長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

音の風景

2010年04月27日 11時00分03秒 | お稽古
 今も存続しているだろうか。昭和の終わりごろよく聴いていたNHK・FMの「音のある風景」という番組が好きだった。記憶だけで書いているので間違っていたらごめんなさい。
 …踏切のカンカンという鉦の音、通り過ぎていく列車の風音、連結部の軋み、レールの響き。またあるときは、風鈴の音色、物売りの商い声……。
 さかしい、無遠慮な説明は一切ない。ラジオの音だけの放送で、収録してきたその景色と世界を想像させる、素敵な、すばらしい発想の番組だ。これは、すべての事象を愛でる日本人の感覚ならではの産物だろう。LAのラジオ放送で、アメリカの西海岸のビッグウェーブの音をしみじみと聴く、なんて図は想像できない。

 溝口健二監督の「雨月物語」など、銀幕のなかだけで空想していた琵琶湖へ、初めて訪れてみたのは昭和の終わりごろだった。長閑で柔らかい、水と陽の光に暖かく包まれて育まれた、近江の湖のほとりがとても好きになって、それから湖畔をたびたび訪ね、訪ねるたびに、ますます好きになった。なにしろ琵琶湖は広いので、行き尽き観尽くすことがないのだった。
 生まれ育った土地である関東の雑木林も風情があって私は好きだが、歴史が浅いせいか、原生林のような鋭角的な厳しさが風景の中にある。関西の、自然の中にもすべてにすっかり人の手が入った、丸みを帯びたような景色は実に魅力的で、それはことに岡山の高梁(備中松山城)に行ったときにも感じたのだが、風景に現れる歴史の深さの違いに、感心したことがあった。

 さて、長唄「藤娘」に、近江八景が詠い込まれた部分がある。
 この、世に多くある八景ものは、本来はどんな景色でもいいというものではなく、八つの決まりごと、則るべき形式がある(それを広義に、かっきり八つではなく概数的にとらえて、四季折々の美しい花鳥風月を配して名勝を詠い込んだ「吾妻八景」という長唄の名曲もあるが、この話はまた後日)。
 原典となった中国は北宋の時代の瀟湘八景(湖南省の洞庭湖に注ぐ、瀟水と湘水の辺りのグッとくる景色を、文人画家の宋迪が八つの画題にしたもの)になぞらえて、かならず、「落雁(水辺に降り立つ雁の群れ)」、「帰帆(帆をたたんで港に帰ってくる舟)」、「晴嵐(晴れた日に吹きわたる強い山おろしの風)」、「暮雪(夕暮れ時に見える山の峰に積もった雪)」、「秋月(澄んだ秋空の名月)」、「夜雨(夜の雨)」、「晩鐘(入合いの鐘の音)」、「夕照(夕焼けが波に照り映えるようす)」の、八つの要件をつけた景色でなくてはならないのだ。

 …そして、この八つの景色のなかには、ひとつだけ仲間はずれ、というか、視点の異なる景色がある。それは何でしょう??
 はい。それは、近江八景でいえば、三井の晩鐘です。
 陽が西に沈んでいき、入合いの暮の鐘がゴーーーンと鳴る。三井寺の鐘の音の景色なのである。ほかの七景はすべてヴィジュアルの風景なのに、聴覚から、鐘の音の響きを景色と同一視して、その音色が景色に融合した、音の風景を味わうのだ。なんてファンタスティック!
 「藤娘」のこの部分は、クドキでもあり(クドキとは、歌詞に登場人物の心情が、連綿と切々と訴えるように詠み込まれている部分。たっぷり!と声がかかる、唄方の聞かせどころ魅せどころ)、その歌詞への、近江八景の詠み込ませ方の巧みさといったら、すごい。

 …♪逢わず(粟津)と三井の予言(かねごと=約束→鐘)も堅い誓いの石山に 身は空蝉のからさき(殻→唐崎)や 待つ夜をよそに比良の雪(行き) 解けて逢瀬のあだ妬ましい ようも乗せた(瀬田)にわしゃ乗せられて 文も堅田の片便り こころ矢橋のかこちごと…

 杵徳風に超訳・口語訳しますと…ほかの女には逢わないと堅く約束したのに、それもセミの抜け殻のように虚ろなことだったのか、恋にとらわれて気もそぞろにぬしの来るのを待っているのに、よそへ行くなんて、雪が解けるようなランデヴーはさぞや楽しかったのでしょうね、ああ、悔しいっ…よくもそのうまい口車に私を乗せましたね。手紙をやれども返事もなく、私の心は急かれるように苦しくて、ただ恨み嘆くばかりです…。

 近江八景にことよせて、つれない男への女ごころの愚痴を綴っている。稽古するたびに、よく出来てるよなぁ、と、ほんとうに感心してしまう。
 長唄には、何度稽古しても稽古するたびに心に響く名詞章がたくさんある。…古典って、そういうものだ。


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変わる鑑定と「おみくじの天才」

2010年04月26日 21時21分04秒 | フリーク隠居
 「有為転変の、世の中じゃなぁ…」で、チョンと柝が入って幕。あれは何のお芝居だったかしら。本当に、世の中に変わらないものなんてないのだ。
 若いころは世の中が光り輝いて見えていたから、絶対とは思わないまでも、中央通りの石造りのビルとか、街の繁栄とか、何となく、いつまでもそのまま在り続けるような気がしていた。享受した歳月しか経験していないのだから、短い年数のスパンでしか想像できないのも仕方ない。
 これは特に「なんでも鑑定団」などを毎週欠かさずご覧になっているお方なら、すでにお気づきのことだろう。宝物の価値すらも、個々人の思惑とは関係なく、各時代の需要と供給によって恐ろしいほど変わる。

 …なんてことを、ここ数年、再び建て替わって変容していく街並みを目の当たりにして、世の中なんて、あ、やっぱり、ただ風が吹いていくだけのようなもんだったんだ…なんて心境になっていた。
 …ところへ、戦国武将占いである。今を去る十年ちょっと前の1998年ごろ、世の中は動物占いの全盛期だった。いまや数年前に流行った山手線占いなど、多種多様な占いが出て、それこそ群雄割拠の戦国時代の様相を見せる、キャラクター占い市場だが、その先鞭をつけたのが、たしか、どうぶつ占いである。その二匹目のどじょうを狙って、十年前の当時、いろいろな占い本が出ていた。
 そのひとつに『戦国武将占い』があって、たしか、文春文庫で「ビジネス社会を戦国武将の知恵で切り抜ける」…とか何とかいう惹句が帯についていた。
 こりゃー面白い!と思って、私は関係者でも何でもないのに、何冊か買って知り合いに配った。しかし、知人たちはンーでもなく、スーでもなく。何の反応もなかった。同時期に『江戸しぐさと江戸ことば』という新書判の本も気に入って、同様に配ったが、みな同様に無反応だった。そしてまた、これらの本が当時は、爆発的に売れた様子もなかった。
 …どうやら私の流行りもの、マイ・ブームは、先見の明というよりも早すぎて…というか独特すぎて、常に何年もの幅で世間とズレているのだった。

 そして、何年かの時を隔てて、戦国武将占いが俄然、世の中の流行りものとなった。先年、私が同じものを配った欧米文化の申し子のような方々は、そんなことはすっかり忘れて、いまや和物礼賛に変節していた。
 …花川戸のお兄いさんなら「こりゃまた、何のこってェ」と啖呵を切るだろうが、私は、いったん捨てられて忘れ去られ、一部の人々の嗜好品のようになってしまった日本の文化が、やっと日の目を見て、復権して、万人に受け入れられたような気がして嬉しかった。

 さてさて、十数年前にはマイナーな占いだった、そのときの私のキャラクターは「独特の価値基準を持つマイペースな風雅の人」とかいう短評で気に入っていた、伊達政宗だったのだが、歳月を経て再び鑑定してみたら、ぜんぜん違った上杉景勝になっていた。
 …ええっ!!と、A型がB型に変わったほどもビックリしてよく調べてみたら、キャラクターが38もあるという、算定方法は同じだが、ぜんぜん別物の、新しい占いだったのだった。

 …そういえば私は、引くおみくじ、引くおみくじ、すべて大吉であるという「おみくじの天才」だったことがある。
 1970年代の山上たつひこのギャグ漫画に、「宝くじの天才」とでもいうような子供の話があった。ある貧しい家庭に赤ちゃんが生まれるが、なんと一家の不幸を真逆にいくようなラッキーな赤ちゃんで、生まれた産院ではキリのいい千人目ということで景品をもらい、育っていくにつれ商店街のくじ引きでは特賞を、しまいには巨額の宝くじに大当たり…というようなツキまくりの子供の話だった。それが、山上たつひこの、あの人畜無害のような善人面のキャラの闊歩によって爆笑を誘うのだった。オチは忘れてしまったが、私はその伝でいくと、おみくじの天才だった。
 「一番、大吉」なんて神籤を引くと、天下を取ったような、この上もなくイイ心持ちになるのだから、人間なんて可愛いもんだ。

 あるとき、とある有名なお寺で、例によって一回で決めるつもりでおみくじを引いた。…凶だった。こんなはずは…と思い、再び引いた。凶だった。こうなると意地で、もう一度引いた。三度、凶だった。さすがにそれでやめた。本能寺前夜、三度神籤を引きなおした光秀の気持ちがわかった…ような気がした。

 「くじ」と名がつくものに関わるとき、私は今でも、ちらと心の錆にざらっと触れたような、若干の罪悪感を感じる。これは、射幸心をいましめる、昭和の道徳教育のなせるところなのだろう。
 努力もせずに、まぐれあたりに期待するなんて、占いの結果に一喜一憂するなんて、ましてや自分の行動の決定権を委ねるなんて。
 そしてまた、勤労の代価をそんなものに費やすなんて…と昭和の堅気の一般家庭ではそういうのが通念だった。公営の博打が市民権を得た現代では、そんなことを感じる若者はいないのだろうけれど。
 …そしてまた、そこまで重く考えることもなく、万事が軽い気持ちで行われるのが当世なのだろうけれど。
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藤の記憶

2010年04月21日 12時10分05秒 | 稽古の横道
 桜狂騒のあと、腑抜けたような幾日かを過ごしているうちに、いつの間にか春霞がどこへやら退いている。久しぶりに見る青空の向こうは、海を思わせる鈍い夏色に輝いている。陽光が遠慮なく差し込むようになると、さてさて、四月末の藤の季節である。
 藤は執着深い花である…といったのは誰だったかしら。古典柄では、藤蔓が松の木に絡みつくのがオーソドックスな図案だから、そのイメージもあるのかもしれない。
 小学2年生の遠足の帰路、バスへ乗り込むために、稲荷大社の駐車場で待機させられていたときのことである。じっと待っているところへ、とてもいい匂いがする。すがすがしくて、今までに嗅いだことのない、素敵な香りだ。いったいどこからこんなにいい香りがするのだろうと、子供らしくキョロキョロしていると、眼の隅の、広場の向こうのほうに、白い花房の垂れている藤棚が見えた。
 それまで白い藤を見たことがなかったので、それもあってよく覚えているのだが、藤の花って、こんなにいい匂いがするんだ!と、びっくりした。それまでマイ・ベストいい匂いの花は、無条件でバラだったのである。幼稚園児のとき、ばら組だった私の薔薇信仰は、かなり深く刷り込まれていたから、これはかなりのカルチャーショックだった。
 小学生時代の遠足の記憶はほとんどないのだが、なぜか、この時の嗅覚をともなう白い藤の記憶は、40年を過ぎた今でも鮮烈に残っている。

 長唄の舞踊「藤娘」は、昭和の名優・六代目菊五郎によって、メルヘンと叙情性に満ち、なおかつ艶のある、女形の魅力あふれる素敵な舞踊作品へと生まれ変わった。
 大道具に、人間の身の丈ほどもある藤の花房を垂らすことにより、江州の田舎娘だった藤娘が、藤の花から生まれてきた妖精のように可憐で可愛らしくみえる。
 もちろん、私は六代目の舞台は観たことがない。梅幸の藤娘である。音羽屋の朱色と萌黄色の片身替わりの衣装が好きだった。京屋の藤娘は、愛嬌たっぷりで可愛かった。

 平成ひとケタ時代の晩春、亀戸天神へ行った。もちろん、目当ては太鼓橋と藤の花である。そしてまあ、なんと度肝を抜かれたことには、あの「藤娘」とそっくり同じ大きさの藤の花房が、池を取り巻くように配された天神様の境内の藤棚に、いくつもいくつも、見事に垂れさがっていたのだった。
 本当に芝居の作り物と同じほどに大きい、しかも境内のすべての藤の花が……私は仰天した。紫のスイートピーのようなひとつの花が、私の掌の三分の二ほどはあった。
 さすがは、菅原道真公の祀り処。ひとしきり感心し、すっかり満足して、船橋屋のくずもちを買って帰った。
 それから何年か経ったのち、再びあの藤の見事な花房を見たくて、亀戸天神に行った。しかし、再び驚愕したことには、天神様の池のぐるりの藤棚の藤は、よく見かける普通サイズの藤の花房に変わっていた。
 どうしてなのか、株の寿命がきて植え替えたのか、そのときは誰に訊ねることもできず、何となくしょんぼりして帰った。いつも混んでいて入れない、船橋屋の茶店に入れた。

 生き物の管理はかくも難しい。変わらないということは、想像以上に難しいものなのだ。これは芸にも、上手も下手も同様に通じることだなぁ…と、初夏の明るい日差しの下で、私は背筋を冷たくしたのだった。
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アデュー,歌舞伎座

2010年04月17日 19時19分24秒 | 歌舞伎三昧
 昭和の歌謡映画みたいな表題になってますが…。
 歌舞伎座の本当に本当のさよなら公演、平成22年4月公演の切符が取れない、ということで、私は諦めていた。
 思えば昭和の50年代後半から三十年近く、よくまあ芝居に通ったものだ。特に、平成2年、今は亡き紀伊国屋の「女鳴神」の雲絶間之助に魅入られてから、月に幾たびとなく通うようになり、今世紀になってその熱が衰えたとはいえ、考えてみたら、三月と空けて歌舞伎座に行かなかった日はなかった。
 知人からは、こうなると、ことさら感慨深いのではないか、と水を向けられたが、これまでも何回となく建て替えの話が出ては消えしていたし、もう遠い日の夏の花火みたいに感じる…とか、偏屈な隠居のような返事をしていた。
 実際、昭和から今まで、自分が好きだった寄席、映画館など何軒となく閉場していったが、最終日に立ち会うということは、前の池袋演芸場が建て替えの際に閉まった時以外、まったくなかった。池袋の最終日、売店の名物売り子さんだった松本のオバちゃんが「みんな、最後だから持ってってね~~」と独特の言葉尻で、下足の木札を配っていた。しかし、私はもらわなかった。なんだか屍に群がるハゲタカのようになるのが厭だったのだ。

 …そんなわけで、このたびも、そうと知らぬ間に別れて、それが今生の別れになりました…というように、サラリといきたかったので、ことさら別れを告げるのを諦めていた。
 ところが番頭さんが骨を折ってくださって、思いがけなく4月公演に行けることになった。最後の歌舞伎座だ。
 その日はあいにく、冷たい氷雨が降っていた。歌舞伎座へのはなむけに絶対着物でいこうと思っていたが、洋服に変更した。そういえば、昔、台風の日に芝居に行って、歌舞伎座の玄関先で長靴を履きかえたことがあったっけ。偶然同日になった後援会の知人が、あ、あたしも一緒だ、と笑ったのだった。彼女、今どうしているだろう。
 番頭さんが手配してくださった切符は、なんと2階の東の桟敷なのだった。劇場のいろいろな席からどう観え方が違うのか…なんてことを密かに研究してみたこともあったので、2階の桟敷も座ったことがあったが、それは奥の桟敷だった。
 それだけで、もう、私は感激してしまった。1階の桟敷は照明も当たるし、舞台の一部分のようであるから役者からも客席からもよく見えて、気恥ずかしい。その点、2階の桟敷は見晴らしもよく、東ということで花道もよく見え、他人を意識することもなく、ことさらに気持ちがいい。
 この僥倖は、ひょっとすると、この二十年余りの忠孝皆勤への芝居の神様からのボーナスなんじゃないかしらん、と、驚喜で頭がクラクラしながら、まだ定式幕の舞台や、ざわめいている客席を俯瞰していたら、突如、この一つ上の階の、3階の東の袖の席に、若い時分、やたらと座っていたことを想い出した。
 三等席で、幕見を除けば歌舞伎座で一番安い席にも関わらず、東の袖は花道がよく見えるのだ。バブルで一等席から先に売れていた時代、私はこの席の確保に必死だった。質より量、切符をいかに算段するかに、日々腐心していた。

 それからずいぶん歳月が過ぎ、私も歌舞伎座も、いろいろ変った。
 いつだったか、「め組の喧嘩」で鳶職の総見があって、半纏にパッチ姿、信玄袋を提げたおにいさんと2階の廊下ですれ違った。かっこよかったなぁ。…そうそう、2階のジュースコーナーに、秋吉久美子に顔が似ているのにやたらと不愛想だった売り子のおねえさんがいたっけねぇ。1階の喫茶室ではまだ総理大臣になる前の、自由人・小泉代議士をよく見かけた。
 舞台は終幕の「助六」が開いていた。次々と当代の役者が出てくる。一人ひとりに、あのときはこうだった、あんな役もやっていたなあ…と、それこそ、走馬灯のように、芝居のいろいろな場面、歌舞伎座での出来事が浮かんでくる。そしてまた、この役は、今は亡きあの人がよくやっていたなあ、と、次から次へと、その姿が瞼に映る。
 いつの間にか私は妙な興奮状態に陥り、涙をぼろぼろこぼしていた。…「助六」でこんなに泣くなんてあり得ない。たぶんこれが今生の最初で最後だ。1階で間近に役者の顔を見るよりも、ちょっと離れた2階から巨人の星の明子姉ちゃんのように、そっと眺めていると、ワタシノ歌舞伎座年表…のようなものが、ますます脳裏に翩翻とたなびき、あの時この時がよぎっていく。
 それからずっと、初めて担任した生徒たちを送り出す卒業式でのごくせんか、一人娘を嫁にやる父親のように、終始ぐすぐすしくしくしていたのだった。

 こうして当代の役者たちを、歌舞伎座のこの舞台で観るのも、今宵が限りだ。
 それぞれのひっこみの背中に拍手を送りながら、中村屋の通人の「親父の祥月命日にまたぁくぐらされるとは…」に爆笑し、いつしかいつものように芝居に引き込まれて、私は思う存分泣いたり笑ったりしていた。それで、すっかり気が晴れた。
 ハネてみれば、空は雨だが、心は晴れだ。そして、いつものように、なんだかほのぼのとして、あぁ、芝居って、いいもんですねぇ…と独りごちながら歌舞伎座を後にしたのだった。
 主人が居なくなってしまった1階の会長室の扉のわきに、大きな時計があった。記憶では振り子時計だったが、今日見たら違っていた。帰り際にしみじみと見てみた。大きな文字盤の下に、碑文が刻まれていた。
 「わが刻はすべて演劇  大谷竹次郎」
 ……そうだった。この二十年余りというもの、自分もそうだったのだ、と、私は深く、吐息した。
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ロッソ鍋

2010年04月12日 01時13分00秒 | フリーク隠居
 先日、友人の激励会で小林旭の「自動車ショー歌」を久しぶりに歌っていて想い出した。
 「ミラン憎けりゃオペルまで憎い」といった心情に陥らせた、あの怒涛のカルチョ三昧の日々を。当時、ミランのユニフォームには、スポンサーの、丸に二引き崩し、いや、ての字とでもいおうか、たなびく一本霞のようなマークがもれなくついていた。和の文様にたとえるとエ霞に似ている。
 サッカーの試合は二時間もあれば決着がつくのが有難い。…とか言いながら、あぁ、二時間あったら道成寺が二回さらえる…とか自責の念に駆られながら、深夜とも明け方ともつかぬ午前三時に起きだして、チャンピオンズ・リーグのライヴ中継を観ていた。
 人間とは、執着するものができると、思いもかけない変な行動に出てしまうものだ。
 『南国太平記』を現代に。
 エル・ブランコ鍋で調伏の醍醐味を覚えてしまった私は、次なる相手、同じイタリアはセリエAのミランを叩きのめすべく、新たなメニューを編みだした。
 ミランのチームカラーは赤と黒。
 そこで今度は、食材のありとあらゆる赤いものを入れて、ロッソ鍋をつくった。
 人参、トマト、赤玉ねぎ、赤ピメント、赤身の牛肉、赤ワイン…ボルシチと似たようなもんだから、ベースはビーツ。しかし、これがちょっとまずかった。缶詰のビーツが土臭い。
 こりゃー、完食は無理だなー、と思った私は、よっしゃ、ボルシチにはサワークリームでしょう、と白いクリームを赤いところへ落としてみた。日の丸のネガのようになってしまった。なんだかいやな予感がした。
 結局、私は調伏に失敗した。
 敵に塩を贈るどころか、紅白まんじゅうをはなむけに贈ったような塩梅になってしまった。ユヴェントスのチームカラーは白と黒。
 鯨幕と紅白幕じゃ、不祝儀のほうが分が悪いよね…とか、妙な落とし噺にして、お茶を濁しながら、私は肩を落とした。
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巻軸

2010年04月11日 18時00分10秒 | お稽古
 長唄には指揮者がいないのに、なんでぴしっと合って演奏できるんでしょうか?という質問がよくある。
 雛壇の正面、中心を境に上手に三味線、下手に唄。中心の三味線がタテ三味線、お隣がタテ唄。このタテ三味線が、オーケストラでいうところの指揮者とコンサートマスターを足したような役割を担っている。
 タテから数えてワキ、三枚目、四枚目……一番端っこに座る人をトメ、といい、巻軸(かんじく)ともいう。
 ワキはとにかく、司令塔であるタテの意向を、三枚目以降の人に伝えなくてはならない。隣の人の音を聞いてそれに合わせていたんじゃ遅い。どうしたってズレてしまう。
 撥を揃える。これが基本である。どんなに多人数で弾いていても、一人が弾いているように聞こえなくてはならない。
 で、トメの人は一番修業年数が少ない人かというと、さにあらず。
 多人数が撥を揃えて弾いても、みんながみんな同様の腕前というわけにはいかないから、中弛みが出たりする。「あれ?音がずれて聞こえてるよ」と、いっこく堂が言うような場合が生じたりするのだ。
 これを阻止し、タテの意向を気取り、ぴたりとタテの撥に揃えて、端っこで音の暴動を抑える重責を担っているのがトメの役割なのである。だから、演奏効果を高める上調子や替え手などを、手慣れた感じで入れることのできる熟練さが要求される。
 掛け軸を床の間に飾るとき、また、巻くとき、巻物の軸があるからこそ、キチンと下に垂らすことができ、きっちり巻くことができる。
 そんな重要な職責を持っているのが、巻軸である。
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大向うの目玉おやじ

2010年04月11日 05時55分50秒 | 歌舞伎三昧
 昭和40年代を小学生で過ごした世代にとっては、ゲゲゲの鬼太郎は、もはや血肉になっていると言っても過言ではない漫画である。
 白黒のアニメで夕方、学校から帰ってきて、おやつを食べながら異形の者たちがブラウン管の中を闊歩している様を見続けた。スポンサーのココナツサブレが、南洋の妖怪譚で出てきたサボテンジュースとマッチしていて記憶に残る。
 そのころ妹がとっていた学年誌「たのしい幼稚園」の付録に、鬼太郎ハウスの紙製組立て模型がついていた。ただそれだけで、私は妹がうらやましかった。
 シニカルな視線で世の中を描く水木しげるの独特な人生観…モーレツだとロクなことはない、人間社会は虚しさと怪しさで満ちている…というような人生訓を子供のころから刷り込まれていた同世代は、新社会人になったときに、世間から「新人類世代」と呼ばれたものだ。
 二十代の私は、手元に残したいコミックスとして水木しげるの『虹の国アガルタ』と、山上たつひこの『真夏の夜の夢』の二冊を大切に持っていた。『…アガルタ』はメガネで出っ歯の日本人キャラ・山田が、イースター島やアンコールワットなどの世界の遺跡を尋ね、その悠久の妖かしの世界にハマり還らぬ人になっていく、という一話完結の連作集である。
 これは、テレビアニメで鬼太郎シリーズとしてアレンジして放映された。

 私がもっとも歌舞伎座通いをしていた1990年代、大向うにとてもいい声をかけるおじさんがいた。
 勢いがあるタイプではなく、「なりこまやぁ~ぁ…」「音羽屋ぁ…」「ナリタや~ぁぁ」などと、感極まったように情感を込めて、これがまたよい場面でかける。それで客席一同も、うぅむ、まったくだよ、成駒屋はほんとにいい役者だよねぇ、とか、まったくもって昔の人はよくこんな話を考えたもんだよねぇとか、ますますうっとり、しみじみしてしまうのである。
 私は密かにそのおじさんを贔屓にしていた。
 その声が、鬼太郎の目玉おやじの声にそっくりだったのである。もちろん、あのキャラクターのままの発声ではない。演じていた田の中勇が地声でかけると、そんな感じ、の大向うだったのである。
 私は、今でも密かに、あの大向うさんは田の中勇だったのではないかと思っている。
 田の中勇さんが他界なさった今となっては、もう確認するすべはないのだけれど…。
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江州・彦根城

2010年04月08日 12時00分32秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 一見赤ヘルの彦にゃんが出没する、最近の彦根城のことは知らない。
 私が城めぐりをしていたのは、昭和の終わりから平成のひとケタ時代のことである。歴女が武将コスプレをして城巡り、というのが昨今の流行りらしいが、そんなこと、あたしゃあ、ずっーっと何年も前からやってましたンです…ロケット団の負けず嫌いの人みたいになってますがね(あっつとぉ、訂正。コスプレはしてません)。
 そのころの古城の何がよかったかというと、つわものどもが夢のあと…というような、もはや、世間からは忘れ去られ、朽ち果てて、歳月にさらされた石垣の縁が、雑草や土に埋もれながらひっそりとたたずんでいる風情が、実にイイのである。
 人間のあらゆる業…天下を取りたい、人の上に立ちたい、豪勢な生活をしたい、権柄づくで他人をひざまずかせたい…etc.というような、願望渦巻く象徴の牙城的存在であった過去の成り立ちのことは、もはやすっかり忘れて、そんなこととは無関係に、夢見るように、ほのぼのとした雰囲気を漂わせ、自分の一部となった木々に訪れる小鳥のさえずりなんかを聞きながら、のんびり陽ざしを浴びて佇んでいる。三橋美智也でなくとも、一節、呻りたくなるものであろう、というものだ。
 平成の初年頃、初めて訪れた彦根城は、まだ大改修前で、しかし、さすがに国宝彦根城の天守は立派で美しく威容を放っていたが、本丸や三の丸の郭の縁は、いい具合に崩れていて、のんびりと花見客が、なぜだか沖縄民謡のようなものを踊っていた。
 お城だけでなく、彦根のご城下も、何とも言えない風情があって、ベンガラ格子の町屋とか、いい感じで時代がついていた。養花雨のそぼ降る市街を行けば、先代の鴈治郎そっくりのお坊さんが僧衣の裾をたくし上げて、下駄ばきで濠外の大道の水溜りを跨いでいたりして、関東者としては、惚れ惚れする町並みだった。
 お城の本丸のお庭に、水戸市からだったか、水戸藩士子孫の会だったかの寄贈で「友好の梅の木」というものが植えられていたのにはびっくりした。そんな昔のこと…とか思っていたけれど、あの折の遺恨、今でもそうなのか、と衝撃だったのである。
 安政の大獄で、十三代将軍継嗣争いの相手方・慶喜派を一掃した井伊直弼は、しかし、安政七年の雛の日に、桜田門で頸刎ねられてしまう。
 それから幾日も経たない三月十八日に万延に改元されているけれど、その万延もたった一年足らずで文久に変わる。CMでお馴染みの老舗のカステラ屋さんだったか、佃煮屋さんだったかがこのころ創業したわけで、西暦にすると1860年前後のことである。
 暦を見ると、万延元年は、閏月が三月に有った。ということは、井伊直弼が卒した三月三日は、今の暦と同じぐらいの感覚の三月三日で、ずいぶん寒かったのだろう。雪が降ってしまったのもむべなるかな…。
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エル・ブランコ鍋

2010年04月04日 22時50分10秒 | フリーク隠居
 サッカーにものすごくハマったことがあった。もちろん観戦である。
 2002年、日韓共催のワールドカップ。それ以前は全くサッカー夜明け前の私で、一顧だにしなかったのだったが、思いがけなく観た欧州サッカーは、ものすごく楽しいんである。
 さすがは狩猟民族、片側のゴールにいたかと思うと、テニスのボールのように向こう側に人群れがワーッと行って、再び戻ってワーッと行って、あとに数人倒れていたりして、こりゃーサッカーは格闘技なんだわ、と思った。
 で、一般のにわかファンというのはそれで終わりなんだが、私は去り際が見極められないというか、一度ファンになったら、しぶとく贔屓であり続けるところをモットーとした、古典的な義理がたい日本人なので、思い切り悪く、ずっと応援していたのである。
 フリークするには、だれか核になる選手なり監督なりの、その世界の達人がほしい。欧州のお兄さん方は男前ばかりだが、見てくれだけではだめで、熱狂するだけの裏付けがほしい。私の場合の「ものすごく男前」の基準は、キュートで、自分の道の手練れで、しかし何となく脆いところがある。当然、才能があって努力家で、その道のプロで天才的なんだが、一種ヘタレなところがある、というキャラクターに、グッとくるのである。
 さて、そういうわけで、デル・ピエロのフリークになった私は、ある年、ついにやってきました! われらがユヴェントスがチャンピオンズリーグで、クイーンの「ウィーアーザ・チャンピオン」を、決勝戦の最後に歌える機会が訪れるという、クラブファンなら誰しもが夢に見る、かなりいい線まで勝ち進んだ。
 手に汗握る名カード続き、準決勝で最強敵のエル・ブランコ、レアル・マドリーと当たることになった。
 こうなると、もはやファンとしてやることは一つ。ゲン担ぎの応援しかない。
 そのときのレアルには、軍神ジダンがいた。
 私は、ありとあらゆる食材の白いものをぶち込んだ鍋をつくった。レアルはそのユニフォームの色ゆえに「エル・ブランコ(スペイン語で白)」という愛称を持っていた。ヤクルト戦でヤクルトを、日ハム戦でハムを、対戦相手ファンが喰らうのと同じ原理である。
 お豆腐、はんぺん、白シメジ、エノキに白ねぎ、大和芋、大根…etc.仕上げは豆乳である。これが案外イケたりして。本人いたって大真面目で、ビッグイヤー獲りの調伏の儀式に臨んだ。
 そして……。
 乙女の一念、ついに、ユヴェントスはレアルを降し、決勝に進んだ。(続く)
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江戸橋

2010年04月02日 00時03分28秒 | 旧地名フェチ
 今はもう紛失してしまったが、ホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」という絵が好きで、額縁に入れて飾っていた。それは、新聞の日曜版で、名画の紹介をしていた連載の図版である。1970年代の後半だったか、そのころはまだ珍しかったカラー版で、新聞紙1面の2分の1ほどの大きさだった。
 空に伸びるポプラの樹影が、私が子供のころ通っていた小学校の運動場のと似ていて、とても好きだったのである。あの青空には、まだ見ぬ未来に対する、ワクワクする明るい風が吹いていた。1980年前後にもう一度同様の図版記事が掲載されて、それをつい数年前まで大切に持っていた。
 切り抜きなので、何となく書棚の上の、隠れたようなところにこっそり飾っていたのだが、それはまた、のちに別な意味で、自らを戒めとする絵にもなっていた。
 この絵が創作されたとされた年代が、考証の結果、訂正されることとなったからである。それは、遠景に描かれた役場の施設が、当初の制作推定年代ではまだ、建設されていなかったということが、のちの研究者によってわかったからだそうなのだ。
 これは、歴史を伝えていく者は、常に、既成観念や単一の文献を鵜呑みにしないで、地道にいろいろ調べたほうがよいよ、という自分を戒める類例になっていて、単に好きだった風景が、さらに思い入れのある特別な一枚の絵となった。

 平成の4年ごろ、浅草からの帰り道の地下鉄の車中で、何となく会話が途切れて、ドアの上の地下鉄路線図を見ていたとき、同道していた知人が「日本橋って前は江戸橋って言ってませんでしたっけ?いつの間に日本橋になったんだろう」と言った。
 そうそう、そうでしたよ、確か、昭和通りのほうの駅は、江戸橋でしたよね。
 そのとき私は、自分が持っていた1970年代後半の地図の絵面を思い浮かべてそう答えた。そのときはそのままになってしまったが…。
 …江戸橋駅が、いつのまに、どうして日本橋駅に変わってしまったのだろう。
 気になる。
コメント (2)
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時雨西行

2010年04月01日 01時02分15秒 | お稽古
 山頭火の「うしろ姿の時雨ていくか」は、雲水の峻厳な果てしない旅程を感じさせて、時雨どきの寒々とした季節感がしみじみと偲ばれるけれども、同じ雲水の西行法師をモチーフにした長唄『時雨西行』は、その曲調の優美さもあるのか、なぜだか、花散る宵のイメージがある。
 昔、玉三郎が、歌舞伎座で勤めたときに、桜の花びらが散っていたような記憶もある。夢枕獏が大和屋のために書き下ろした芝居と、記憶が錯綜してしまったかもしれない。
 今日は旧暦だと如月の十六日。
 西行が「願わくば花のもとにて春死なむ その如月の望月のころ」と歌った、そんなころ。
 春爛漫と桜が咲きそろうのと、月が満月になるのと、同時にやってくる年はそうそうないから、今年はとても西行法師を偲ぶのによいめぐり合わせなのだ。
 
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