しろと言ったら犬だし、あかと言ったら牛、そして、あおと言ったら馬の名なのだ。
…その常識は20世紀までのことだったのかもしれないけれど。
常識、社会通念、共通認識があると話が早いのだ。無いと一から説明しなくちゃならない。
ときに、八っつぁん、きっぱりはっきり厳然として人間の個人的な都合なんざ聞いてくれないお役所仕事が多い中で、歴史ある苗字はともかく、なぜまた名前という大事なところに使う漢字に、漢字自身の出自とは全く関係ない、各々勝手な読み方をさせて人名として命名することをOKとしてしまったのだろう…ねぇ。
もはや当て字でもなくなぞなぞでもなく頓智クイズでもない。日本語の崩壊、文化の後退である。
そんなこんなで、ブルーな日常でも、蒼い空を見上げると心が晴れやかになる。
碧い海を見ると心が浮き浮きと躍りだす。
青ってステキな色ですねぇ。
出藍の誉れとか、藍より青く、とかいう言葉があるけれど。
去る五月中旬の土曜日、M駅近くで素謡会を覗いた帰り道、ついふらふらと水中書店(三鷹駅北口に現存する古書店なり)に寄ってしまった。
そこで、なんとした奇遇、何としたサザエのつぼ焼き、なんと間がよいことでありましょう、松岡映丘の生誕130年展の図録が出ていたのだった。
…というのは、そのまたつい先週、野間記念館で1921年作「池田の宿」を観て、もう20年来片想い状態だった松岡映丘の絵よ、more…と、もやもやしていたところだったからである。
私が初めて松岡映丘に出会った…Eikyuという画家の存在を意識したのは、藝大美術館が開館した20世紀も終わりのことだった。
大学付きの資料館ではなく、新しく美術館として開館した折の記念展覧会で、私は松岡映丘の大正14年作「伊香保の沼」を見た。
遠景に青々とした榛名山、同じく青を湛える湖、そして湖水に着物の裾もろとも足を浸し物思いにふけるニョショウ。
美しい。美しいのではあるが、どちらかというと、怖い絵である。女性の目があらぬ彼方へ視線を投げているからである。風景に心象を宿し、群青と緑青が絶妙に融合した映丘描くところの、やまと絵の色遣いが、私の胸に深く刻み付けられ、網膜に焼き付けられた。
彼に出会った帰り際、美術館の前庭で、ちょっとした開館記念の野外能があった。薄く暮れていく上野の森で時折薪がぱちぱちとはぜる音を聴きながら、仮設舞台の前に点在する椅子席から三山を見た。得難い夕べであった。
その一枚の絵が怖かったこともあり、私は松岡映丘のことをあまり知らずにいた。
…いや、調べようにもその当時、資料がなかったこともあったかもしれない。
松岡映丘は昭和13年に56歳で亡くなった。
もう20年以前、とある仕事で当時、雅叙園美術館が収蔵していた浅見松江の絵をお借りするため、ご遺族に連絡を取ったことがあったが、彼女が松岡映丘の弟子であったことを初めて知った。そしてまた、橋本明治も映丘の弟子だったのだ。映丘の家塾は当初、常夏荘と称せられたそうである。
20世紀終わりの出会いから20年ほどを経て、そうした偶々通りがかった街角のめぐり逢いで手に入れた図録から、私はやっと松岡映丘の生涯を知ることができたのだった。
そして、映丘blueと名付けたい青の色遣い、それゆえに、彼の存在は私にとって絶対無二となっているのだと気がついた。
群青色の海、白い波頭、岩陰に身を寄せる浜千鳥。
平福百穂の1926年作「荒磯」にそっくりの海だなぁ…と見入ったのが、昨夏訪れた初島の磯の岩。
松が枝の手前から眺めるのは俊寛か、はたまた樋口兼光、松右衛門か。