長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

敦盛1560

2011年06月20日 21時00分00秒 | フリーク隠居
 「五月闇(さつきやみ)」という言葉がある。
 梅雨時の空。雲が重く深く垂れこめて、昼間なのに暗い。いまの世の中、真っ暗闇じゃあ、ござんせんか…という心の闇をも写しているような、そんな天候の状態を指す言葉だ。
 明治以降の新暦の季節感が身にしみてしまっている私たちは、五月の空…というと、かぐわしき薔薇の香に彩られた、限りなく爽やかな明るい青い空を想ってしまうので、瞬時には理解できないかもしれない。
 でも、旧暦の五月、新暦6月の梅雨時の空を思い浮かべれば、具体的に共感できるはずだ。
 篠突く雨を縫うように低くツバメが飛び、ホトトギスが啼く。雨が激しくなると雨音以外何も聞こえない。目にも闇、耳にも闇。
 何か事を起こそうと企んでいる者たちにとっては、絶好のロケーションである。
 今日は、旧暦では、平成廿三年五月十九日。
 今からざっと450年ほど前、西暦1560年、和暦にすれば永禄三年の今日。
 まだ何の栄誉も力も持っていなかった27歳の織田信長は、乾坤一擲の大勝負に出た。五月闇のゲリラ豪雨を一期として、大大名・今川義元を2000の寡兵で討ち取ったのだ。桶狭間の戦いである。
 
 信長くんと同年齢の平成時代の私は、では、何をしていたのかというと、市川雷蔵主演の『若き日の信長』をレイト上映で観て、池袋の喫茶店で始発電車の動くのを待っていた。…………。要するに、いまだ、うつけていた。
 大仏次郎原作、森一生監督のこの映画は、行く手に暗雲ひろがる天空の下、信長くんが桶狭間めざして馬を駆る、その後ろ姿で終わる。
 二十代、私は自分が生まれる前の日本を知りたくて、名画座の薄闇のなかに身を潜めていた。眼前に映し出されるセピアカラーの世界は、ことさらに五月闇で、時代劇でよくいう「風雲急を告げる」情景が繰り広げられていた。そのころの私には…そうそう、『台風クラブ』という映画もあったけれど、土砂降りの雨に打たれたい願望、というのがあった。なんだろう。……若さゆえ??
 古城めぐりと同時に古戦場めぐりもしていたので、同時期に田楽狭間と、大高城、丸根砦、鷲津砦跡を探しにも行った。430年後の戦の痕は、住宅地の中に、こんもりとした藪の塊のような小山を、ただ残すのみだった。

 そしてまた、3.11の震災からこっち、私が何をしていたかというと、三味線弾きは三味線を弾くしかないわけだが、それと同時に踊ってもいた。
 幕末に「えじゃないか」が流行る。不安を感じると、人間は、もう、じっとしていられない…!らしい。精神的なものを振り払うには精神で克服するしかないのだが、それはなかなかに難しい。肉体を疲労させることによって思考を停止させ、心的ダメージを、一時的ではあれ解消するくふうが、踊ることなのかもしれない。
 身体を動かすことによって、極度の緊張状態から逃れるという、無意識の意思、異なる形で表出した防御本能。

 桶狭間に出陣する前の信長くん、愛踊していた幸若舞「敦盛」を三たび舞った。
 3.11直後の私が舞っていたのは何かというと、昨年末の大晦日、ひたすら年賀状を書いていた手すさび…いや目すさびに、たまたま特番で観て以来、密かに贔屓にしていた戦国鍋TVの「敦盛2011」、これである。

 とはいえ、私が踊っているということ自体、はっきり言って、これはかなりの天変地異なのである。
 長唄はご存知のように、踊りの地方(じかた)を勤めるが、私は踊りたいと思ったことは一度もない。この世界に入る前、歌舞伎の舞台で役者が美しく踊るのを観ていても、どうしても後ろの雛段に並ぶ長唄連中に目が行ってしまうのだった。…まあ、だから三味線弾きになったわけではあるが。
 高校生のとき、レクリエーションの時間にジェスチャー・ゲームというのをやって、私のお題が「ピンク・レディ」だったとき、頭の中にあの「ユー・フォー!」というフレーズが浮かんだが、とてもとても、私には出来なかった。
 いや、never…絶対に、やりたくなかったのである。

 町内盆踊り大会以外、お稽古もしていない人間が踊ることといったら、昭和50年代の庶民にはなかった。戦後すぐダンスが流行ったらしい話は母から、ゴーゴーが流行っていたのも叔母の様子を見て幼稚園児の私は察知していたが、祭りや余興の特例以外で意味もなくジタバタしていると、何ですか、はしたない、そんな踊ったりして芸人みたいに…と怒られるのが、昭和の普通の家庭だったのである。
 ゲームで勝つことより、16歳の女子高生は、自分の誇りを汚されるのが嫌だった。損得を捨てて理念に生きる、滅びの美学を選択していたのだ。…ま、そんな大層なものじゃありませんけどね。
 それに私は、小学生の時に、すでにアイドルとは決別していた。

 あれは何年生の時だったろう、もうとにかく、天使のように可愛かった郷ひろみのファンだった私は…ジャニーズ事務所に所属していたころの郷ひろみは、2000年代、スペイン1部リーグのバレンシアに在籍していたアルゼンチン代表のアイマール君にそっくりな美少年だった…ちょうど、デビューシングル「男の子女の子」から「よろしく哀愁」、LP盤「ひろみの部屋」まで、総てのアルバムを揃えていたのだったが、小学6年生の秋、突如思い立って、アイドルから卒業することにしたのだった。大切に集めていた明星などの雑誌の切り抜きは、庭の焚火で燃やした。
 レコードは、有楽町のハンターというレコード買い取り専門店に持っていった。全部で500円だった。ちょっと…いや、かなり悲しくて、小学生なのに黄昏た心持ちになったが、お金の多寡ではなく、踏ん切りをつけたかったので処分した。

 中学時代、私は夕飯が済むとそそくさと勉強部屋に籠り、NHK教育ラジオ放送で「中学生の勉強室」という番組を聴くことを義務付けられていた。
 そんな私に親友のビッケちゃんは毎日、昨晩のテレビ番組の内容を教えてくれたのだった。そのときのお笑い番組のギャグ、決め台詞に「そういう時には踊るんだよ~」というものがあった。仕手は小松の親分さんこと小松政夫だったのか、「時間ですよ」の樹木希林演ずるジュリー!と叫んで身悶えするおばあちゃんだったのか、もう思い出せないのだけれども。
 バブル期にお立ち台ギャルが流行った時も、私は寄席通いに忙しく、結局ディスコとやらへは一歩も足を踏み入れたことがなかった。
 パラパラが流行ったとき、高校生のお弟子さんが稽古場で踊って見せてくれたが、へぇ、てなもんで、若いモンはいいねえ、なんて、横丁のご隠居のように他人事であった。

 それが、である。
 私には、一度聴いた印象的な歌は、即座に覚えてしまうという特技がある。
 戦国鍋テレビのミュージック・トゥナイト。ここで披露される歴史上の人物たちのユニットによる架空のなんちゃってソングは、その存在意義を超越して、あまりにも秀逸なのだった。歌詞を吟味すればするほど、よくできている。
 「たぶん利休七哲」の唄い出しのソロパートは、歴史的重要語句を列挙しながら、歌詞のそれぞれが見事に韻を踏んでいるし、♪武功もお茶も立てるのさ…で、私は倒れた。
 そして「敦盛2011」。近年のアイドルのことは知らないが、ジャニーズ系のパロディというのはよくわかる。イントロから受ける印象で、私は「よろしく哀愁」を想い出した。♪下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり…などなど、深く考えずに一緒に歌える耳慣れた歌詞の数々。
 そしてまた、なんちゃってソングを真剣に踊り歌う、俳優さん達の尊い汗と笑顔。
 シリアスなものを上手にやるのは誰だってできる。
 ともすれば人に卑下され、侮蔑されるようなことを、真剣に身を挺して提供する、これはまさしくプロフェッショナルの仕事である。

 気がついたら一緒に踊っていたのだ。これは私の平成の「えじゃないか」、なのである。3月は揺れる大地からの、そして4月は、師匠にお小言を戴き悄然として家路を辿る私の、救済ソングになっていた。

 小学生のころ、家族をはばかり、深夜こっそり起きだして居間のテレビで観ていた東京12chの「モンティ・パイソン」と同じように、私は戦国鍋テレビを愛した。
 またヘンなものに凝って…と皆に言われようが、ええ、ままよ、である。
 いま世の中の主流をいき、流行しているものを観たとて、私の果てしなきエンタメ心を満たしてくれるものは何一つとしてない。

 私は出来上がっているものには興味はないのだ。
 完成していないから観ていて面白い。
 天下を取ったらその時点でオシマイなのだ。人間何かに満足したら、その時点で成長は止まる。天下を取った者たちが狎れ合いで「こんなもんでどうでしょう?」みたいに商品を差しだしてくる、そんな世界に何の興味もないのだ。
 自分が面白いと思うものしか、面白くない。それは金鉱脈を探し当てる山師の性分にも似て、面白いものを求めてやまぬ私の嗅覚を刺激してくれるものは、いまだ地中に埋もれているか、地上に現れたもののうち、ごく限られたところにしか存在しないのだ。有名人とやらの茶飲み話を呑気に聴いているほど、私のエンタメ心は、錆びちゃあいないのである。

 魂の解放を求めて、人は踊る。
 桶狭間から22年後。信長くんの覇業は目前で潰え、彼は卒然としてこの世から姿を消してしまう。

 学研の「科学と学習」誌の附録の小冊子、マンガ版戦国武将伝のアンソロジーをバイブルとして持ち歩いていた小学4年の時から、なんでこんなに細く長く、信長くんが気にかかるのか、いま分かった。

 彼は永遠に、未完成だからである。
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戦勝鍋

2011年02月03日 23時55分00秒 | フリーク隠居
 「あ、アータ、長友がインテルにって、こりゃすごいことなんスョ!」
 携帯のモバイルニュースでその記事を読んだとき、行き交う人の誰かれ構わず胸ぐらをつかんで教えてあげたい気分になった。
 …アブナイ、危ない。折しも渋谷駅の東急東横店から井の頭線のホームへ至る、長いコンコースを渡っていた。通路は雑踏であふれ返り、いつもながらの人、また人。
 凄い、スゴイよ、すごいよ!!マサルさん…と、私の頭の中では、10年以上前に流行ったシュール漫画のタイトルが、すごい勢いでぐるぐると回っていた。

 私が一生懸命、イタリアはセリエAのリーグ戦を観ていたのは2003年から2008年ごろまでの数シーズンだった。
 当時インテルは、同じミラノを本拠地とするミランに競り勝ちたくて、大富豪のオーナーがほうぼうから名選手を移籍させ(そのさまは、ウィリアム・ワイラー監督の映画『コレクター』を彷彿とさせるド迫力だった)、かといってあまりにもスター選手ばかりだったのでチームとしてのまとまりを欠き、いつも優勝を、涙を呑んで見送っていたチームだった。
 その時分、モレッティというイタリアのビールを飲むたび、これはインテルの会長・モラッティさんがつくっているのではないだろうな…と眉間にしわを寄せて考え込んだりしていたが、「レ」と「ラ」じゃ一字違いでも「レモンのレ」と「ラッパのラ」というように5度分、大いに違うから、やっぱり無関係なのでしょう。

 監督はしょっちゅう変わり、油でリッチになったアブラモビッチ会長のもとで何かと話題を提供した元チェルシーのモウリーニョ監督を招聘し、悲願がかなったシーズンには、すでにわが楽園の夢は、ユヴェントスの八百長事件騒動で終焉を告げていたのだった。
 だから、私の記憶の中の、青と黒のストライプのユニを着ている選手は、レコバだったり、重戦車ヴィエリだったりする。

 さて、皆さんそれぞれご贔屓もありましょうが、私が昨夏のワールドカップで印象に残った選手は、なんといっても長友だった。
 長友は、苦しいときによく仕事を回してくれた私の大恩人に顔立ちがよく似ていて、その人は若いとき、アリスの谷村新司によく間違われたそうだ。年長けてから、松山に旅行して、正岡子規の横顔の写真が目印の、ご当地ビールのラベルを見たとき、「あ、これ、オレじゃん…」と、衝撃を受けたそうである。
 その長友が移籍したあと、FC東京がJ1から陥落したのは、何とも言えず残念なめぐり合わせだった。勝負の世界の明暗は、こんなところにもある。

 1月の最終週に演奏会が重なって調達にも行けず、我が家の食糧庫も存亡の危機に瀕していた。
 それでも冷蔵庫のなかに、大根、白菜、生姜、長ネギ、油揚げ、酒粕……そして幾日か前にスーパーで、珍しいことに金時ニンジン(しかも「香川」県産!)というのを入手していたのだった。
 京ニンジンに似て、茹でると鮮やかな紅色になる。まるで舞妓はんが差す、べにのように。普通のニンジンの青臭さがなくて、まっこと甘いのだ。これは坂田金時のお顔の色に似ているからなのか、それとも金時芋に似た味わいから来たネーミングなのか。

 以前、サッカー王国の虜になっていた私は、相手チームを折伏するために、マクベスの魔女のようにお鍋をぐつぐつ煮てみたりもしたのだが、2011年の私は、もはやそれらの呪縛から解き放たれていた。
 日の丸に見立てて、金時ニンジンを輪切りにするという手もあったが、あまり美味しそうじゃない。4ミリほどの厚さの短冊に切ることにした。
 鍋に人参を入れるという取り合わせは、決勝の延長戦でのザック監督の采配にも似て、初の試みだったが、絶妙な酒粕鍋が出来上がった。

 戦勝鍋…そういえば、もうずっと昔、私が最初に嫁いだ家では、毎年8月15日の献立は、水団と決まっていた。昭和ひとケタ世代の義理の両親が、戦争中の苦しさを忘れないために…と、次世代の私たちに強要するでもなく、自らに課して実行していたことだった。敗戦鍋。

 …紅白の彩りも美しい鍋を前に、そんな遠い日の出来事を想い出す。
 代表チームが艱難辛苦の末、手に入れた祝杯のご相伴にあずかる私にも、むしろ、あり合わせの鍋がふさわしいのかもしれない。
 音楽家にとっては、本番前…演奏会のカウントダウン期間中も臨戦態勢、と、言えなくもないから、これまた戦時下の糧食である。
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待て、而して希望せよ

2010年07月12日 18時00分00秒 | フリーク隠居
 スペインの歓喜の陰で、私は泣いた。…だってオランダを応援していたのだもの。
 決勝戦を途中から見始めたときは、どちらでもよかったのだが、実況放送解説者が、どうやらスペイン優勝のスタンスで解説しているらしい感じをうけたので、一挙にオランダに傾いたのだ。
 …判官びいき。メジャーなものをあえて応援する必要はない、というのが、実は日本古来からの正統な、勝負に対する応援スタンスなんである。敗者に情けを持て、という心やさしい思想である。

 日本人は異様に、TPОを気にするが、あれは、日本人の優しさの表れなんじゃないかと思う。だって、落語を聞いてても分かるでしょ。祝儀不祝儀に、みな羽織を着ていく算段をする。礼儀に外れて恥ずかしい、ということもあるが、それ以前に、着て行かないと、だれかが心配するからだ。
 これが、個人主義が発達している欧米とかの国なら、だれがどんな服をどんな場面で着ていようと、一向に気にしない。つまり、冷たい。日本人なら、あら、あの人、こんな席なのに、あんな恰好して、大丈夫なのかしら、と、必ず心配する人がいる。
 …そんな、心やさしい、ある意味お節介だけど、他人の不幸を他人のものとして捨て置くことができない、やさしい心持ちの人種が日本人で、だからこそ、必要以上に心配する人が発生しないように、あらかじめ、TPОを決めて、横並び精神というものが発達したんじゃないかな……と、最近思うようになった。
 まあ、すべてが、そんな性善説的な見解で解釈できるものでもないのだが。

 アナウンサーが「悲願の優勝」とスペインのタイトルを比喩した。
 しかしこれは、オランダが優勝した場合に喩えていう言葉だろう。
 オランダはもう三回も準優勝しているらしい。…ということは、つまり三度も険しい山の頂上まで、血を吐くような思いをして這い上がり、天国へもうちょっとで指先が届く、という、まさに天にも昇る気持ちを味わいながら、三度、地獄へ突き落されたということだ。
 彼らの絶望感を想うと……もう、私は泣かずにはいられない。

 日本の鎖国時代、欧米系で唯一交易を許されたのが、オランダである。
 江戸幕府が幕藩体制を固めようとしていた1600年代初頭、オランダはバリバリのカトリック国家だったスペインから独立した。
 日本に交易を求めてやってきたオランダは、貿易に宗教を持ち込まなかった。キリスト教の、神の下の万人の平等思想は、徳川幕府の厳然たる身分制度のもとでの国家の秩序・安定を図る方針とは、根本的に相容れないものである。
 オランダはそんなわけで、日本が開国するまで定期的に、世界の情勢・出来事をまとめた『阿蘭陀風説書』という白書のようなものを、日本に提出してくれていたのだ。

 あまり知られていないが、明治政府は設立当初、キリスト教を、やはり国家的に禁止する方針を打ち出していたのである。新しいものが誕生するときは、世の中はいろいろゴタゴタするのであるから、人民はあまり性急に結果を望んではいけない、と思う。

 そんなわけで、オランダ。オレンジ色の憎いヤツ。…そりゃ夕刊フジ。
 二週間前、行李の中をガサゴソして、青シャツと一緒に発掘されたのが、オレンジ色の半袖カーディガンだった。
 オレンジ色が流行る年が時々あって、私が覚えているのは昭和62年ごろと平成7年ごろ。…さすがにこのカーディガンは後年買ったものだったが、そのカーディガンと一緒に出てきたのが、昭和の終わりに拵えたオレンジ色のスカート(その頃ハイウエストのミニスカートが流行り、凝り性の私は自分で縫ったのだった。このミニスカはさすがにどこかに行ってしまった)に合わせる、オレンジと黄と緑のバラの花が、ビュッフェの絵のように黒い縁取りで配されているシャツ…。
 強烈な印象を与えてしまう原色系の服は、一度着てもう一度ぐらい着ると、またあの服着てる…という印象を周囲に与えかねないので、結果、あまり着ないことになる。そしてそれで消耗することがなく、新品のままさらにますます化石化していくことになる。
 たぶん、一生着ないかもしれない。…いや、着よう。四度、オランダが決勝戦に這い上がってきたとき、こんどこそ着てみようと思う。

 昭和50年前後、よくあることだが、とある出版社が破綻して、普通の書店の店先に、その版元の全集本が、安価で並んでいたことがある。そこで私は『モンテ・クリスト伯』の上下巻を手に入れ、大デュマの勇猛果敢で壮大な世界に浸り込んだ。
 モンテ・クリスト伯は自分を陥れた者たちへの復讐という悲願を達成すると、表題の言葉を残し、帆船に乗り込み南洋へ去っていく。

 中学1年のクラス替えのお別れ文集や寄せ書きに、やたらと書いていたこの言葉。
 「待て、而(しこう)して希望せよ」
 けさ、三十数年ぶりで思い出した。

 

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青いスポーツシャツ

2010年07月07日 09時50分15秒 | フリーク隠居
 今日は七夕。…であるが、新暦なので、いつも梅雨のさなかになってしまう。
 七夕はやはり、旧暦で催行するのが本筋でしょう。でないと、圧倒的に雨天で、年に一度の逢瀬がかなわないことになる。
 七月七日に…。
 このシンプルな五文字だけで、この上もなくロマンチックな響きを持つ、年に一度のこの日のことは、旧暦の七月七日に書くこととして、今日は…。

 着物の衣更えは簡単だが、洋服はそうもいかない。
 なにしろ、昭和の気候方程式が当てはまらないここ数年、洋服の衣更えが、常にいま一つ完了しないまま、四季は幾たび、巡り来ったことであろう…。
 先週、行李の中をガサゴソやっていたら、青い半袖シャツが出てきた。ボタンがない開襟で、プルオーバーになっている。…はら~~、こんなシャツそういえば持ってたよねー。
 三十代後半に、徹夜に次ぐ徹夜というような、よくいえば意欲的な仕事人生を送っていたので、あっという間に体を壊して、突発性難聴で入院した。
 自分でもどうかというぐらい神経質になって安静にして養生していたおかげで、すっかりよくなったが、あわや、大天才ベートヴェンになるところであった。天使のような看護婦さん、先生、ありがとうございました。
 人間、病気をすると、人生観が変わる。
 すっかりおとなしくなった私は……いやいや、またまた話が逸れました。

 その、体調を壊した前後のころ、外出するとやたらと汗をかいて、全身汗びっしょりになってしまうことがよくあった。汗でぬれた衣装は気持ちが悪い。それに、そのまま冷えて、さらに具合を悪くするといけない。
 そんなわけで一時期、外出先からデパートに立ち寄って、「身ぐるみ脱いで替えてゆこう…」というような、山賊さんには申し訳ないような所業に及んでいたときがあった。
 それでその頃、どうした気の迷いか、滅多に着ない、それこそ梅雨明けの晴天の、抜けるような青い空色…フランスでル・ブリュ、イタリアでアッズーリ、日本でサムライブルーというような、まさにWカップ応援仕様のようなシャツを買ってあったのだった。

 そうそう、観戦対応衣装といえば、雨に濡れ燕。
 斜に降りつける直線の雨をくぐってけなげに飛ぶ様子のツバメが配された、つばくろの浴衣。もはや十五年ぐらい以前になるが、これで神宮にヤクルト戦を観に行こう!と思っていたのに、かなわないまま、今では稽古着になっている。
 …横道、横道。

 青シャツ。たまたまそれを発掘して着てみた日が、先週、日本が惜敗した朝で、着る前は考えもしなかったが、いざ着て出かけた後に、いややわー、これじゃ、応援して徹夜してセンター街で夜明かししちゃった若者みたいやないの~と、大阪のオバちゃん的に、その実全然恥ずかしくないんですけどね…という具合に、気がついた。

 それにつけても、日本代表は、本当に強くなった。ビックリした。前回のときよりも格段の差だ。
 以前の印象では、スタープレイというか、スタープレイヤーが単独で詰めて行って、一つゴールして失敗して終わり、というように、下手な私の将棋に似て、桂馬がはねて行ってアレレ…香車で押して行ってアラ~~というように、攻撃が続かなかったのが、今回は実にすばらしくて感激した。
 動体速度のめちゃ速いチームと戦うと、なすすべなし…に見えた以前までのデフェンスが、すばらしく冷静に判断して、その役割を果たしている。
 システム化されたチームプレイが機能している…とでもいうのでしょうか、成長著しく、おそらく、DNA的レベル差に肉迫するまで、成長している、と思った。
 ……次回のワールドカップには、この青シャツ、間に合うように発掘せねば。

 さて、2010年7月7日は、準決勝、ドイツvsスペインの世紀の決戦だ。
 こうしてブログを始めるきっかけともなった、わが愛弟子が留学しているドイツ。気にならないわけがない。
 天国と地獄が紙一重。チャンピオンズリーグの決勝戦でも感じたことだが、頂点に近づけば近づくほど、失ったものは大きく感じられ、得た歓喜はこの上もない。
 それだからこそ、サッカーの決戦は涙なくしては観られない。

 さてさて、今日は何色の衣裳で出掛けましょうか。



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チョコプラな日々

2010年06月25日 12時10分01秒 | フリーク隠居
 お笑いは、わが心の糧である。
 去年ぐらいからか、CX系番組レッドカーペットに登場するようになった漫才…というかコントのコンビ、チョコレートプラネット。
 藤山寛美を彷彿とさせる、松竹新喜劇的ほのぼのとした不可思議な空気感を持っていて、出てくると嬉しい。私の場合、映画なのだが、昭和に大井武蔵野館で観た寛美ちゃんの『親ばか子ばか』とか、面白かったなあ。
 そのチョコプラの、「なんでやねん!」の声色が真似られるようになった私は、日々、「なんでやねん」な出来事があってもなくても、「なんでやねん!」を連発するようになっていた。

 「なんでやねん……!!」イタリアが負けたのである。
 今回のワールドカップに乗り遅れていた私は、一試合も観ていなかったのだが、数日前、虫の知らせとでもいうのか、偶然つけたТVでイタリア戦が始まり、そのままずるずると、引き分けたニュージーランド戦を観てしまった。
 偶然つけたラジオやテレビで、気になっていた出来事や音楽に、思いもかけずバッタリ行き合ってしまうことがよくある。人間にもきっと、自分の好むものを意図せずしてキャッチする、指向性アンテナ、のようなもの…がついているに違いない。

 懐かしいリッピ監督。かつてスカパーと、サッカー・キングダム・セットを視聴契約していたカルチョ三昧の遠い夏の日々を思い出した私は、そのころの贔屓のユヴェントスが調子の悪いときに一点も取れない、あのジリジリとした、胃の痛くなるような試合展開を、再び目の当たりにした。

 日本のリーグ戦突破に沸く国内のほんわかした歓喜ムードで、逆に私は安心して、イタリアを悼むことができる。
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馬揃え

2010年05月31日 01時00分00秒 | フリーク隠居
 馬が走っている姿は美しい。小学生のころは、愛読していた探偵小説『シャーロック・ホームズ』や、児童文学『メアリー・ポピンズ』の影響で、イギリスの文化に憧れていたから、貴族が馬主で、白いドレスを纏ったご婦人がやはり白いパラソルをさして、遠眼鏡でレースに見入る様子や、アスコット競馬場とかいう言葉だけは知っていた。
 「マイ・フェア・レディ」や「メアリー・ポピンズ」の映画中に観る競馬場文化ってなんだか優雅ですなぁ。でも、競馬場にほとんど人がいない。…そういえば、これ以上はないであろう理想のホームズ君であったジェレミー・ブレットが「マイ・フェア・レディ」に出ていたのを知ったときは驚いた。それで、ジェレミー・ブレットの訃報を聞いて間もなく、観返してみたのだった。彼の歌う「君住む街かど」のなんと、ジーンとくることか。今思い出しても胸が熱くなる。

 高校生のころ、NHKのラジオ・ドラマで、ディック・フランシスの『度胸』という競馬界を舞台にしたミステリーを、今は亡き広川太一郎が朗読していた。ものすごく面白かった。早川ミステリ文庫に収録されていたので、さっそくそのシリーズを何冊か読んだものだった。ディック・フランシス本人も騎手だったそうである。彼は今年のバレンタインデーに亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。

 馬券を買ったことが一度もない私が、何でこんなことを書いているのかというと、今日は東京優駿、ダービーを観てしまったからだ。そして、ダービーは三歳馬しか出走できない、ということをアナウンサーが話していて、おや…???と思った。
 いかな馬券を買ったことがない私でも、昭和45年に大ヒットした「走れコータロー」はそらで歌える。たしか、あの歌詞の中では、「天下のサラブレッド、四歳馬」と言ってなかったかしら。…私の記憶違いかと思い、小声で唄ってみたが、どうも三歳馬だと語呂が悪い…そして、変だ。
 どうにも納得がゆかず、さっそくインターネットで調べてみた。
 …そこで、びっくり!
 2000年まで、日本のお馬さんは、数え年で年齢を数えていたらしい。それだとどうも世界基準と違って紛らわしいので、21世紀から現行の数え方に変わったそうなのだ。

 戦前までは日本の人間も数え年だったので、生まれた時点ですでに一歳ということになっていた。祖母や両親あたりまで、数え年で自分の年齢を数えていたような記憶がある。そういえば、小さいころ、年を訊かれるのに、やたらと「満でいくつ」とか答えさせられるのを不思議に思っていたのだった。
 早生まれの私なんて、誕生日が来る前にお正月が来るから、零歳のときの最初のお正月で、昔だったら、すでに二歳になっていた勘定になる。コワイワ…。
 そんなわけでもないだろうが、生きていくこと自体が緊張感の連続だった時代には、子どもは早く大人に成らざるを得なかった、のかもしれない…。
 
 信長くんの好きだった幸若舞「敦盛」♪人間五十年…。信長は数えで享年四十九だったけれど、ホントは早生まれだったりしないだろうか…。
 
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変わる鑑定と「おみくじの天才」

2010年04月26日 21時21分04秒 | フリーク隠居
 「有為転変の、世の中じゃなぁ…」で、チョンと柝が入って幕。あれは何のお芝居だったかしら。本当に、世の中に変わらないものなんてないのだ。
 若いころは世の中が光り輝いて見えていたから、絶対とは思わないまでも、中央通りの石造りのビルとか、街の繁栄とか、何となく、いつまでもそのまま在り続けるような気がしていた。享受した歳月しか経験していないのだから、短い年数のスパンでしか想像できないのも仕方ない。
 これは特に「なんでも鑑定団」などを毎週欠かさずご覧になっているお方なら、すでにお気づきのことだろう。宝物の価値すらも、個々人の思惑とは関係なく、各時代の需要と供給によって恐ろしいほど変わる。

 …なんてことを、ここ数年、再び建て替わって変容していく街並みを目の当たりにして、世の中なんて、あ、やっぱり、ただ風が吹いていくだけのようなもんだったんだ…なんて心境になっていた。
 …ところへ、戦国武将占いである。今を去る十年ちょっと前の1998年ごろ、世の中は動物占いの全盛期だった。いまや数年前に流行った山手線占いなど、多種多様な占いが出て、それこそ群雄割拠の戦国時代の様相を見せる、キャラクター占い市場だが、その先鞭をつけたのが、たしか、どうぶつ占いである。その二匹目のどじょうを狙って、十年前の当時、いろいろな占い本が出ていた。
 そのひとつに『戦国武将占い』があって、たしか、文春文庫で「ビジネス社会を戦国武将の知恵で切り抜ける」…とか何とかいう惹句が帯についていた。
 こりゃー面白い!と思って、私は関係者でも何でもないのに、何冊か買って知り合いに配った。しかし、知人たちはンーでもなく、スーでもなく。何の反応もなかった。同時期に『江戸しぐさと江戸ことば』という新書判の本も気に入って、同様に配ったが、みな同様に無反応だった。そしてまた、これらの本が当時は、爆発的に売れた様子もなかった。
 …どうやら私の流行りもの、マイ・ブームは、先見の明というよりも早すぎて…というか独特すぎて、常に何年もの幅で世間とズレているのだった。

 そして、何年かの時を隔てて、戦国武将占いが俄然、世の中の流行りものとなった。先年、私が同じものを配った欧米文化の申し子のような方々は、そんなことはすっかり忘れて、いまや和物礼賛に変節していた。
 …花川戸のお兄いさんなら「こりゃまた、何のこってェ」と啖呵を切るだろうが、私は、いったん捨てられて忘れ去られ、一部の人々の嗜好品のようになってしまった日本の文化が、やっと日の目を見て、復権して、万人に受け入れられたような気がして嬉しかった。

 さてさて、十数年前にはマイナーな占いだった、そのときの私のキャラクターは「独特の価値基準を持つマイペースな風雅の人」とかいう短評で気に入っていた、伊達政宗だったのだが、歳月を経て再び鑑定してみたら、ぜんぜん違った上杉景勝になっていた。
 …ええっ!!と、A型がB型に変わったほどもビックリしてよく調べてみたら、キャラクターが38もあるという、算定方法は同じだが、ぜんぜん別物の、新しい占いだったのだった。

 …そういえば私は、引くおみくじ、引くおみくじ、すべて大吉であるという「おみくじの天才」だったことがある。
 1970年代の山上たつひこのギャグ漫画に、「宝くじの天才」とでもいうような子供の話があった。ある貧しい家庭に赤ちゃんが生まれるが、なんと一家の不幸を真逆にいくようなラッキーな赤ちゃんで、生まれた産院ではキリのいい千人目ということで景品をもらい、育っていくにつれ商店街のくじ引きでは特賞を、しまいには巨額の宝くじに大当たり…というようなツキまくりの子供の話だった。それが、山上たつひこの、あの人畜無害のような善人面のキャラの闊歩によって爆笑を誘うのだった。オチは忘れてしまったが、私はその伝でいくと、おみくじの天才だった。
 「一番、大吉」なんて神籤を引くと、天下を取ったような、この上もなくイイ心持ちになるのだから、人間なんて可愛いもんだ。

 あるとき、とある有名なお寺で、例によって一回で決めるつもりでおみくじを引いた。…凶だった。こんなはずは…と思い、再び引いた。凶だった。こうなると意地で、もう一度引いた。三度、凶だった。さすがにそれでやめた。本能寺前夜、三度神籤を引きなおした光秀の気持ちがわかった…ような気がした。

 「くじ」と名がつくものに関わるとき、私は今でも、ちらと心の錆にざらっと触れたような、若干の罪悪感を感じる。これは、射幸心をいましめる、昭和の道徳教育のなせるところなのだろう。
 努力もせずに、まぐれあたりに期待するなんて、占いの結果に一喜一憂するなんて、ましてや自分の行動の決定権を委ねるなんて。
 そしてまた、勤労の代価をそんなものに費やすなんて…と昭和の堅気の一般家庭ではそういうのが通念だった。公営の博打が市民権を得た現代では、そんなことを感じる若者はいないのだろうけれど。
 …そしてまた、そこまで重く考えることもなく、万事が軽い気持ちで行われるのが当世なのだろうけれど。
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ロッソ鍋

2010年04月12日 01時13分00秒 | フリーク隠居
 先日、友人の激励会で小林旭の「自動車ショー歌」を久しぶりに歌っていて想い出した。
 「ミラン憎けりゃオペルまで憎い」といった心情に陥らせた、あの怒涛のカルチョ三昧の日々を。当時、ミランのユニフォームには、スポンサーの、丸に二引き崩し、いや、ての字とでもいおうか、たなびく一本霞のようなマークがもれなくついていた。和の文様にたとえるとエ霞に似ている。
 サッカーの試合は二時間もあれば決着がつくのが有難い。…とか言いながら、あぁ、二時間あったら道成寺が二回さらえる…とか自責の念に駆られながら、深夜とも明け方ともつかぬ午前三時に起きだして、チャンピオンズ・リーグのライヴ中継を観ていた。
 人間とは、執着するものができると、思いもかけない変な行動に出てしまうものだ。
 『南国太平記』を現代に。
 エル・ブランコ鍋で調伏の醍醐味を覚えてしまった私は、次なる相手、同じイタリアはセリエAのミランを叩きのめすべく、新たなメニューを編みだした。
 ミランのチームカラーは赤と黒。
 そこで今度は、食材のありとあらゆる赤いものを入れて、ロッソ鍋をつくった。
 人参、トマト、赤玉ねぎ、赤ピメント、赤身の牛肉、赤ワイン…ボルシチと似たようなもんだから、ベースはビーツ。しかし、これがちょっとまずかった。缶詰のビーツが土臭い。
 こりゃー、完食は無理だなー、と思った私は、よっしゃ、ボルシチにはサワークリームでしょう、と白いクリームを赤いところへ落としてみた。日の丸のネガのようになってしまった。なんだかいやな予感がした。
 結局、私は調伏に失敗した。
 敵に塩を贈るどころか、紅白まんじゅうをはなむけに贈ったような塩梅になってしまった。ユヴェントスのチームカラーは白と黒。
 鯨幕と紅白幕じゃ、不祝儀のほうが分が悪いよね…とか、妙な落とし噺にして、お茶を濁しながら、私は肩を落とした。
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エル・ブランコ鍋

2010年04月04日 22時50分10秒 | フリーク隠居
 サッカーにものすごくハマったことがあった。もちろん観戦である。
 2002年、日韓共催のワールドカップ。それ以前は全くサッカー夜明け前の私で、一顧だにしなかったのだったが、思いがけなく観た欧州サッカーは、ものすごく楽しいんである。
 さすがは狩猟民族、片側のゴールにいたかと思うと、テニスのボールのように向こう側に人群れがワーッと行って、再び戻ってワーッと行って、あとに数人倒れていたりして、こりゃーサッカーは格闘技なんだわ、と思った。
 で、一般のにわかファンというのはそれで終わりなんだが、私は去り際が見極められないというか、一度ファンになったら、しぶとく贔屓であり続けるところをモットーとした、古典的な義理がたい日本人なので、思い切り悪く、ずっと応援していたのである。
 フリークするには、だれか核になる選手なり監督なりの、その世界の達人がほしい。欧州のお兄さん方は男前ばかりだが、見てくれだけではだめで、熱狂するだけの裏付けがほしい。私の場合の「ものすごく男前」の基準は、キュートで、自分の道の手練れで、しかし何となく脆いところがある。当然、才能があって努力家で、その道のプロで天才的なんだが、一種ヘタレなところがある、というキャラクターに、グッとくるのである。
 さて、そういうわけで、デル・ピエロのフリークになった私は、ある年、ついにやってきました! われらがユヴェントスがチャンピオンズリーグで、クイーンの「ウィーアーザ・チャンピオン」を、決勝戦の最後に歌える機会が訪れるという、クラブファンなら誰しもが夢に見る、かなりいい線まで勝ち進んだ。
 手に汗握る名カード続き、準決勝で最強敵のエル・ブランコ、レアル・マドリーと当たることになった。
 こうなると、もはやファンとしてやることは一つ。ゲン担ぎの応援しかない。
 そのときのレアルには、軍神ジダンがいた。
 私は、ありとあらゆる食材の白いものをぶち込んだ鍋をつくった。レアルはそのユニフォームの色ゆえに「エル・ブランコ(スペイン語で白)」という愛称を持っていた。ヤクルト戦でヤクルトを、日ハム戦でハムを、対戦相手ファンが喰らうのと同じ原理である。
 お豆腐、はんぺん、白シメジ、エノキに白ねぎ、大和芋、大根…etc.仕上げは豆乳である。これが案外イケたりして。本人いたって大真面目で、ビッグイヤー獲りの調伏の儀式に臨んだ。
 そして……。
 乙女の一念、ついに、ユヴェントスはレアルを降し、決勝に進んだ。(続く)
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