長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

私たちの居た場所

2022年01月02日 23時28分39秒 | 旧地名フェチ
この時季ならではの必然的な用向きで、宮益坂の渋谷郵便局へ向かう。
渋谷のまちは私の学生時代、明治通りが長いこと工事中だったが、それから40年余りたった現在も大工事中である。

ことに、この度の大改造は…何かというとmy休息の場所であった東急プラザが建て替わり、そして今また屋上から地下街まで自分の庭のように思っていた東急東横店(井の頭線コンコースから階段を使わずにデパート内のエスカレーターだけで東館へ抜ける道筋を知っていたのは私の密かな自慢でもありました)を失うに至り…自分の体のように感じていた場所を一つ、また一つと喪って、“逆どろろ”現象とでも申しましょうか、
「この場所に85年間、東急東横線渋谷駅がありました」という看板を見るたび泣いていたのだが、その看板すらなくなってしまった。

2019年暮れの地下鉄銀座線渋谷駅最終日は、偶々青山1丁目に用事があったので立ち会うことが出来た。
宮益坂から、以前取引先の関係でよく立ち寄った三菱信託銀行の脇を入って、ヒカリエを抜けて銀座線の高架通路沿いに井の頭線へ至る帰り道、通るたび変わってゆく景色と工事の進捗状況に、しばし感慨に耽る。
明治通りの中空に出来た新しい銀座線渋谷駅の、まだ工事中である西片の旧東急東横店遺構内のレールの先に、かつて私たちが佇んでいた、旧銀座線渋谷駅のホームが見える。

あの場所から、むかし、押上の住民だった"整いました"の友と浅草へ出掛けた。
半蔵門線が半蔵門駅までしかなかった昭和の学生時代、神保町の古書店街へ行くのも、あのホームからだった。
平成ヒトケタ時代に勤めていた虎ノ門の会社や、新橋、銀座、木挽町の歌舞伎座、三宅坂の国立劇場へ向かうのも、あの場所からだったのだ。
あのホームに立って電車を待っていた人々は、今はどうして居るのだろ…

渋谷の街角はこのところ我が愁嘆場と化していた。
 …われ 人と とめゆきて 涙差しぐみ かへりきぬ……
圓歌師匠も泉下へ赴かれた。
談志師匠のお誕生日に往古の念にとらわれるのも因縁でありましょうか。

20世紀の渋谷の街は、もっとずっと、お洒落で明るい生き生きとした日常生活と風情のある、活気にあふれた美しい街だったのですよ…
無機質でただただ巨大な建設中のビル群は、もう何世紀か経つとパルテノン神殿かストーンヘンジに似た廃墟への未来を予感させて、人間の寸法で出来ていた温もりのある街並みを懐かしみ、我々にとっての幸いとはどこに在ったものだったのか、と、独り顧みる。


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杏壇

2017年03月31日 13時14分15秒 | 旧地名フェチ


 新年早々、背に腹は代えられぬ仔細があって、20年以上も契約してきた携帯会社を替えることになった。汎用タイプの道具は代えが利くから仕方ない。
 しかし、日本という北半球のガラパゴス生態系の中でも特にガラパゴス化してしまった私には、この新しい道具には痛痒しか感じない。パタパタンと半分に折れてプッシュボタンもあって、一見ガラケーだが、画面を押しても使えるスマフォである、というニューフェイスは、片手で操作できる、という秀逸な特徴を残して魅力であるが、その分、痒いところに手が届かないのだった。
 ことにカメラ。ただ写すだけで何の設定もできない。これではピンホールカメラではないか、原始的な。泣く泣く別れたシャープの愛機を思う。
 嗚呼、シャープ。なんという優れたメーカーであったことか。ワープロ時代、『書院』という素晴らしい日本語変換機能を備えた道具の製造販売元であった。道具は使う者の身に沿って、初めて道具たり得るのだ。今の商売第一主義は何たること。使う者が使う物に合わせなくてはならず不自由することを強要する、不遜な考えなのだ。
 
 そんなわけで気の利いた写真が撮れず、そうだ、文章を書いてる時間がなければ写真を載せればいいじゃない!…という安直な発想を、折々の情景というカテゴリに目論んでもみたのだが、早々に挫折した。
 表題は、ちょっとピンボケ…どころか、かなりピンボケな、彼岸の、昌平黌の情景である。

 しょうへいこう…!! なんと心ときめく名称であろう。幕末に旗本の家に生まれていたら絶対通いたかった、お玉が池の千葉道場と同等…いや、文系の私には、それよりもっと憧れの昌平黌。
 もう梅はこぼれてしまったし、まだ桜には早いし…いったい何の花だろうと近寄ったら、驚くまいことか、アンズの花の花盛りなのだった。梅に鶯、竹に虎、孔子廟には杏、の本寸法。
 
 なんの思うところもなく気の向くまま、うららかな日差しを浴びながら今では湯島の聖堂と呼ばれるこの場所へ、二十数年ぶりに参ったのは、先述の観梅の心を引きずってのこともあったのかもしれない。
 関東大震災であらかたが焼失したという、維新以降の有為転変の世の中を、ことごとく体現してしまったようなこの場所の不遇は、ぼんやりととりとめもなく咲き乱れる、薄紫の花ダイコンがはびこっている廟内の庭からもうかがい知れた。
 花大根を、オオアラセイトウと表記したほうがカッコいいけれども、その花容にそぐわない。…そうだ、別名・諸葛采で呼ぶと、ぐっとこの場所には似合うのかもしれない。

 大成殿に、面白い道具が展示されていた。「宥座の器」。
 銅(あかがね)製の手のひらぐらいの寸法の壺が、ブランコのように、二本の鎖で中空に吊られている。
 孔子の教えを改めて実感できるよう、見物者が水を入れて実験できるようになっている。
 以下、殿内の解説にあった荀子の『宥座篇』から引用の一文を写す。

「…虚なればすなわち傾き、中なればすなわち正しく、満つればすなわち覆る…」
 中庸の徳、謙虚の徳を説いたものだそうである。

 …そいえば信長くんの行く末を、安国寺恵瓊が「高転びに、仰のけに転ぶ」だろう、とか言ってたっけなぁ、藤原道長も満月が好きすぎたよなぁ…などと、胸に去来した次第。


 
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渡船場

2013年10月02日 12時20分22秒 | 旧地名フェチ
 波止場じゃないょ、渡船場だょ。
 マーロン・ブランドでも小林旭でも宍戸錠でもない。
 むしろ日活よりも松竹っぽい「下町の太陽」的な、渡船場を巡っております。

 ことの発端は、文楽を追っかけて大阪まで出向いた時のこと。
 偶々その月は、鑑賞教室で公演日程が短かったのですね。
 前日乗り込み、日中は例によって真田山など歴史探訪をいたし、夜は天満天神繁昌亭で上方落語を堪能しまして、さて翌日。通常営業のお芝居なら午前11時開演ですが、私にはあいにく2日間の時間しかないので、一分一秒が愛おしい。
 とはいえ、カタギのお勤めの方々とは休日が違いますので、道頓堀クルーズもやってない。おはよう寄席もやってない。
 ラジオ体操以外に、早朝からオモシロい場所は無いものか。

 人間、一心に探せば何かしら見つかるもんでございます。
 大阪にはまだ、渡船場があるんですね。東京にも矢切りの渡しなどございまして、私も20年以前、お江戸散策に凝ってたころ参りました。
 でも東京の堀、水路は、先の東京オリンピックの折、ほとんど全部埋め立てられちゃった。
 
 6月の朝早く難波江の宿を立ち出でまして、まずは私的因縁の天保山渡船場へ。
 なんと、舟に乗って向こう岸まで渡してもらえるのに、ロハなんですねぇ。地元の方々の足ですから、皆さんほとんど自転車で渡られます。
 ほんの短い間ですが、磯の匂いがする汐風に吹かれて袖口をパタパタさせたりする、その心地よさときたら…!

 そのあと、日本橋の文楽劇場へ参ったのですが、なんと…!
 番組が日高川……奇跡の渡船場繋がりです。
 (そのとき私の興奮は、芝居本体とは別な意味合いでも最高潮に達しました)

 それから、大阪に用事があるとき、時間が許せば渡船場へ参るようにしております。
 渡船場は地面のどん詰まりですから、そこまで行くのが大変です。
 バスの路線を調べたり、かなりの分数歩きます。

 先日は中之島で重大な用事がありましたその前に、千歳渡船場と甚兵衛渡船場のハシゴを、実に理想的な順路で遂行いたしました。
 …たぶん、小舟とバスの殺人トリックなら西村御大をしのげるかもしれない。

 お仕着せの観光は、つまらないですからねぇ。
 
 
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武州の春(回想)

2013年07月30日 13時32分30秒 | 旧地名フェチ
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移りゆく…

2013年03月23日 12時13分03秒 | 旧地名フェチ
 昨秋の楊洲周延(ちかのぶ)展以来になる、平木浮世絵美術館を尋ねたのは彼岸の中日過ぎだった。
 平木浮世絵美術館。昭和の終わりごろリッカー美術館が無くなり、さびしく思っていたところ、平成何年ごろだったろうか、木曽路を旅した友人が、平木浮世絵美術館が在った、と入場券の半券をくれた。
 …そうか、あのコレクションを見るには旅に出なくてはならなくなったか…とバブルも弾け混濁した時代を、身過ぎ世過ぎのまま、ぼんやりとやり過ごしているうちに、今度は、横浜そごう美術館わきに移設復活したと聞いた。うれしかった。お隣のそごう美術館とは趣の違う、照明を落とした入口の様子は、今でも目の前に浮かぶ。
 そうこうしているうちに、そごうデパートも無くなり、再び休館していたのがいつの間にかまた蘇って、ららぽーと豊洲内に移設されたという。
 幾たびか出会いと別れを繰り返し…あきらめていた旧知のものと、ふたたびめぐり会える悦び。雀躍りして、それがやっと叶ったのが、昨年10月の周延展。私は地下鉄有楽町線豊洲駅に生まれて初めて降り立った。

 今期の展覧会は、「江戸名所百景」でおなじみ歌川広重、最後の浮世絵師・小林清親、そして「昭和大東京百図絵」の小泉癸巳男(きしお)。
 此度は、向島、上野、橋、大通り、大店、夜の花街…というテーマごとにそれぞれの絵が配置され、比べ眺めることができる。
 三者三様の視点から描かれた、江戸、明治、戦前の昭和の風景が、私の眼の前に拡がる。
 
 小林清親。昭和50年代の終わりごろだったろうか、彼の生涯を描いた杉本章子『東京新大橋雨中図』という時代小説にぞっこん惚れ込んだ私は、蝸牛社刊『最後の浮世絵師・小林清親』という評伝集までも手に入れ、「最後の浮世絵師」なるカッコイイ呼称に酔った。

 そんな、なつかしい小林清親。「大傳馬町大丸」の背景に広がる雲の、そのふちの描き方。薄いグレイで、ふちだけ明るい。逆光で日の光を透かして見せる、雨上がりの空にある雲は、たしかにこんな光線で縁取られた色合いをしている。改めて、彼の絵が光線画と呼ばれていた意味合いを反芻した。

 そして、小泉癸巳男。彼は、関東大震災から復興した、昭和ひとケタ時代から戦前の東京の風景を、自画自刻自摺で描いた人である。
 その鮮やかな色彩感覚。まさしく、ハイカラ、モダンという形容がぴったりの色合いと発色。
 そして、自分が若いときに好きで映画館でむさぼるように観ていた、セピアカラーのフィルムから網膜に焼き付けた、戦前の東京の景色。
 …戸越銀座駅(荏原区)の青い空、戦災で焼失してしまった芝公園の塔と梅林、春場所の国技館、聖橋、築地・本願寺、同じく築地・かちどき渡し…etc.
 春の地下鉄、という銀座線1000系車輌の車中車窓の絵。押上の友を想い出す。
 いつの間にか私は泣きそうになっていて、もうこの絵の中にしか残っていない、この素晴らしい風景を、どうにか記憶にとどめようと、売店で図録をさがした。

 受付の学芸員さんに、同じ敷地内で前回訪れた場所と違っていたことと合わせて訊ねると、今回の図録はなく、平木浮世絵美術館も、今展覧会終了時で休館してしまうという。
 急な別れにビックリして、でも諦めがたいのでチラシだけでもないかと訊ねると、展示作品名一覧があります…といって、ひとひらの紙を渡してくれた。

 外からでは壁の一部と見紛うほどにフラットで静かな美術館のドアを開ける。
 …明日もまた来よう…来られるはずだ…なにしろこの週末でまた何度目かの別れで、いつまた会えるとも知れぬのだ。土日は稽古で来られぬまでも、明日の金曜日も絶対来るのだ……
 と、静かに燃える青い炎の如き情念を胸にともした私は、ドア真正面にある晴海通りのバス停へ走った。東京駅八重洲口ゆきのバスが、目の前に来ていた。

 急いで飛び乗り、一番後ろのシートに座ると、バスは石川島播磨重工業の角を右折して、越中島へ道をとる。
 路肩を広げている工事中の豊洲橋。信号でバスが停まったので、頂いたまま慌ただしく鞄の中にしまった作品名一覧を拡げて見た。

   移りゆく風景 広重・清親・癸巳男

 というタイトルと会期が、やはり私の大好きな懐かしい書体、宋朝体で印字されていた。
 …こんなところが好きだったんだな、それに、こんなところの好みも同じなんだ…。
 なんだか急に胸が苦しくなって、花粉やら黄砂やら午前中なのに…いや午後だからPM2.5やら除けのマスクの下で、私はちょっと泣いた。

 バスは大横川を渡る。隅田川と合流する辺りの、何本かの橋が重なって見えるこの風景は、ついさっき見た、会場の版画の中にもあった景色だ。
 バスの窓から絵の面影を探しながら、私は小泉癸巳男作、江戸ばしと其の附近、を想い出していた。
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ひこにゃん警報 デッドエンド

2011年04月22日 03時00分00秒 | 旧地名フェチ
 3.11のショックも冷めやらぬ2週間ほどのちの3月末。西の方へ傾く午後の光を浴びながら、私は千代田城の濠端を歩いていた。
 気象庁前の内濠では、オシドリが巴の渦を巻きながらぐるぐる回っている。やっぱり、城の石垣とは美しいものだ…と、ひとしきり感じ入りながら、和田倉門から東京駅のほうへ曲がろうと歩を進めると、あろうことか、大手門すぐわきの石垣が、10間ほども崩れている。
 城の石垣が破れているのを見たのは、10年ほど前だったか、泉州・岸和田城に行って以来だ。たしか、台風で、室生寺の五重塔が、杉木立に壊された年のころだった。
 城壁や天守が無くなっても、石垣だけは堅固に残っている印象があったので、私はちょっと、うろたえた。
 いよいよ、国破れて山河あり…の想いを深くしながら、何となくうつむき加減になって、でも大手門に来たのは久しぶりなので、空を見上げた。隅櫓に陰を落とす日輪がまぶしい。
 …それで、安政の大地震のことを思い出した。

 1867年(慶応三)の大政奉還から遡ること12年ほど前の、やはり卯歳。安政二年(1855)、江戸に大地震があった。
 そのころ、時の政府は大火に備えての防火対策一本遣りで、とにかく建築物の壁を厚く、屋根を頑丈にするような政策を進めていたから、自身の重量による倒壊家屋はおびただしく、圧死者は2万5000人にものぼったという。
 猫に導かれ災厄を免れた二代藩主直孝から200年ほどのち。彦根の殿様も、安政五年に粛清の嵐・安政の大獄をやらかした、十五代藩主・掃部頭(かもんのかみ)直弼へと、代を重ねていた。彼が大老になる、3年ほど前。
 黒船が来た嘉永六年(1853)、日本はついに幕末になって、一方的に開国を迫る外国との付き合い方をどうするかで国体が揺らいでいたのだが、地面もまた、揺れていた。

 本丸から西北側一帯は武蔵野台地。東南側は日比谷入江の堆積層。霞が関の坂と九段の坂を歩いてみれば実感できると思うが、同じ江戸城の周りとはいえ、地盤の違いがあったから、諸大名屋敷の被害も、場所によってかなりの差があったらしい。
 すわ一大事と、お城に駆け付けたある旗本が、常のように大手門から登城しようとしたが、大手門正面の酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷が炎上していて近づけなかったという。

 この酒井雅楽頭は、井伊直弼と並び、江戸幕府二大大老として名を残す、酒井忠清の子孫である。
 酒井雅楽頭忠清は、四代将軍家綱のもとで絶大なる権勢をふるい、山本周五郎『樅の木は残った』、歌舞伎『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』のモデルとなった「伊達騒動」の一因を握る、悪のキーマンとして描かれる。

 大手町1丁目。いまある東京消防庁本部から、三井物産の本社がある辺り一帯が、酒井邸。
 現在、井伊直弼が襲われた桜田門外に治安の要・警視庁があり、安政大地震で炎上した酒井邸跡に東京消防庁がある。何となく因縁めいて、興味深い。

 一方、井伊直弼との因縁ただならぬ小石川の水戸藩邸は、やはり揺れに揺れて、賢臣・藤田東湖、戸田蓬軒の両田を地震によって失う。九代藩主徳川斉昭は、ますます怪気炎を吐きわが道を爆走。この大地震が、ひょっとすると、幕末の水戸藩のターニングポイントだったのかもしれない。

 そうして、和田倉門の正面に屋敷のあった老中筆頭で水戸家寄りの阿部伊勢守正弘も、安政大地震で甚大な被害を被り、わずか2年後に病没。
 それと入れ替わるように台頭した井伊大老も、安政七年(1860)三月三日に暗殺され、それから半月後の三月十八日、安政は万延に改元される。

 明治以降、一世一元となったが、それ以前は何かにつけて改元された。天変地異をも、天下を治める者の至らぬのが原因とされたから、いにしえの天下人は責任重大だったのだ。
 公武合体策により、十四代将軍家茂に降嫁した和宮の兄である孝明天皇が、在位した1846年から20年の間、弘化、嘉永、安政、万延、文久、元治、慶応と、元号は七たび、変わった。

 面白いことに、日本には、辛酉(しんゆう・かのととり)の年には天命があらたまる、つまり革命が起きて王朝が変わる、という考え方があった。その災厄を逃れるため、改元が行われたのである。
 それゆえ、菅原道真公が大宰府に左遷された901年に始まる、醍醐天皇の延喜の御代から60年ごとの辛酉の年は、戦国の騒乱の時などを除いて、必ず改元されているのだ。
 この思想は、明治になる前の1861年の文久元年の改元を最後に、901年から辛酉の年は17回マイナス始まりの1回目、掛けることの60年で、960年もの間、続けられてきたのである。お手元に日本史年表がある方はお確かめください。
 肌が粟立つような、ビックリさ加減である。これというのも、日本が二千年もの間、たった一つの皇統を頭に戴いて国を形づくっていたという、この地球上どこにも類を見ない形態の国であったからだろう。

 しかしまあ、こうも閉塞感が世の中を覆い尽くすと、ここらで、パーッと改元してみますか、人心刷新のためにも…という方策が分からないでもない。

 一昨日、4月20日は旧暦では平成廿三年三月十八日で、ざっと百五十年ほど前の日本では、そんなことがあったのである。
 安政大地震は卯歳に起き、江戸市中が瓦解した。そしてさらに12年後の卯歳、慶応三年(1867)、江戸幕府が崩壊する。
 そしてまた2011年の平成23年の卯歳、東日本大震災が起き、大地のみならず、日本の国の在りようも揺れている。

 安政七年に、井伊家にひこにゃん警報があったら、歴史はどう変わっていたのだろう。
 こうして打っているキーボードはローマ字変換だが、それどころか、もう全然違う、英字だけの言葉を使う国になっていたのかもしれない。…平成になって加速する欧米化は、もうひとつの別の未来では、百年がところ、進んでいたのかもしれない。
 ねぇ、どうなのよ…と、ここしばらくぶら下げられて、やや面長になったひこにゃんのあごの長さを睨んでみた。
 ひこにゃんは、ぴくともしない。


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塔が立つ

2011年02月28日 00時02分08秒 | 旧地名フェチ
 二月の朔日、稽古場の花を、いつもとは違う花屋さんで購入。
 葉牡丹に白いチューリップ、黒文字ならぬ青文字の実付きの枝。そして、佐藤錦かナポレオンの、桜園の副産物か、山形産の敬翁桜。
 切り花はほとんど一週間が寿命なのだが、この花屋さんのは手入れがよいのか、実に日持ちして、十日を過ぎても稽古場の華となっていた。
 建国記念日の連休もあって五日ぶり…ああっつ、いけない、稽古場の花を買うのを忘れた…と思いながら、さて、稽古場の扉を開けたら、葉牡丹が常の葉牡丹ではない。葉牡丹の花芯様の、中心部分がにょきにょきと伸びて、違う植物になっていた。
 …つまり、薹が立っていた。
 あまりのことに私は噴き出した。これだ!これが本当に「薹が立った」ってやつだ。
 
 へええええ…慣用句には聞いていたけれど、本当に、薹って、立つんだね。
 びっくりした。この年になって、坊主の髷と、人間じゃない薹の立ったのは始めて見た。
 あまりにも面白いので、このまま捨てるには忍びなく、新しい花に生け替えずに、みんなに見てもらうことにした。
 見ごろ、食べごろ、賞翫するにちょうどよい時節を過ぎ、飾り花としての盛りを過ぎて、かくも野放図に育ってしまった、稽古場にはあるまじきこのテイを、さらに愛でようという、師匠も師匠なら弟子も弟子だ。 
 「トウが立つって、本当は何なんですか?」と、二十代の弟子のひとりが訊く。
 ま、何でしょうね、ああたは、大学を出てそんなことも知らないのかえ…と思いながら、蕗の薹とか、ああいうのを言うのよ、くさかんむりに台って字の旧字でさ、戦前の地図の台湾の台って字に似てるやつ…と説明しつつ、そうだ、この形状では、薹が立ったのを、塔が立ったと取り違えても、現代っ子はしょうがないよな…と気付いた。

 塔が立つ。バベルの塔なんて珍しくもない平成の世には、押上に塔が立つ。
 業平橋駅は、そんなわけで、来年の春には、スカイツリー前駅とかいう、味気のない、名称に変わってしまうらしい。
 業平橋って、カッコいい地名だったのになぁ。
 伊勢物語、在原業平。六歌仙、在原業平。東下り、在原業平。なんてったって業平。

 長唄「都鳥」は、業平くんの歌「名にし負わば いざこと問わん都鳥 わが思う人はありやなしやと…」を下敷きにした珠玉のラブソングだ。現代なら車でデートするところ、舟での逢瀬を、しっとりと、隅田川の情景とともに唄い込んだ、弾き込むほどに味わいの出る作品だ。

 そういえば、知人にナリヒラさんという、めっぽう男前の呉服屋さんがいる。
 名前ではなく名字で、漢字を当てると成平さんという。唄う時代劇スターの元祖・高田浩吉のお孫さんである、大浦龍宇一をワイルドにしたような、カッコいいお兄いさんだ。
 …その比喩で分かってくれた人は、私の身の回りに二人しかいなかったけれども。

 さて、業平橋のお隣町の押上には、わが心の「整いました!」の盟友、Yさんのご実家があった。
 私が押上に行ったのは、後にも先にもたった一度、早世したYさんのご葬儀のときだった。薹が立つお年頃って、お肌の曲がり角の25歳ごろ? Yさんは25か26に、なるやならずで旅立った。
 それは秋の日で、訃報を聞いてもなにやら実感がわかず、まだ鶴の丸紋から新たにCI革命したばかりの銀座の松屋で、そのころの婦人服のブランドでは、人口に膾炙した決定版バーバリーのコートではなく、アクアスキュータムを欲しがる人がチョイスする感じの、渡辺雪三郎…ミッチの喪服を買った時も、なんだかイベントの衣裳を買うような心持ちで、私は常とは違う興奮状態にあった。
 お通夜で、鼻に綿を詰めたYさんの顔を見ても、どうにも実感がわかず、私は落語の「粗忽長屋」のクマ公のように、不思議な心持ちでいた。
 そうか、やっぱり自分は、こんなに仲良くして下さったYさんが死んだというのに、涙の一粒も出ない、冷血漢の、人でなしだったんだ…と思いながら、葬式の朝を迎えた。

 その時分、押上に出るのは今のように鉄道が便利になっていなかった。
 私は葬儀に遅刻しそうになって、押上の駅から葬儀場へ走った。商店街の角を曲がると、向こうのほうに、むらむらと集まっている黒い人々の背中が遠くに見えた。
 ぜいぜいハアハアという呼吸を整えようと、大きく息をついたその瞬間、息が嗚咽に変わっていた。
 そのあと、自分でも驚くほどめくらめっぽうやたらに泣いて、葬儀のあと、友人に、あんまり泣き過ぎないように、と、たしなめられた。
 
 あれからずいぶん時が過ぎ、新しくなった押上駅も、駅構内を乗り換えで通ったことはあるが、改札口を出たことは一度もない。

 業平橋の駅名もなくなる。
 チェーホフの『三人姉妹』のラストの台詞を、綯い交ぜに想い出す。
 時が経って、私たちがこの世から永久にいなくなれば、この駅が業平橋だったことも、忘れられてしまう。
 地下鉄が浅草で行き止まりで、押上から通学するYくんとよく浅草で喰い倒れていたことも、浅草十二階があの場所にあった!と指さした方角に、仁丹の軍服のカイゼル髭のオジサンの大きい看板が見えたような気がしたことも。
 それから、江戸川乱歩の小説にも出てくる、一銭蒸気の船着き場が、吾妻橋の袂にあったことも。
 …そして、その話をしながら吾妻橋を渡って行った先の、孫悟空のキント雲のような巨大なオブジェを従えたビール会社のタワーは、昭和のころは工場廠内のようなビヤホールだったことも……私たちが何人姉妹…何人で浅草の観音さまにお参りに行ったかってことも、みんな忘れられてしまうのだろう。
 …でも思いだけは、残るのだ。

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南部坂(三大仇討②忠臣蔵)

2011年01月18日 01時30分00秒 | 旧地名フェチ
 今日17日は、旧暦だと平成廿三年十二月十四日である。元禄十五年の今月今夜、赤穂浪士が本所松坂町吉良邸へ討ち入った。その前年、西暦でいえば1701年、元禄十四年三月十四日に切腹した主君の命日である。
 (ちなみに、祥月命日というのは、日にちだけでなく月も同じ命日のことである。昨年、電車の中吊り広告の、とあるお寺さんの沿線散策風紹介記事に「毎月の祥月命日には…」という記述があって、ビックリしたので、蛇足ながら書く)
 この仇討ちに関しては、あまりにもポピュラーなので、もはや私が言うべきことは何もない。
 しかし、日本三大仇討の1と3に言及しておきながら、2を捨て置いてそのまま…というのも、それこそ片手落ちというものでありましょうから、とにかく書く。
 この、暦日を旧暦に当てはめて『金色夜叉』の「今月今夜」的想いにひたる密かな愉しみは、今年は雪が降らなかったねぇ…と、独りごちることである。

 ひとつ言いたいのは、吉良上野介は憎まれ役ではあるのだが、高家筆頭という、朝廷に倣った幕府の儀式を取り仕切る家の人なのだから、人品骨柄いやしからぬ、立派な顔立ちで品のある役者に演じてもらいたい…ということだ。
 先代勘三郎の高師直の意地の悪いことといったら、痛快ですらあった。しかし私はあるときから…もう二十年以前だが、畝と水田のうつくしい三河の国・吉良の荘へ旅したとき、吉良贔屓になった。

 討ち入り前夜、忠臣たちはほうぼうに、しかし先方にそうと知れぬよう、別れを言いに行った。もとより、命懸けである。
 このあいだ煤竹を売っていた大高源吾は道すがら宝井其角に、赤垣源蔵はお兄さんに徳利の別れ、そして、大石内蔵助は、主君・浅野内匠頭の奥方・瑤泉院に。
 瑤泉院というと、どうしても私には口元がほころばずにはいられない、想い出がある。

 今はなき銀座・並木座の、昭和の文豪名作映画特集だったかで、林芙美子の『放浪記』を観たときのことだ。
 並木座は、おなじみの古い日本映画を実に絶妙なタイミングで、何度も上映してくれる心強い名画座だった。八月が来るたびに戦争映画特集をやり、心深き秋になれば、社会派推理ドラマの松本清張原作作品特集をやった。
 たしか、私がはじめて並木座へ行ったのは、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』が上映されたときだったと思う。プランタンはまだ、なかった。

 成瀬巳喜男監督の『放浪記』で、高峰秀子の林芙美子が、艱難辛苦の末、立派な作家先生になり、自宅で編集者たちが原稿待ちをしている。ところへ、母親役の田中絹代が編集者諸氏をねぎらうために出てくる。立派な被布を着ている。被布(ひふ)というのは、簡単にいえば、着物の道行コートにへちまカラーのような折れ襟と、組紐の飾りがついている衣装である。
 芙美子は苦労をしたので、ことさら自分に、このような立派な衣装を着せたがって困る、と母親が愚痴ると、たしか、編集者役の加東大介が「忠臣蔵の、瑤泉院みたいですね」とぽろっという。
 場内大爆笑。観客一同、社会通念が世代を超えて共通していた時代だったので、同じ映画を観て一喜一憂している一体感というものが、昔の映画館にはあった。加東大介のセリフの面白さ以上に、みなでドッと笑った楽しさ、というものが、劇場内に満ちていた。面白さは誰かと共有すると倍増するのだ。

 今世紀になってから、『少林サッカー』を封切り時に映画館で観たとき、この感覚が甦ってきて、愉しかったものである。たぶん、同じ作品を自宅のビデオで一人、もしくは少人数で観るより、何割方かは、愉快ツーカイ度が増している。

 今日では歴史散歩はすっかりポピュラーになったので、内蔵助が最後の挨拶に行く浅野屋敷があった南部坂は赤坂福吉町、今でいえば、赤坂アークヒルズの六本木通りを挟んだ真向かいの細い道を入った先のあたりにある、というのはみなさんよくご存じであろう。
 しかし、昭和の終わりごろから平成ひとケタ時代、日本文化のまったく打ち捨てられ忘れ去られていたころ、この南部坂は、麻布のものと勘違いされていたことがあり、誰かからもそう聞かされたことがあった。寄席でそう言っていた講釈師もいたような…。

 南部藩のお屋敷があったから南部坂と命名されたわけだが、未亡人となって落飾した瑤泉院が身を寄せていたのは、親戚筋の浅野家のお屋敷。今の東京がそうであるように、三百年の長い間、江戸の切絵図も出版年代によって変わっているから、参考文献に使うときは、気をつけなくてはならない。
 元禄十四年を遡ること五十年ほど前にすでに、プレ有栖川公園は、浅野家から南部侯のお屋敷に替わっていたそうなのだ。

 さて、麻布の南部坂。広尾駅から有栖川公園へ向かっていくと、右手にスーパーのナショナル。そのナショナルと公園の間の、ゆるゆるとした道が南部坂だ。
 学生のころ、渋谷の学校からテクテク歩き、ナショナルで食糧を仕入れて、有栖川公園でおやつの時間。それから園内の図書館で、一応、調べ物のようなことをする。昭和の空はまだまだ青く、私は呑気だった。そのころの広尾の商店街は、まったくもって庶民的だった。
 よく観光地に「○×の奥座敷」という形容があるが、昭和の終わりのころ、広尾も赤坂も、「東京の奥座敷」というような、そんな感じの場所だった。
 広尾にも福吉町にも、もうずいぶん行っていない。すっかり違う街になっているのでしょうね…。
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江戸から東京へ

2010年08月26日 23時55分00秒 | 旧地名フェチ
 もう十年近く前のことになろうか、JR市ヶ谷駅のホームで、電車を待っていた。
 市ヶ谷駅はご存知のように、江戸城のお濠端にある。ホームに立っていると、釣り堀が見えたりして、お濠の向こうに車の往来の激しい外堀通りがあるのだが、水の流れが騒音を遮るのだろうか、喧騒を忘れる。

 たしか、初夏のいささか蒸す季節だったように思う。何となく、澱が淀んだような、水辺の腐ったような、下水の詰まったような、あまり気持ちのよくない臭いが辺りに漂っていた。……想い出せないが、浚渫工事でもしていたのかもしれない。

 「宮城(きゅうじょう)のそばで、こんな臭いをさせちゃあいけないよ…!」
 同じくホームで電車を待っていた、七、八十ぐらいの小母さんの、怒ったような独り言が聞こえた。

 …宮城。懐かしい響きの言葉だ。私は生まれたときから皇居と呼んでいるけれども、たしか、明治生まれの祖母や、大正生まれの諸先輩方は、宮城と呼んでいた。
 その変わり目はやっぱり、太平洋戦争をはさんで戦前と戦後が、境目になっているのだろうか。

 今日は、旧暦の七月十七日。
 さかのぼることの142年前の1868年、慶応四年のきょう、江戸が東京と、名を替えた。
 彰義隊の上野の山の戦も終息して、前年の十月に大政奉還し、水戸へ去っていた徳川慶喜も駿府へ移り、十六代が立って徳川本家の処遇も決着した。
 …戊辰戦争はまだ続いていたのだけれども。
 土方さんが会津戦争に向かい、福島を転戦していたころ。近藤さんは四月に、すでに板橋で処刑されてしまった。今年、大河ドラマで何かと取り沙汰される坂本竜馬も、慶応三年の十一月に暗殺されて、もういなくなっていた。

 慶応四年九月八日、慶応は明治に改元されて、1868年は明治元年となる。
 江戸城が東京城と名を替えたのは、同年十月十三日のことである。明治天皇が、初めて東京に入城したのは、この日だそうだ。

 直木三十五の『南国太平記』が面白くて面白くて、登場人物たちの情熱に泣きながら読んでいた二十数年前、彼らが江戸城を、千代田のお城、と呼んでいたような記憶がある。
 それで私も、なんだか江戸城というよりそれが気に入って、千代田城と呼んでみたこともあったっけ。

 名が変わっても存在し続けるというのは、いいことだと思う。
 どのように変わってしまっても、形骸が遺っていれば、偲ぶことができる。
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黒門町

2010年06月01日 01時55分00秒 | 旧地名フェチ
 今を去ること二十年ほど前、平成3年前後のあるとき、私は例によって三ノ輪の辺りをウロウロしていた。都電を大塚から乗って、三ノ輪橋で降りた。
 三ノ輪というともっとシメシメした情緒のある下町だと思っていたのに、目の前にすごい道幅の五差路があって、私はちょっとたじろいだ。右に行けば吉原で投げ込み寺と言われている淨閑寺。まっすぐいけば、日光街道を北上することになる。
 はら~~~。これって、「将軍江戸を去る」のルートじゃないかしら…。そう思って、ちょっと私は泣きそうになった。大政奉還したあと、上野寛永寺にこもっていた最後の将軍・慶喜公が、江戸を離れ水戸へ去るときに通った、真山青果の芝居でものすごく泣ける、千住大橋へ続く道だ。

 平成ひとケタ時代、メリハリのある口跡で、新歌舞伎ものを得意にしていた今の中村梅玉が、徳川慶喜を演じていた。
 つい昨年、前進座が八十周年記念公演で、「江戸城総攻」と、松本清張の「無宿人別帳~左の腕」をかけた。客席はみな、世話物の「左の腕」で中村梅之助にしみじみとしていたが、私は一人、「将軍江戸を去る」で目を真っ赤にしていた。…もう、堪えきれずに、泣けたのだった。こういうテーマが胸に迫って泣き腫らしてるワタシって、もはや前々世紀の遺物なのか…。

 そうだ、ここら辺には、あのお師匠さんが住んでらしたな、と日光街道の車の往き来の激しいのを横目で見ながらふと思った。三ノ輪橋に当時、流派を超えた勉強会でご一緒していた、三味線方のお師匠さんの家がその辺りにあった。
 大正生まれの、丹下キヨ子を可愛くしたような感じのおしさんで、楽屋で三味線の支度を一緒にしていたら、そのおしさんの箱のいたるところから、やたらと糸が出てくる。北見マキみたいなおしさんやなーと自分の三味線を立てながら思っていたら、「あら、あたしったら、糸大尽だワ…」と無邪気におっしゃった。大正ロマン乙女そのままのおしさんだった。
 このおしさんも、二十一世紀の声を聞かぬうちに黄泉へ旅立たれた。

 何となくぼんやりと、その街道を北へ向かったら、左手に、なんだかずいぶん特徴のある堂塔が建っているお寺の前に来た。お釈迦様が九輪を背負われたような形で屹立している。何の気なしにお参りしょうと、寺内に入って驚いた。
 学校の校庭の柵のようなグリーンの金網で仕切られた向こうに、黒光りのする、立派な、しかし、やや朽ちたような門柱が見えた。近寄ってみると、立札の説明書きに、「上野の黒門」とあるではないか…!
 なんと、これが戊辰戦争で上野の山にこもった彰義隊が守っていた、黒門の本物だったのである。…まだ現存していたのだ。先ほどまで十五代将軍でしんみりしていた私は、あまりといえばあんまりの偶然に、ちょっと肌が粟立った。
 そう思って見てみれば、柱のいたるところに銃弾の痛々しい穴が空いている。
 時代のついたその、なんともいえぬ存在感に、なんだかうっかり門の中を覗いたら、頭を結綿にして前垂をかけた小娘が、ペタペタと草履をつっかけて走ってくるような気がして、私はそっとそばを離れた。
 裏門から西へ抜けるとまたお寺があり、その前庭の観音様の立像のわきに、黄金色の大きな夏蜜柑をたわわにつけた樹が、茂っていた。

 上野のお山の戦争は、慶応四年、もちろん旧暦の五月十五日。壊滅状態だった彰義隊戦死者の遺体は放置され、酸鼻を極めたという。弔うと官軍にとがめられたらしい。
 その年の四月は閏月で、今でいえば7月ぐらいの気候になっていた。あまりにもあんまりな状態だったのを圓通寺のご住職が不憫に思い、自分のお寺に葬ったのが縁で、いつからかこのお寺に、黒門が移築されたのだそうである。

 それからしばらくして、レプリカの黒門に会いに行った。まさか、まだ本物が残っていたとは思わなかったから、そんなにしみじみと上野の黒門を見たことがなかった。
 清水堂の下にある黒門ダッシュは、藪の中にぼうっと佇んでいた。やはりご本尊よりも影が薄く、銃痕もつけられてはいたが、薄いあばたのような痕でしかないのだった。
 …しかし、君には君の、役割がある。

 さて、黒門町といえば、落語好きには先代の桂文楽。
 テレビで時代劇を観て育った昭和の子どもには、伝七親分。小学校の友人と、よく「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ、めでてえなぁ」…と締めて遊んでいたものだった。
 …そうだ、伝七親分は、私たちの世代には梅之助だった。

 バラバラに点在していた符合が、時を超えてあるときピタリと巡り合う。不思議な事象だけれど、そんな偶然に遭遇すると、生きて在ることの僥倖を深く感じるのだ。


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江戸橋

2010年04月02日 00時03分28秒 | 旧地名フェチ
 今はもう紛失してしまったが、ホッベマの「ミッデルハルニスの並木道」という絵が好きで、額縁に入れて飾っていた。それは、新聞の日曜版で、名画の紹介をしていた連載の図版である。1970年代の後半だったか、そのころはまだ珍しかったカラー版で、新聞紙1面の2分の1ほどの大きさだった。
 空に伸びるポプラの樹影が、私が子供のころ通っていた小学校の運動場のと似ていて、とても好きだったのである。あの青空には、まだ見ぬ未来に対する、ワクワクする明るい風が吹いていた。1980年前後にもう一度同様の図版記事が掲載されて、それをつい数年前まで大切に持っていた。
 切り抜きなので、何となく書棚の上の、隠れたようなところにこっそり飾っていたのだが、それはまた、のちに別な意味で、自らを戒めとする絵にもなっていた。
 この絵が創作されたとされた年代が、考証の結果、訂正されることとなったからである。それは、遠景に描かれた役場の施設が、当初の制作推定年代ではまだ、建設されていなかったということが、のちの研究者によってわかったからだそうなのだ。
 これは、歴史を伝えていく者は、常に、既成観念や単一の文献を鵜呑みにしないで、地道にいろいろ調べたほうがよいよ、という自分を戒める類例になっていて、単に好きだった風景が、さらに思い入れのある特別な一枚の絵となった。

 平成の4年ごろ、浅草からの帰り道の地下鉄の車中で、何となく会話が途切れて、ドアの上の地下鉄路線図を見ていたとき、同道していた知人が「日本橋って前は江戸橋って言ってませんでしたっけ?いつの間に日本橋になったんだろう」と言った。
 そうそう、そうでしたよ、確か、昭和通りのほうの駅は、江戸橋でしたよね。
 そのとき私は、自分が持っていた1970年代後半の地図の絵面を思い浮かべてそう答えた。そのときはそのままになってしまったが…。
 …江戸橋駅が、いつのまに、どうして日本橋駅に変わってしまったのだろう。
 気になる。
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同朋町

2010年03月22日 00時20分03秒 | 旧地名フェチ
 ある時、私は自分の芸の源流、師匠のルーツを尋ねて神田の同朋町(どうぼうちょう)を探していた。
 わが杵徳の家元・杵屋徳衛のお祖父ちゃんは、杵屋勝吉という、大正から昭和前期に活躍した三味線方の大師匠である。かつて、俗に「杵勝三千人」といわれるくらい、杵勝派は長唄の流派では最大派閥だが、勝吉はお師匠番のような立場にいたらしい。別派を樹て家元になった。弟子だけでも五百人を数えたそうである(概数ではなく実数とのこと)。飛ぶ鳥を落とす勢いだったアラカン(嵐寛寿郎)の映画にもかかわっていたし、カツシン(勝新太郎)のお父さんである杵屋勝東治さんもお祖父ちゃんの後輩で、いろいろ面倒を見ていたそうだ。
 神田明神下の「同朋町のお師匠さん」として名をはせた勝吉は、戦前、府下北多摩郡は吉祥寺村(要するに現在の武蔵野市吉祥寺)に移り住んだ。千坪からの大邸宅に至る横町には「杵屋小路」と名がついた。…今は昔の物語。
 さて、私がルーツを探していた平成の初年頃には、まだ役所にも時効管理課のようなおっとりした部署があって、電話をかけると、旧町名が地名変更後の新番地のどのあたりになるか、親切に教えてくれる専門の係があった。
 調べてみると、千代田区にも台東区にも文京区にも、いくつか同朋町があるのだった。同朋町は、幕府に仕えていた同朋衆の住まいしていたところの町名だろうから、さもありなん。
 そこで、神田明神に近い、当該箇所と思われるところを、地図を広げて勘案してみた。その場所は明神下というよりも、現代の感覚では、神田明神北というような辺りになるのではないかと類推された。
 平成初年のある日、さっそく私は行ってみた。しかし、往時の面影を偲ぶにはなお余りある幾星霜、何軒かの商店に立ち寄り訊ねてみたのだが、みな戦後移り住んだというお方ばかりだった。路地の少し奥まったところに、ポンプ式の井戸があった。その風景とお対になる猫は、あいにく、どこにも見当たらなかった。
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尾張町

2010年03月19日 12時23分04秒 | 旧地名フェチ
 お天気のよい秋の昼下がり、私は日本橋の高島屋の前でバスを待っていた。
 そのころはまだ合理化の大ナタが振り落ろされる前で、都バスの路線がたくさんあった。
 何か考え事があるたびに歩いていた私は、限界まで歩くと都バスにすがっていた。
 長く柔らかい日差しを浴びて佇むところへ、品のいい老婦人に声をかけられた。
 「このバスは尾張町へ行きます?」ミス・マープルにちょっと似てらして、首をかしげて可愛らしく尋ねられて、私はドッキリした。…尾張町ってどこだっけ???
 木挽町なら目をつむってでもご案内できるけど、尾張町って????
 『タモリ倶楽部』で古地図散策をしてくれるずっと前、長尺のインド映画を同番組が紹介していたような時代だった。
 目を白黒させて、返事を言い淀んでいる私に、同じくバスを待っていた老紳士が、助け船を出してくれた。
 「尾張町、通りますよ。和光と三越の銀座四丁目の交差点の辺りだよ。若い人は知らないよねぇ」ありがたや、すべてを取り計らってくれる執事のギャリソン時田に見えた。
 
 
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