一年のほぼ半分を冬眠して過ごした令和二年、極月最後の稽古日。
東京脱出を果たし、鎌倉に移住したお弟子さんが、今年は帰省できないので、はじめてお正月を関東で過ごすと言う。
「一人で過ごすのも寂しいんですが、北鎌倉は鎌倉五山のうち四つのお寺があるから、除夜の鐘の聞き分けが出来るそうで、それも愉しみなんです」
「えぇつ!! いいなぁぁあ……!!!」
心底うらやましげな私の声を聞いて、彼女は水月観音菩薩の現し身の如く、コロコロと笑った。
と、同時に私は、狂言の『鐘の音』そのままの話じゃないかと、もの凄くびっくりした。
狂言〈かねのね〉は、例によって粗忽な太郎冠者が、ご主人に金の値…(要するに為替レートですな、と、バイリンガルな件んのお弟子さんに説明したら聡明な彼女はすぐに分かってくれた)を訊いてこいと言われて、本当に、お寺の鐘の音を聞きに行ってしまう物語である。
もう、本当にしょうがないなぁ太郎冠者と来たら…と呆れつつも、狂言方の鐘の音の擬音表現が実に面白く、実際に鎌倉詣でをしたようなお得な感覚を見所に居るものに分け与えてくれる、今でいえばTVの旅番組の味も持ち併せている不思議な演目ではあるのだが、
実を言えば私には、太郎冠者のこの余りにもストレートで愚直な発想が、とても他人と思えない。
そして、室町期に成立したであろうこのエピソードが、はるか時を超えて、21世紀の私たちの身の上に実感される日常として存在し続けていることに、背筋がゾクゾクッとする妙な感慨を覚えずにはいられなかった。
変わり続けているのに、変わらないもの。
…それが見たくて今日も私は、この世に在り続けるのかもしれない。
…という記事を、12月28日朝、コロナ禍ゆえ日本中から疎まれた2020年の東京都民としては、拗ね者っぽく綴ってみようかと思ったが、例によってアップできぬまま、旧暦令和二年霜月十五夜が過ぎてしまった。
2020年大晦日、朝起きたら、望月が西の空に残っていた。
蒼空を見渡せば、わが左手には機嫌よく富士山もいて御座る。
東京脱出を果たし、鎌倉に移住したお弟子さんが、今年は帰省できないので、はじめてお正月を関東で過ごすと言う。
「一人で過ごすのも寂しいんですが、北鎌倉は鎌倉五山のうち四つのお寺があるから、除夜の鐘の聞き分けが出来るそうで、それも愉しみなんです」
「えぇつ!! いいなぁぁあ……!!!」
心底うらやましげな私の声を聞いて、彼女は水月観音菩薩の現し身の如く、コロコロと笑った。
と、同時に私は、狂言の『鐘の音』そのままの話じゃないかと、もの凄くびっくりした。
狂言〈かねのね〉は、例によって粗忽な太郎冠者が、ご主人に金の値…(要するに為替レートですな、と、バイリンガルな件んのお弟子さんに説明したら聡明な彼女はすぐに分かってくれた)を訊いてこいと言われて、本当に、お寺の鐘の音を聞きに行ってしまう物語である。
もう、本当にしょうがないなぁ太郎冠者と来たら…と呆れつつも、狂言方の鐘の音の擬音表現が実に面白く、実際に鎌倉詣でをしたようなお得な感覚を見所に居るものに分け与えてくれる、今でいえばTVの旅番組の味も持ち併せている不思議な演目ではあるのだが、
実を言えば私には、太郎冠者のこの余りにもストレートで愚直な発想が、とても他人と思えない。
そして、室町期に成立したであろうこのエピソードが、はるか時を超えて、21世紀の私たちの身の上に実感される日常として存在し続けていることに、背筋がゾクゾクッとする妙な感慨を覚えずにはいられなかった。
変わり続けているのに、変わらないもの。
…それが見たくて今日も私は、この世に在り続けるのかもしれない。
…という記事を、12月28日朝、コロナ禍ゆえ日本中から疎まれた2020年の東京都民としては、拗ね者っぽく綴ってみようかと思ったが、例によってアップできぬまま、旧暦令和二年霜月十五夜が過ぎてしまった。
2020年大晦日、朝起きたら、望月が西の空に残っていた。
蒼空を見渡せば、わが左手には機嫌よく富士山もいて御座る。