化している、ように思う。
なぜだろう。英語という便利道具を、国の言葉たる国語よりも学習するようになっちゃったからかしら…。
なにはともあれ、最近、AKR四十七というアイドル・グループも誕生して、21世紀の人々に「赤穂浪士」という言葉が存在する、ということだけでも徐々に伝播されてきてよかったわけですけれども。
仮名手本忠臣蔵・四段目、判官切腹…そして城明渡し。緊張と喪失感にふさがれている観客の眼の前に広がるのは、清元舞踊「道行旅路花聟(みちゆき/たびじのはなむこ)」通称・落人(おちうど)の、国破れて山河あり…的心境に導いてくれる、のどかな街道筋の書割。
(常に余談になるが、この詩は絶対的な絶望感の詩であるのに、私には希望の詩に思える。人々の思惑とは別に、人間が滅んでも自然は確固としてそこにあるという、希望)
社内恋愛中のカノジョとの逢瀬のため、仕えている主君の一大事に側近としての務めを全うできず…あまりにも自分の身が立たぬゆえ申し訳に腹切って死のう…と思い詰めているところ、泣いてかき口説くガールフレンドにほだされて、とりあえず、いっしょに逐電して、彼女の実家に身を寄せることになった、武辺の概念ではあり得ないヘナヘナくん・勘平。
むざむざ将来のある若者を失職させ、奉公先の一族および会社組織を滅亡させた、いわば傾国傾城の端に名を連ねる、おかる自身の口から出た言葉である。
恋に生きてるものはさ、とにかく力強いね。
おかるだって、はたから見たらうろたえ者には違いないんだけど、もう確信犯だから、うろたえてはいないのだ。手中に勘平という玉を得て、嬉々として彼女には邁進するべき道があるから。自分の夫のために邁進すべき貞女の道が。
むかしの人は健気だった。自分の身から出た事件の顛末を理解して、原因を自覚していて、それでもって、今のように開き直らない。身から出た錆をよく心得ていて…つまり腹が据わってたんだね。いまの人は腹が据わる代わりに目が据わってる。寄らば斬るゾ!という感じで、混んでる電車に乗りにくいことこの上ない。
それにつけても、なんで義務教育で、必修科目として、ブレイクダンスを教えることになったかなぁ。
あれは、別名ストリートダンスとも言って、道端で披露されている大道芸に発した、いわば門付芸なわけですょね?
日本の芸能で言えば、カッポレですらない。いわば勧進坊主の、チョボクレなわけです。
なんで、どうして“日本”の“学校”で“欧米”の、“末端”文化とも言える文化を、“強制的”に、教えるンですかねぇ??
個々人がやる趣味ならいいですよ、別に、自由だからさ、好きなものを習えばいいわけですョ。
学校で、ですよ。生きてく上で必要不可欠なものを学ばせる、義務教育の学校で、ですよ。
おおざっぱに申しますれば、世の中の産業というものは、芸能に携わる人と、生産に携わる人と…人間の生業は、「身体の糧」をつくるものと「心の糧」をつくるものに二分される。全員が心の糧をつくる人になるわけではない。
鑑賞するのと、自分たちがやるのとでは、天と地ほどの開きがある。…それともこの日本国は、今や、ショウビジネス、観光業で身を立てようとしているのかしら?
インタビュアーが街頭で一般市民の声を拾っていた。中学生本人は「自分が踊れるかどうか心配です」「うまく踊れなかったら恥ずかしいし」。
コメンテーターはしたり顔で「恥ずかしがらないでやってみればきっとうまくいくと思うよ」。
…その「恥ずかしい」の意味が違う。
わたし、昭和の中学生でよかった…だってゼッタイに嫌だ。あんな品のない踊り踊るの。
観て愉しむのと、自分がやるのと、天と地ほどの開きがある。それはまあ、素晴らしい身体能力ですょ。パフォーマンスのすごさには舌を巻きます。
でもさ、学校で学ばせる基礎的な素養が、他国の決してスタンダードとはいえない、底辺に位置する民が自分たちの生活の慰みに踊るようなものから派生したサブカルであって、いいの?
自分たちのアイデンティティの要である、国の文化も知らないで、他国の余興的ダンスを学校で習わせようというのである。
何を血迷うておるのだろうか。
日本人て何。日本の国って何。日本人の品格とか、ちょっと前まで言ってたけど、学校で、何のかかわりもないよその国のブレイクダンス習わせちゃう国になっちゃったんだね、日本は。
もはや、世界中でいちばん奥ゆかしくて上品で、他に類を見ない美しい文化を築き、黄金の実る国で生まれ暮らしていく…とかいわれてた日本人は、この地球上のどこにもいないのだ。
ニッポンジン…日本人の品格、それは幻影だったのですね。
日本人自身が、日本文化のスタンダードなものを継承せずして、いったい地球上のどこの民族が、この不可思議きわまりない文化を継承していくというのだろう。
そうして、誰も気がつかないまま、日本国もインカ帝国のように、忘れ去られた廃墟のようにして、何世紀もののち、誰かに発見されるようなものになって行くのだろうか。
いやいや、未来予想ではない。すでにそうなっていたのでした。ボストン美術館展を里帰り上等!!とか言って、みんな喜んでみてるんだもんね。
私も美しいものを見るのは大好きだ、美しいものを見ていればただそれだけで生きていけそうな気がする……でも胸が痛くなる。なんで私たちは、こんなにも美しいものを、あのとき、手放してしまったんだろうか…って。
学校はいったい、何を教えているのだ。宮崎駿はスタンダードじゃないよ。
スタンダードがなくちゃサブカルも生まれないのだ。
若者に人気がある、流行している、そんな俗っぽいものばっかり学校で教えていたら、本流となるものは、いつどこで体得するのだろうか。文化の底が浅くなるのは当然なのだ。
日本の伝統文化に対する、昨今の大衆的な見解はこうだ。――むずかしくて分からない、敷居が高い…って、なんでやねん。こころざしが低いよ。
DNAが同じ、自分たちの先祖が丹精してこしらえてきた文化なのに、そんな一言で片づけて恥ずかしくないのか。
コンピュータだって、人間がつくるんだよ。
ピラミッドを見上げて、あれってどうやって拵えたんだっけ?って言ってる人達になっちゃうょ。
日本という土壌が培って育ててきた、日本人が生みだし伝えてきた文化は、日本人にしか受け継ぐことはできないんです。そしてまた他国のものがその魅力にうろたえて、いかにその美しさを真似ようと思っても、どこかしらやっぱり、違う。
文化の本筋とは、そんなものです。
昨日や今日、理屈でわかった気になってるようなものがやってみたって、その程度のものにしかならない。
それは日本の文化だけに限らない。他国のものがいかように努力しても、自国の文化を受け継ぐ人々の凄さは、そのDNAを持たない者には真髄までは成し得ない。
自国の文化とはそれほどの厚みのあるものなんですよ。
こんなに素晴らしい、他国がうらやむほどの豊饒な芸術文化が日本にはあるというのに、それを慈しみ理解しようともせず…それでも、隣国の新奇なもののほうがいいのだろうか。
二千年近く前に中国でつくられた四字熟語に「家鶏野鶩」ってのがあるけど、人間は永遠に、歴史から学ぶことすらできないんだね。
うろたえ果てた揚句すべてを失って、気がついたときにはもう遅いのだ。
失われた技術・文化は、決して二度とふたたび、生みだすことはできないというのに。
誰だっけ、むかし偉い人がそう言ってた…「人はパンのみに生くるにあらず」。
あとを受けて「おかずもいるんです」と茶化したのは昭和の漫才師だったかなぁ。
身体にエネルギーがいるように、心のエネルギーがいるのは当然です。
うつくしいとは、見た目の様子が整っているというだけの、概念ではない。
コンピュータ・グラフィックの為せる技なのか、目の前に実際に見えるものの姿かたちだけとか、耳に聞こえる額面通りの言葉とかしか理解できない…という人が増えちゃったのは、悲しいことである。
一から十まで説明されないと理解できない…想像力の欠如。要するに「察する」というスペックが無いんだ、平成人には。日本人はね、ニンジャだからね、相手の身になって考えるってことができたんですよ、むかしはね…って、笑い話じゃなくて現実なんだ。
なんかね、最近、街を歩いていて電車に乗ったり、お店で買い物したり、電話で社会生活上必要な事務手続きをしたりするとき、やたらと感じます。
まぁ…とにかく、心が渇くと、もう本当に人間は生きていけなくなるから、生ける屍になっちゃうから――そんな心の糧を求めて私は終日うろうろし、うろたえ者になっていた。
人間、心が満たされるとあまりおなかが空かない。胸がいっぱいだと、おなかも一杯になるのだ。霞を食って生きていける、と思えるのは、そんなときだろう。
ありがとう、私をうろたえ者にしてくれた、うつくしき者どもよ。
うろたえて、うろたえ果てて生きる、罪深く恥多き人生の、なんと豊饒なことだろう。
さて、うろたえ者とは、自分が本来なすべき事を忘れ果て、何事かに心奪われて、道を見失ってしまったもののことである。
♪…うろたえ者には誰がした、みんな私が心から…
これはまぁ、むかしは実にポピュラーだった「忠臣蔵」に出てくる詞章ですね。
勘平という、この上もなくうろたえ果ててしまった男を、ガールフレンドのお軽が励ます言葉なんである。
町内で芝居大会なんかやろうものなら誰しもが勘平を演りたがる、そんな色男。小咄に、みんなが勘平役をやりたいので舞台に47人ほど勘平が出た、まさしくカンペイ式→観兵式…まさに大衆芸能の華・落語も形無し、もはや21世紀市民には分かるまい。英語のジョーク覚える前に、国語を勉強しろってなもんでさ。
世の中の常識、誰もが知ってるポピュラーな事柄…というものは、存外寿命が短い。…いや、平成になってからこの20年というもの、明らかに昭和時代の世の移り変わりとは違い加速度を増して変化している、ように思う。
なぜだろう。英語という便利道具を、国の言葉たる国語よりも学習するようになっちゃったからかしら…。
なにはともあれ、最近、AKR四十七というアイドル・グループも誕生して、21世紀の人々に「赤穂浪士」という言葉が存在する、ということだけでも徐々に伝播されてきてよかったわけですけれども。
仮名手本忠臣蔵・四段目、判官切腹…そして城明渡し。緊張と喪失感にふさがれている観客の眼の前に広がるのは、清元舞踊「道行旅路花聟(みちゆき/たびじのはなむこ)」通称・落人(おちうど)の、国破れて山河あり…的心境に導いてくれる、のどかな街道筋の書割。
(常に余談になるが、この詩は絶対的な絶望感の詩であるのに、私には希望の詩に思える。人々の思惑とは別に、人間が滅んでも自然は確固としてそこにあるという、希望)
社内恋愛中のカノジョとの逢瀬のため、仕えている主君の一大事に側近としての務めを全うできず…あまりにも自分の身が立たぬゆえ申し訳に腹切って死のう…と思い詰めているところ、泣いてかき口説くガールフレンドにほだされて、とりあえず、いっしょに逐電して、彼女の実家に身を寄せることになった、武辺の概念ではあり得ないヘナヘナくん・勘平。
むざむざ将来のある若者を失職させ、奉公先の一族および会社組織を滅亡させた、いわば傾国傾城の端に名を連ねる、おかる自身の口から出た言葉である。
恋に生きてるものはさ、とにかく力強いね。
おかるだって、はたから見たらうろたえ者には違いないんだけど、もう確信犯だから、うろたえてはいないのだ。手中に勘平という玉を得て、嬉々として彼女には邁進するべき道があるから。自分の夫のために邁進すべき貞女の道が。
むかしの人は健気だった。自分の身から出た事件の顛末を理解して、原因を自覚していて、それでもって、今のように開き直らない。身から出た錆をよく心得ていて…つまり腹が据わってたんだね。いまの人は腹が据わる代わりに目が据わってる。寄らば斬るゾ!という感じで、混んでる電車に乗りにくいことこの上ない。
それにつけても、なんで義務教育で、必修科目として、ブレイクダンスを教えることになったかなぁ。
あれは、別名ストリートダンスとも言って、道端で披露されている大道芸に発した、いわば門付芸なわけですょね?
日本の芸能で言えば、カッポレですらない。いわば勧進坊主の、チョボクレなわけです。
なんで、どうして“日本”の“学校”で“欧米”の、“末端”文化とも言える文化を、“強制的”に、教えるンですかねぇ??
個々人がやる趣味ならいいですよ、別に、自由だからさ、好きなものを習えばいいわけですョ。
学校で、ですよ。生きてく上で必要不可欠なものを学ばせる、義務教育の学校で、ですよ。
おおざっぱに申しますれば、世の中の産業というものは、芸能に携わる人と、生産に携わる人と…人間の生業は、「身体の糧」をつくるものと「心の糧」をつくるものに二分される。全員が心の糧をつくる人になるわけではない。
鑑賞するのと、自分たちがやるのとでは、天と地ほどの開きがある。…それともこの日本国は、今や、ショウビジネス、観光業で身を立てようとしているのかしら?
インタビュアーが街頭で一般市民の声を拾っていた。中学生本人は「自分が踊れるかどうか心配です」「うまく踊れなかったら恥ずかしいし」。
コメンテーターはしたり顔で「恥ずかしがらないでやってみればきっとうまくいくと思うよ」。
…その「恥ずかしい」の意味が違う。
わたし、昭和の中学生でよかった…だってゼッタイに嫌だ。あんな品のない踊り踊るの。
観て愉しむのと、自分がやるのと、天と地ほどの開きがある。それはまあ、素晴らしい身体能力ですょ。パフォーマンスのすごさには舌を巻きます。
でもさ、学校で学ばせる基礎的な素養が、他国の決してスタンダードとはいえない、底辺に位置する民が自分たちの生活の慰みに踊るようなものから派生したサブカルであって、いいの?
自分たちのアイデンティティの要である、国の文化も知らないで、他国の余興的ダンスを学校で習わせようというのである。
何を血迷うておるのだろうか。
日本人て何。日本の国って何。日本人の品格とか、ちょっと前まで言ってたけど、学校で、何のかかわりもないよその国のブレイクダンス習わせちゃう国になっちゃったんだね、日本は。
もはや、世界中でいちばん奥ゆかしくて上品で、他に類を見ない美しい文化を築き、黄金の実る国で生まれ暮らしていく…とかいわれてた日本人は、この地球上のどこにもいないのだ。
ニッポンジン…日本人の品格、それは幻影だったのですね。
日本人自身が、日本文化のスタンダードなものを継承せずして、いったい地球上のどこの民族が、この不可思議きわまりない文化を継承していくというのだろう。
そうして、誰も気がつかないまま、日本国もインカ帝国のように、忘れ去られた廃墟のようにして、何世紀もののち、誰かに発見されるようなものになって行くのだろうか。
いやいや、未来予想ではない。すでにそうなっていたのでした。ボストン美術館展を里帰り上等!!とか言って、みんな喜んでみてるんだもんね。
私も美しいものを見るのは大好きだ、美しいものを見ていればただそれだけで生きていけそうな気がする……でも胸が痛くなる。なんで私たちは、こんなにも美しいものを、あのとき、手放してしまったんだろうか…って。
学校はいったい、何を教えているのだ。宮崎駿はスタンダードじゃないよ。
スタンダードがなくちゃサブカルも生まれないのだ。
若者に人気がある、流行している、そんな俗っぽいものばっかり学校で教えていたら、本流となるものは、いつどこで体得するのだろうか。文化の底が浅くなるのは当然なのだ。
日本の伝統文化に対する、昨今の大衆的な見解はこうだ。――むずかしくて分からない、敷居が高い…って、なんでやねん。こころざしが低いよ。
DNAが同じ、自分たちの先祖が丹精してこしらえてきた文化なのに、そんな一言で片づけて恥ずかしくないのか。
コンピュータだって、人間がつくるんだよ。
ピラミッドを見上げて、あれってどうやって拵えたんだっけ?って言ってる人達になっちゃうょ。
日本という土壌が培って育ててきた、日本人が生みだし伝えてきた文化は、日本人にしか受け継ぐことはできないんです。そしてまた他国のものがその魅力にうろたえて、いかにその美しさを真似ようと思っても、どこかしらやっぱり、違う。
文化の本筋とは、そんなものです。
昨日や今日、理屈でわかった気になってるようなものがやってみたって、その程度のものにしかならない。
それは日本の文化だけに限らない。他国のものがいかように努力しても、自国の文化を受け継ぐ人々の凄さは、そのDNAを持たない者には真髄までは成し得ない。
自国の文化とはそれほどの厚みのあるものなんですよ。
こんなに素晴らしい、他国がうらやむほどの豊饒な芸術文化が日本にはあるというのに、それを慈しみ理解しようともせず…それでも、隣国の新奇なもののほうがいいのだろうか。
二千年近く前に中国でつくられた四字熟語に「家鶏野鶩」ってのがあるけど、人間は永遠に、歴史から学ぶことすらできないんだね。
うろたえ果てた揚句すべてを失って、気がついたときにはもう遅いのだ。
失われた技術・文化は、決して二度とふたたび、生みだすことはできないというのに。