長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

ハサイダー

2015年01月05日 15時15分15秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ハカイダーじゃないょ、ハサイダーだょ。
 どうした加減だったか想い出せない。昨夏、安曇野へ行った弾みで黒部ダムへ行ってしまったのだ。
 観光するならば私は山よりは海のたちである。山は怖いのだ。私が小学生の頃、やたらと山岳小説が流行って…三浦綾子や新田次郎、そして松本清張の黒い画集シリーズまで、山へ行くと決まって遭難するような劇的な状況があると刷り込まれたので、とても怖いのだ。
 死ぬなら海。今じゃなくて海。

 それはさておき、そうだ…偶々その旅程のちょっと前に映画「黒部の太陽」を何十年か振りにちらっと観てしまったのと、ダムマニアである友人の顔を想い出したからかもしれない。
 石原プロ肝煎りの「黒部の太陽」は、工事関係者たちのトンネルが貫通し鏡割りした祝い酒をヘルメットで酌みかわすという、酒豪・弁慶の存在も薄くなろうというシーンが感動的な映画である。
 …しかし私はそれしか覚えていなかった。ダム工事なのになにゆえトンネルを掘っていたのか?

 改めて考えてみるとヘンである。迂闊だった。総ての物事には必ず因果関係があるのだ。
 昭和20年代後半、慢性的な電力不足に悩んでいた大阪方面に電気を供給するべく発電所とダムの建設が急がれていた。そこでコンクリートの打設が少なくて済む、谷間の地形を利用したダムが計画されたのだが、天然の要害へ至る道が無い。建設資材を運ぶためにまず、トンネルが掘られたのだった。
 …そうだったのだ。
 そして偶然とは恐ろしいもので、たまたま昨夏は日本が世界に誇る特撮技術映画・ゴジラも記念番組が組まれており、さらに私はなつかしのゴジラ映画まで再見したのだが、シリーズ第2作のゴジラの逆襲だったかが、電力不足に悩む大阪が舞台だった。
 パズルがピタリとハマる瞬間の快感。
平成26年の夏、昭和30年当時のゴジラと電力とダムを結ぶ因果関係が、半世紀の時を超えて私の頭の中で結実したのだった。
  
 そんなことを、CS放送で偶々見ていた私は、ふと実物を体感したい気になったのかも知れない。
 そしてダムマニアではない私は、自分が渡船マニアであったことを想い出し、ダム湖の遊覧船に乗ることを忘れなかった。

 

 ダム湖のほとりで私は泣いた。ちょうど夏場の観光シーズンとて、黒部ダムの人となりを伝える、丁寧に制作された記録映画が上映されていた。昭和の名優たちが妍を競ったあの映画よりも、直截に胸にこたえた。なんという遠大な道のりを経てこのダムは完成したことであろう。
 多くの人々のたっとい志の末に結実したさまざまな仕組みの上に成り立って、私たちは恙なく今日もこうして生きてあるのだった。 


 
 ダム工事をするためのトンネルを造る工事において一番難関だったのが破砕帯を突破することであった。
 ダムへ至る通路の売店で、なにやらほのぼのとする幟旗を見かけた。
 その秀逸なネーミングに私は思わず近寄った。破砕帯から湧出する地下水を炭酸水にしたサイダーが発売されていたのだった。



 それにつけても、その天才的な商品名に反してこの控え目な売り出しぶりはどうしたことか。真面目な人に不謹慎であると咎められたりしたのだろうか。
 でも、きっと。私は考える。
 重い歴史の一面として触れることに遠慮が生じるよりも、そうか、そんな機知にとんだ商品名がつけられる心豊かな時代がやってきたのか、とダムを守る天上の方々が、そう思って嬉しく眠りについてもらいたい。そういう遊び心に富んだ状況が、存在し得る世の中であってほしい。


 
 どんなに便利で機能的なことどもも、すべては一人一人の人間の微細な努力からできあがっているのである。

 そんなわけで手に入れたハサイダーだものだから、私にはまだ勿体なくて飲めない。
コメント
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