長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

蝉の声

2010年07月31日 11時30分25秒 | 美しきもの
 昨年の夏、私は井の頭公園傍らの吉祥寺稽古場に籠って、日本歴史史上の、滅びゆく者たちの所業に関して、想いを致さねばならぬ仕儀に相成った。
 作業のまとまりのつかぬまま、思案投げ首していると、蝉が鳴く。
 夜明け前、明け方近くになると、もう、カナカナ哀し…という塩梅に、ひぐらしの大斉唱が聞こえる。平成21年の夏、都下西域の辺りでは、なぜか夏の始まりだというのに、夏の終わりを告げるひぐらしが、真っ先に鳴きはじめていた。

 昔、関東地方の夏は、ミンミンゼミが賑やかに彩り、それから……青い空に入道雲、虫採り網の長い柄、こんもりとした木陰、丈が伸びた雑草を踏み分けて走る雑木林の小道、氷をかくシャカシャカいう氷屋さんの機械の音…心躍る夏休みだった。

 カナカナカナ…と悲しげになくひぐらしの声に終日囲まれていた私は、なんだか三島由紀夫の『花ざかりの森』を想い出して、夕刻の森は憂国の森…という地口に陥りながら、蘇我入鹿や聖徳太子、菅公に大楠公、後醍醐天皇、驕る平家は久しからず…なんてことに精を出していた。

 今年の夏、ちょうど旧暦の五月が終わりを告げる頃、7月10日の夕暮れだったろうか、私は今年最初の蝉の声を聞いた。かなかなかな…とひぐらしが、武蔵野の林に響いて、消え入るように鳴いていた。
 それから3週間ほどが経って、今年は昨年と違い、今はアブラゼミの盛りである。
 暑さが体に沁み入るような、ジーという声が、静かに、熱い、陽炎の立つ舗道を縁取っている。
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和井内貞行

2010年07月27日 01時50分00秒 | やたらと映画
 ウナギの完全養殖が成功したというニュースは、この春、報じられたものだが、今日は土用の丑の日。朝のニュースで再び取り上げられていたのを、二回も聞いた。
 養殖といえば、和井内貞行。明治時代、生き物が棲まない清流であった十和田湖で、たいへんな艱難辛苦の末、ヒメマスの養殖を成功させた。団塊の世代の道徳の教科書には、必ず載っていたらしい。

 とはいえ、私が和井内貞行を知ったのは、今から十数年前、京橋のフィルムセンターで伊藤大輔監督の『われ幻の魚を見たり』を観て以来である。
 道徳の教科書が採り上げる偉人伝は、各時代の治世者の思惑を映して、いろいろ変わる。日頃何かとお世話になっている団塊の世代である恩人夫妻に、お茶を飲みながらその映画鑑賞模様をレポートしたら、あら懐かしい!ということになり、その面子での飲み会を以後「和井内会」と命名するに至った。
 昭和40年代の小学校の道徳の教科書には、和井内貞行はもう載っておらず、タイタニック号から救出された一人の日本人に関する逸話が載っていたように記憶している。
 今や、学校では、道徳の授業自体が無くなってしまったそうだけれど。いくら自由とはいえ、無垢なるものに道を示さなくちゃ、無軌道になる一方でしょうにねぇ…。

 和井内貞行を大河内傳次郎。小夜福子が内助の功を発揮させる奥方役で、いつも夜なべ仕事にお裁縫をしている。
 「オドサンは、この針のようなもので、私はその針に通した糸のようなもんだ。オドサンのあとをどこまでもついて行きます」というような意味のことを南部弁で言って、養殖に失敗し八方塞がりになるたびに、大河内和井内を励ますのだった。
 しかし、ストーリーがあまりにも辛気臭く進行していくので、途中、私の前に座っていた妙齢のお嬢さんが席を立って出て行ってしまったほどだ。
 戦前から子役でおなじみの片山明彦が、日露戦争に出征する長男の役をやっていた。

 いつものように、放流したヒメマスが戻ってこないか湖を見張っていた大河内和井内のもとに、長男の戦死公報が届く。湖のほとりの見張り台で失意のどん底にいる和井内の眼に、きらめいて増幅していく湖のさざ波が映る…長男の英霊が導くかのようにヒメマスもまた、十和田湖に戻ってきたのだった。
 生き物が棲まないと言われた十和田湖で、初めて養殖が成功した瞬間である。

 もはや、観客は、ここに至るまでの地味なエピソードの長回し、辛抱を要する延々たる鑑賞時間をすっかり忘れて、滂沱の涙。伊藤大輔監督はやっぱり偉大だ、と思い直すのだった。

 大河内傳次郎は、私が生まれた年に亡くなったので、当然、リアルタイムでは観ていない。しかし、映画というのはそういうところが実に有難くどえらいもんで、同時代に生きた者にしか分からない舞台での芝居と違って、フィルムのなかに閉じ込められた時代の空気を、銀幕が再現してくれる。
 映画をライヴとして観ていたい私は、よっぽどのことがない限り、一作品を一回しか観ない。
 そんなわけで、昭和後期から平成ひとケタ時代、十代後半から三十代前半にかけて、昭和時代の映画黄金期の、いわゆる古い日本映画を浴びるように、際限なく観ていた。

 大河内傳次郎は、昭和の多くの家庭で愛されていた俳優で、彼の死後生まれ育った子供世代にも、彼に対するシンパシィがいつの間にか醸成されていた。
 日本テレビの「笑点」で、林家木久扇が持ちネタにしている物まね。
 「ホノホノ方…」は忠臣蔵の長谷川一夫・大石内蔵助。「ごぉくろうさぁまぁ…」は木久蔵の師匠・彦六の正蔵師匠。そして「シェイは丹下、名はシャジェン」が、われらが大河内の丹下左膳である。

 私の大河内びいきが形となったのは、切れ切れのフィルムでしか残っていなかった『大菩薩峠』の御簾斬りシーン。大河内机龍之介の着物の裾が映っただけで、ものすごく怖かった。凄み、というのは人の形相を写さなくとも表現し得るのである。着物の裾が、とにかく怖かったのだ。
 対極上にあるけれど、清水宏監督の『小原庄助さん』も、大河内が大河内らしくて、大好きな作品だ。

 もう二十年以前になるが、嵯峨野の青竹の林を抜けて、初めて大河内山荘を訪れたとき、あまりに懐かしい、記憶のなかの昭和の家がそこにあって、私は思わず泣いてしまった。そしてまた、大河内が心血注いで丹精した屋敷内を手放すことなく、維持し続けている、そのご遺族の心遣りにも。
 どんなに栄華を誇った映画スターでも、本人が亡くなるとその資産はちりぢりバラバラになってしまう。グロリア・スワンソンが出ていたあの怖い映画が表徴するように、無残に散逸してしまう。
 しかし、大河内山荘は違った。それを、遺族が、故人が愛した庭を守っている、そのこころざしに、どうしても私は、あの懐かしい昭和の面影が残っている山荘を訪れるたび、それを想い起こしては泣いてしまうのだ。
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ワサビLove

2010年07月24日 14時00分00秒 | 稽古の横道
 暑さの前に人間は無力である。
 碧巌録「心頭滅却すれば火も……」というのは、涼しげな山門の中だからこそ言える言葉であろう。小学生のとき私は、この言葉は、快川紹喜でもなく、武田信玄が言ったものだと思っていた。
 子供部屋のスチール製の学習机に黒マジックで、「心頭滅却…」のような標語をいくつか書いてあった。…そうして真剣に勉強しています、という姿勢を表すと、父が喜んでいたような感じだったからだ。なにしろうちの父は、愛国少年で育ってしまった紆余曲折人生の昭和ひとケタ生まれの人だから、ヘンに硬派で変にナンパなのだ。

 褒められた記憶なんてほとんどない。たいがい叱られていた。
 いつだったか、学校の成績がよかったときに「勝って兜の緒を締めよ」とか言われた。…こんなこと小中学生の娘に言う親っているのか。
 同年代のある女優さんが、父との想い出…とかいう芸談で、誕生日にいつも帽子をプレゼントしてくれた、という話を聞いて、非常に、うらやましかった。そういう親に育てられていたら私もねぇ…ちょっとは違っただろうにねぇ。

 くだんの学習机は、のちに思い直して、恥ずかしいのでシールを張って隠し、妹のお下がりになっていった。…妹よ、ゴメンナサイ。
 昭和の受験戦争ってなんだったんだろう。

 話を戻す。凡人にとっては、「暑くて死ぬよりは寒くて死んだほうがいいね」「願わくは雪のもとにて冬死なむ、だね」「だね」「夢見るように眠りたい、だね」「だね」
 暑いと思考せずに、延髄の反射で、応対するようになる。
 …もはや救いがたし、なのである。

 今年の土用の丑の日は来週の月曜日らしいのだが、それとは関係なく、ウナギを食べたい時がある。美味しいウナギは、本当においしい。
 この季節になると、東西の蒲焼きの違いがやたらと話題になる。東京にもいくつも名店があり、やっぱり噂どおり、という名店と、評判ほどでもない老舗や新興勢力店など、食べてみないと分からない。
 美味しいものは暖簾でなく、板場の職人さんの腕による。美味しかったお店も、板場責任者が替わっていたりすると、もう全然違う。
 二十年ほど昔の旅の記憶になるが、伊勢の外宮の近くにあった鰻屋さんの、うな雑炊は美味しかった。十年ほど前、東海道は新居宿の蒲焼き。二店とも、見かけでは分からない、美味しい鰻料理を出してくれた。

 やはり、もう十年以上前のことだが、日本橋は島屋の食堂で、蒲焼きと白焼きのハーフうな重、というようなメニューがあった。島屋というと、池波正太郎がご贔屓にしていた野田岩が有名だが、そこは特別でも何でもない別館のデパ食店街だったように記憶している。
 その頃ちょっと、濃厚な蒲焼きのタレに飽きていた。あんみつの黒蜜に飽きていたのもちょうどその頃だったので、そういうお年頃だったのだろう。
 そんなわけで、よっぽどの酒呑みが酒の肴に注文する、というようなイメージがあった白焼きを、初めて注文してみた。…これが、もう、何とも言えず、美味しかったのだ。

 ほろほろと口のなかで融けるウナギの身と、ワサビの味わいが絶妙にマッチして、この上もなくオイシイ。
 実は私はもう、この上もなくワサビが好きで好きで…お蕎麦屋さんでも、素のそば湯にワサビがあれば言うことなし。お刺身も、ワサビさえ美味しければ、たいがいのネタは許せる。白いご飯に、わさび。山葵漬けでもワサビ山椒でもなく、ただ、すりおろしただけのワサビが、おいしいのである。

 わが愛しの山葵よ……。
 それ以来しばらくの間、ウナギ屋さんに行くと、白焼きばかり注文していた。とにかく、ウナギの白焼きはごまかしが利かない。
 三味線の音色にも似ている。

 しかし、暑さと食欲の関係は、ほどが重要なのだった。白焼きは、食欲がいま一つない、夏バテ気味の体と心にじんわりと、滋養になるのだ。
 …こう図抜けて暑いと、逆に、おなかが空く。やっぱり蒲焼きかなあ…。
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蓮を聴く

2010年07月21日 10時50分01秒 | 落語だった
 橋本明治の『蓮を聴く』という絵がある。盛夏のきもの、薄物を着た女性が二人、耳を澄ますような風にして、デッキチェアに座っている。画面左側に、ほんのちょっとだけ、よく育った一群れの蓮が顔を覗かせている。

 夏のまだ涼しい早朝だったか、夜明け間近だったろうか…とにかく、無明の闇の中で蓮の花が開くとき、ポンという音がする。
 それがために、蓮の開花を愉しむのを「蓮を聴く」という。私が子どもだった昭和の三十年か四十年代、まだ日本の夏の気候がこれほど高温化していなかった当時、よく聞いた話だった。観賞会があって、「蓮の花を聴きに行く」とかいうのである。…風流でんなァ。

 泥池に生まれながら、それらの汚濁から超絶して、すーっつと細い茎を伸ばして、天女が婉然たる笑みのように、蓮の花は咲く。薬屋さんの看板キャラクターの、斜めになって裳裾をたなびかせ、天空を漂っている中将姫か仙女のようだ。
 碧き雲海の如き、蓮の葉の大海に浮かび、ほんのり紅色でひときわ白い。
 芥川龍之介『蜘蛛の糸』のイメージがなせる業か、私の頭のなかの蓮の池はまさに、極楽の岸辺、彼岸なのだった。梅雨が明けて、人の身の丈よりも高く、青々とした蓮の葉が生い茂る、上野の山下の不忍池。お釈迦さまが毎朝散歩する、極楽浄土、天国の蓮池って、まさにこんな感じなんじゃなかろうか…。

 多分に心象世界的、精神的要素を含んだ寓話のような世界。
 子どもだった私は、「蓮を聴く」という、そういうオトナ文化に、限りない憧れを抱いていた。いつの日か、ぜひとも、その音を聴きたいものである、と、愛読していた芥川龍之介の世界観に重ね合わせ、深く願った。
 それから蓮の花に魅了された私の、心の旅は続いた。中学生になって読んだ夏目漱石の『夢十夜』のような幻影世界に強くひかれ、かつて愛した女が何世紀も隔てて或る世、花開く顔となって再生する話は、SF『トリフィドの日』と融合し、心の渾沌はますます昆明池のごとく、混迷の度合いを増して行った。

 1970年代後半から80年代前半、世を挙げてのスーパーカーブーム。なぜか対極にいる私のようなものですら、富士スピードウェイにグランチャンを観に行った。違う意味で、ロータスの轟音を聴きに行ったのだった。
 F1でロータス。熱風と轟音のなかで、私は涼しげな夏の朝と、上野不忍池の生い茂る蓮の群れを恋しく思った。
 ♪夏になると想い出す~場所は、私にとって、はるかな池の端、花はハチスなのだった。

 それから何年も過ぎた平成ひとケタ時代。今はもうない雅叙園美術館所蔵の、橋本明治のこの絵に出会ったときは、子ども時代のその憧憬の世界と、昭和の市井の人々の生活文化の記憶が綯い交ぜになって思い起こされ、じわじわとした感動の淵に、私は浸されていった。

 大正から昭和にかけての日本画の世界は、その時代の女性の風俗を映していて、私は好きだった。これらの絵は長いこと一部好事家のものになっていて、あまり大がかりな展覧会が開催されることはなかった。若かった私は、美術館や博物館に行っては、ひとり感慨の淵に浸っていた。
 このころの絵には、日常に着物を着ているご婦人の姿がたくさん描かれており、着物で生活するに於いての心得、きものファッションに対する感覚のヒント…というようなものを、たくさん頂いた。
 『蓮を聴く』も、たいへんキッパリとした短髪の、現代風の美人(昭和時代における、現代風であるが)二人が、大柄の麻の葉と、蚊絣の大きな…トンボ絣ぐらいある大柄な上布を、ゆったりと着ている。

 昭和の終わりごろ、景気のよかった世間とは隔世の感があった、ちょっとしょっぱい、人気のない寄席通いに味をしめた私は、寄席若竹にも通っていた。今は亡き先代圓楽が、東陽町に円楽党の本拠地として建てた寄席である。
 ここで、当時二つ目だった三遊亭五九楽が、「ライク・ア・パラダイス」と銘打った勉強会(と、記憶している)を行っていた。私は当時、マイブームの一環だった友人との謎かけ遊びに格好のネタだ…と、心のネタ帳に書き込んでいたのだ。
 これは、寄席若竹と三遊亭五九楽を知らなくては整わない、多分にギャラリーが限定された超レアなマニアネタで、公開する前に近世文学通の友人も早世してしまったので、この二十数年というもの、自分の心のうちで何度も繰り返すのみだった謎かけだ。
 「上野忍ばずの池とかけまして、三遊亭五九楽の独演会と解きます」
 「そのココロは?」
 「ライク・ア・パラダイス…極楽みたい…五九楽観たい」

 先週、時々行くスーパーで、蓮の花を売っていた。それが、作り物ではなく、生花コーナーに、しかもすーっと伸びた茎の先端に、固く結んだ莟がついている、その状態で一本だけ売られていたのである。
 これは、珍しいものを見つけた…! 私は雀躍した。いくらお盆とはいえ、こんな状況で、活きた蓮の花にお目にかかるなんて、そうそうはない。いやいや、スーパーの生花売り場で蓮のつぼみに出会える機会なぞ、金輪際ない…と言っても過言ではない。
 蓮の花はいつも気高くて、遠い池の向こうのほうに、すーっと立っている。
 よく観ると包装紙の値札分類は、「お盆小物」になっていた。活花でも小物で売っちゃうんだ……と、奇妙な感慨に打たれた私は、このまま無事開花するのだろうか、という危惧を抱きながらも、三井の大黒、浅草は三社様の宮古川から網にかかって引き揚げられたご本尊。千載一遇、一期一会のこのチャンスに、蓮の花を手放せようはずもなく、いそいそとレジへ進んだ。

 壺に一本挿した、ハスの莟。スッと伸びたその茎は、蓮の身上である。なんて、カッコいいのだろう、と惚れ惚れして翌朝目覚めたら、あにはからんや、蓮は青ざめた顔をして、ぐったり折れていた。
 葉がない生花は水の吸い上げが悪い。この固く結んだつぼみが、その開花まで持ちこたえられるとも思えない…と、思いつつ買ってしまったのだが…案の定。
 どうやら、莟の自重で、茎が持ちこたえられなくなったようなのだった。ちょっとハスに活けたので、その微妙にズレた重心の、重力のかかり具合がよくなかった。
 驚いたことに蓮の莟は、冷たいプールに飛び込んでぶるぶるしているクラスメートの唇の色のような、紫色になっていた。
 まさに、青ざめたつぼみなのだった。

 天国から地獄へ急転直下。
 なんだか、一夜で天女に去られた男のように、さめざめとした気分になって、私は蓮の救命に躍起になった。…と言っても出来ることは、折れた茎の上で短く切ることだけだったのだが。

 そのとき、ビックリしたのは、蓮の茎が糸を引く、ということだった。そうだ、レンコンは蓮の根だもの、やっぱり茎も糸を引くんだ、と改めて感じ入った。

 その糸は、お釈迦さまが下界へ垂らした、蜘蛛の糸の、現し身のようだ…と、私は思った。

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火縄くすぶる…

2010年07月15日 16時20分00秒 | やたらと映画
 …そんなわけで、ワールドカップに気を取られて、あっという間に7月初旬は過ぎていった。……実際に観た試合は3試合ぐらいしかなかったのに、どうしたことだろう。
 人間、何事かに囚われると、時間はアッという間に過ぎていく。海中で竜宮に囚われた浦島しかり、山中で童子の碁に囚われたきこり然り。
 気がつけば、入谷の朝顔市も、四万六千日ほおずき市も、いつの間にか終わっていて……とはいえ、私自身、何事かに常に心囚われて(それが芸道のことだけなら苦労はないのだが…)上の空で日々を送っているので、こういった行事も気が向いたときに、しかも思い立ったときにしか行かないのであるが……東京はお盆になっていた。所用で出かけた市ヶ谷駅近辺は、靖国神社のみたま祭で、すごい人波だ。
 
 7月14日は、パリ祭である。…といってもどうやら、これは昭和に映画『巴里祭』を観た人にしか共感を得られない、日本特有の言葉らしいのだ。
 フランスの革命記念日で、ツール・ド・フランスも開催される。…サッカーの次は自転車かぁ…と、気分だけ渦に巻き込まれている私は、めまぐるしく想いながらも、淡い空色の南フランスの海が描かれた、ラウル・デュフィの窓辺の絵を思い浮かべて、うっとりする。

 フランス革命といったら1789年で、これは歴史の先生が「火縄くすぶるバスチーユ」と、覚えることを教えてくれた。だから私のヨーロッパ近代史は、この覚えやすい年号が基点となっている。
 ほかに印象的なのは、知人が、1234年に中国で「いち、にぃ、さん、し、金、滅ぶ」というのも教えてくれたが、これは、中国の数ある王朝で彩られた悠久の歴史を覚える基点とするには、どうにも脈絡がない。

 …そしてフランス革命といえば、昭和の世では『ベルばら』。
 しかし、生憎と、我が家には「寛政異学の禁」に似て非なる「小学漫画の禁」ともいうべきお触れがあり、気安く自宅で漫画が読めなかったのだった。親戚のお兄さんが少年サンデー、少年マガジンなどを購読していたので、遊びに行くと読んでいた。小学生の私は少年漫画に明るかったのだ。
 その小学高学年時代に、私が革命を起こしたのが「少女コミック」別冊号から週刊誌へなし崩し計画、というものである。どうしても読みたい、と思えるものだけを、決死の覚悟で手に入れてくるので、「勧進帳」の弁慶のように鬼気迫っていたらしく、父は富樫になって関所を通してくれたようだった。
 漫画雑誌も、各社それぞれ色合いがあり、私は断然、小学館の「少女コミック」だった。第一のごひいきは萩尾望都。大島弓子、竹宮恵子にも心かき乱された。池田理代子の『ベルサイユのばら』は、読んでいなかったのである。
 『ベルばら』が連載されていたのは集英社の「週刊マーガレット」で、私は同誌を、幼稚園児だったころ、グループサウンズ黄金時代に購読していた。ザ・タイガース(ジュリーではなく、断然、トッポのファン)の巻頭グラビアが載っていたのである。
 毎週発売日に、五十円玉を握りしめて書店目掛けて一心不乱に駆け出していく、バサラ的幼稚園児。…すでに異形の者。
 常に何かに囚われている私の原点は、ここなのかもしれない。オソロシや…。

 そういうこともあって、ベルばらにハマりそこなった私は、宝塚の舞台も、一度も観たことがない。
 しかし、中学時代の同級生で、ものすごく『ベルばら』好きの友人がいて、「絶対にこれは、ものすごくよくって、ものすごっく、面白いから!!」と、レコードや写真集(そのころはビデオがなかった)など、ベルばら関連のすべての資料を私に貸してくれた。
 彼女はバレー部のキャプテンで、バリバリの体育会系スポーツウーマンで、そのようなものに興味があるとは知らなかった。その迫力に度肝を抜かれた私は、「へぇ…そうなんだ」と、遠慮申し上げる言葉もなく、押しいただいて拝聴、拝読した。
 だからいまでも、観たこともない「♪ああ、愛あればこそ」とか、宝塚の『ベルばら』の曲が歌えるのだった。

 それよりも何よりも、『ベルばら』が舞台化されるにあたり、当時もっともビックリなニュースだったのが、あの、長谷川一夫が、演出を手掛ける、ということだった。
 明治末期から大正生まれのバアサマには唯一無二の存在ともいえる映画俳優である。

 以前、出稽古に伺っていた永福町のご隠居。結婚前はモガで鳴らして、銀ブラして家に帰ると不良といわれ、母親にえらく叱られたという、そのご隠居様は、長谷川一夫のご贔屓で、戦前の林長二郎時代の「雪之丞変化」を、週に五回観に行った、と言っていた。
 たしかに、セピアカラーのフィルムの中の、若き日の細面で白塗りの長谷川一夫は、20世紀末ギャルの私の目にも、花なら蕾というような、ハッとするような男前だった。
 …当家のバアサンはある時、高田浩吉にくらっと来たが、ジイサンにたしなめられたらしい。そのバアサンは、長谷川一夫のいかにも…という秋波が、好きではなかったようだ。なにしろ水戸黄門は、月形龍之介じゃなくちゃ、という渋好みだったからなぁ。

 ……と、くすぶるのは、火縄どころか、記憶。「ラ・マルセイェーズ」のメロディが、頭の中でぐるぐるする映画は、『カサブランカ』だっけ? イングリッド・バーグマンがやっぱりヒロインだった『誰がために鐘は鳴る』は…スペイン内乱だから、違うか。

 革命記念日が日本にないのはなぜだろう。

 …それよりも、ここへ来て初めて気がついてギョギョッとしたのだが、フランス革命で火縄銃って、さすがに、もはや使ってなかったんじゃないかなぁ。
 ……気になる。

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待て、而して希望せよ

2010年07月12日 18時00分00秒 | フリーク隠居
 スペインの歓喜の陰で、私は泣いた。…だってオランダを応援していたのだもの。
 決勝戦を途中から見始めたときは、どちらでもよかったのだが、実況放送解説者が、どうやらスペイン優勝のスタンスで解説しているらしい感じをうけたので、一挙にオランダに傾いたのだ。
 …判官びいき。メジャーなものをあえて応援する必要はない、というのが、実は日本古来からの正統な、勝負に対する応援スタンスなんである。敗者に情けを持て、という心やさしい思想である。

 日本人は異様に、TPОを気にするが、あれは、日本人の優しさの表れなんじゃないかと思う。だって、落語を聞いてても分かるでしょ。祝儀不祝儀に、みな羽織を着ていく算段をする。礼儀に外れて恥ずかしい、ということもあるが、それ以前に、着て行かないと、だれかが心配するからだ。
 これが、個人主義が発達している欧米とかの国なら、だれがどんな服をどんな場面で着ていようと、一向に気にしない。つまり、冷たい。日本人なら、あら、あの人、こんな席なのに、あんな恰好して、大丈夫なのかしら、と、必ず心配する人がいる。
 …そんな、心やさしい、ある意味お節介だけど、他人の不幸を他人のものとして捨て置くことができない、やさしい心持ちの人種が日本人で、だからこそ、必要以上に心配する人が発生しないように、あらかじめ、TPОを決めて、横並び精神というものが発達したんじゃないかな……と、最近思うようになった。
 まあ、すべてが、そんな性善説的な見解で解釈できるものでもないのだが。

 アナウンサーが「悲願の優勝」とスペインのタイトルを比喩した。
 しかしこれは、オランダが優勝した場合に喩えていう言葉だろう。
 オランダはもう三回も準優勝しているらしい。…ということは、つまり三度も険しい山の頂上まで、血を吐くような思いをして這い上がり、天国へもうちょっとで指先が届く、という、まさに天にも昇る気持ちを味わいながら、三度、地獄へ突き落されたということだ。
 彼らの絶望感を想うと……もう、私は泣かずにはいられない。

 日本の鎖国時代、欧米系で唯一交易を許されたのが、オランダである。
 江戸幕府が幕藩体制を固めようとしていた1600年代初頭、オランダはバリバリのカトリック国家だったスペインから独立した。
 日本に交易を求めてやってきたオランダは、貿易に宗教を持ち込まなかった。キリスト教の、神の下の万人の平等思想は、徳川幕府の厳然たる身分制度のもとでの国家の秩序・安定を図る方針とは、根本的に相容れないものである。
 オランダはそんなわけで、日本が開国するまで定期的に、世界の情勢・出来事をまとめた『阿蘭陀風説書』という白書のようなものを、日本に提出してくれていたのだ。

 あまり知られていないが、明治政府は設立当初、キリスト教を、やはり国家的に禁止する方針を打ち出していたのである。新しいものが誕生するときは、世の中はいろいろゴタゴタするのであるから、人民はあまり性急に結果を望んではいけない、と思う。

 そんなわけで、オランダ。オレンジ色の憎いヤツ。…そりゃ夕刊フジ。
 二週間前、行李の中をガサゴソして、青シャツと一緒に発掘されたのが、オレンジ色の半袖カーディガンだった。
 オレンジ色が流行る年が時々あって、私が覚えているのは昭和62年ごろと平成7年ごろ。…さすがにこのカーディガンは後年買ったものだったが、そのカーディガンと一緒に出てきたのが、昭和の終わりに拵えたオレンジ色のスカート(その頃ハイウエストのミニスカートが流行り、凝り性の私は自分で縫ったのだった。このミニスカはさすがにどこかに行ってしまった)に合わせる、オレンジと黄と緑のバラの花が、ビュッフェの絵のように黒い縁取りで配されているシャツ…。
 強烈な印象を与えてしまう原色系の服は、一度着てもう一度ぐらい着ると、またあの服着てる…という印象を周囲に与えかねないので、結果、あまり着ないことになる。そしてそれで消耗することがなく、新品のままさらにますます化石化していくことになる。
 たぶん、一生着ないかもしれない。…いや、着よう。四度、オランダが決勝戦に這い上がってきたとき、こんどこそ着てみようと思う。

 昭和50年前後、よくあることだが、とある出版社が破綻して、普通の書店の店先に、その版元の全集本が、安価で並んでいたことがある。そこで私は『モンテ・クリスト伯』の上下巻を手に入れ、大デュマの勇猛果敢で壮大な世界に浸り込んだ。
 モンテ・クリスト伯は自分を陥れた者たちへの復讐という悲願を達成すると、表題の言葉を残し、帆船に乗り込み南洋へ去っていく。

 中学1年のクラス替えのお別れ文集や寄せ書きに、やたらと書いていたこの言葉。
 「待て、而(しこう)して希望せよ」
 けさ、三十数年ぶりで思い出した。

 

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666

2010年07月10日 00時28分00秒 | お稽古
 「六歳の六月六日にお稽古を始めると上手になる」と、よく言う。
 一歩間違えば『オーメン』だ。あぶない、危ない。
 これが、私には不思議だった。その6月6日は、新暦でなのか、旧暦でなのか。
 新暦だとすると、こんなに土砂降りのしとしとした梅雨のさなかに、稽古を始めてうまくいくものなのか…?

 だいいち、こんなに湿気ってちゃあ、三味線の皮が破けて、鳴りませんでした(成りませんでした、に、掛けましょ)…ということに、なりかねない。

 旧暦でいえば、六月六日、五月雨の季節が終わって、見上げれば一面の青い空。
 ♪さつき、五月雨…農耕民族の重要な務め、五月女の田植えも終わったし、つばくろのヒナは無事飛び立ったし…空はますます青く、海はさらに深さを増し、風がさやさやと蒼い大地を渡っていく。
 そういうときに人は、何かやったろぅか…という意欲が湧くもんじゃぁないかいなぁ。

 そこで、思い立ったが吉日。旧暦の六月六日にお稽古始め運動、というのを始めました。

 今年の旧暦六月六日は、7月17日。
 …うむうむ、推理どおり、梅雨が明けてそうなお日柄ですわぃ。かてて加えて、奇しくも成田屋、市川雷蔵の祥月命日。
 ……祇園祭のさなか、山鉾巡行の日でもありますね。

 ♪京都八坂さんでは山を曳く、東京杵屋では三味を弾く…。

 御用とお急ぎのない方は、ブックマークにもございます、<http://shami-ciao.com> へご参集くださいませ。
 ♪昔の写真で、出ています。
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青いスポーツシャツ

2010年07月07日 09時50分15秒 | フリーク隠居
 今日は七夕。…であるが、新暦なので、いつも梅雨のさなかになってしまう。
 七夕はやはり、旧暦で催行するのが本筋でしょう。でないと、圧倒的に雨天で、年に一度の逢瀬がかなわないことになる。
 七月七日に…。
 このシンプルな五文字だけで、この上もなくロマンチックな響きを持つ、年に一度のこの日のことは、旧暦の七月七日に書くこととして、今日は…。

 着物の衣更えは簡単だが、洋服はそうもいかない。
 なにしろ、昭和の気候方程式が当てはまらないここ数年、洋服の衣更えが、常にいま一つ完了しないまま、四季は幾たび、巡り来ったことであろう…。
 先週、行李の中をガサゴソやっていたら、青い半袖シャツが出てきた。ボタンがない開襟で、プルオーバーになっている。…はら~~、こんなシャツそういえば持ってたよねー。
 三十代後半に、徹夜に次ぐ徹夜というような、よくいえば意欲的な仕事人生を送っていたので、あっという間に体を壊して、突発性難聴で入院した。
 自分でもどうかというぐらい神経質になって安静にして養生していたおかげで、すっかりよくなったが、あわや、大天才ベートヴェンになるところであった。天使のような看護婦さん、先生、ありがとうございました。
 人間、病気をすると、人生観が変わる。
 すっかりおとなしくなった私は……いやいや、またまた話が逸れました。

 その、体調を壊した前後のころ、外出するとやたらと汗をかいて、全身汗びっしょりになってしまうことがよくあった。汗でぬれた衣装は気持ちが悪い。それに、そのまま冷えて、さらに具合を悪くするといけない。
 そんなわけで一時期、外出先からデパートに立ち寄って、「身ぐるみ脱いで替えてゆこう…」というような、山賊さんには申し訳ないような所業に及んでいたときがあった。
 それでその頃、どうした気の迷いか、滅多に着ない、それこそ梅雨明けの晴天の、抜けるような青い空色…フランスでル・ブリュ、イタリアでアッズーリ、日本でサムライブルーというような、まさにWカップ応援仕様のようなシャツを買ってあったのだった。

 そうそう、観戦対応衣装といえば、雨に濡れ燕。
 斜に降りつける直線の雨をくぐってけなげに飛ぶ様子のツバメが配された、つばくろの浴衣。もはや十五年ぐらい以前になるが、これで神宮にヤクルト戦を観に行こう!と思っていたのに、かなわないまま、今では稽古着になっている。
 …横道、横道。

 青シャツ。たまたまそれを発掘して着てみた日が、先週、日本が惜敗した朝で、着る前は考えもしなかったが、いざ着て出かけた後に、いややわー、これじゃ、応援して徹夜してセンター街で夜明かししちゃった若者みたいやないの~と、大阪のオバちゃん的に、その実全然恥ずかしくないんですけどね…という具合に、気がついた。

 それにつけても、日本代表は、本当に強くなった。ビックリした。前回のときよりも格段の差だ。
 以前の印象では、スタープレイというか、スタープレイヤーが単独で詰めて行って、一つゴールして失敗して終わり、というように、下手な私の将棋に似て、桂馬がはねて行ってアレレ…香車で押して行ってアラ~~というように、攻撃が続かなかったのが、今回は実にすばらしくて感激した。
 動体速度のめちゃ速いチームと戦うと、なすすべなし…に見えた以前までのデフェンスが、すばらしく冷静に判断して、その役割を果たしている。
 システム化されたチームプレイが機能している…とでもいうのでしょうか、成長著しく、おそらく、DNA的レベル差に肉迫するまで、成長している、と思った。
 ……次回のワールドカップには、この青シャツ、間に合うように発掘せねば。

 さて、2010年7月7日は、準決勝、ドイツvsスペインの世紀の決戦だ。
 こうしてブログを始めるきっかけともなった、わが愛弟子が留学しているドイツ。気にならないわけがない。
 天国と地獄が紙一重。チャンピオンズリーグの決勝戦でも感じたことだが、頂点に近づけば近づくほど、失ったものは大きく感じられ、得た歓喜はこの上もない。
 それだからこそ、サッカーの決戦は涙なくしては観られない。

 さてさて、今日は何色の衣裳で出掛けましょうか。



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サブカルがスタンダードになったとき

2010年07月04日 20時20分13秒 | マイノリティーな、レポート
 二十一世紀になってから、日本文化への回帰というものが実践されてきて、前世紀の遺物になりつつある生業の者としては、大変に嬉しい。
 NHKの日曜美術館でも、日本の絵画、特に浮世絵の特集を頻繁にやるようになってきた。うれしいですねぇ。昭和の終わりから平成の最初ごろにかけての浮世絵というものは、オヤジがこっそり通販で買うというような代物にイメージが限定されていて、なんだか肩身が狭かったものだ。広重の花鳥画(そのころは安藤だった)の複製など、横浜は元町のインテリア屋さんで、外国人向けの土産物として売っていたような感じだった。
 安藤広重を歌川広重、と、はっきり教科書で訂正するようになってから、曖昧だった日本の歴史や伝統文化に対するスタンスが、教育界で変革の時代を迎えた。

 平成の初めごろ。芳年の絵画展があるというので喜び勇んで出かけた。のちに、三越美術館(新宿の三越南館にあった。今は大塚家具になっています)で、月岡芳年・大浮世絵展が行われるようになったが、そのころは一部の好事家のもので、その美術展も、上野松坂屋の特設会場のさらに一角に、こぢんまりと設けられたスペースで行われていた。
 それが、ビックリしたことに、解説文が、体裁を整えて頑張って説明してはいたのだが、あまりにも的外れ、適当だったのだ。
 今はそんなことはなく、皆、本当によく勉強・研究しているが、その頃の学芸員というものは、たぶん、西洋美術史には詳しいが、日本文化とくに江戸風俗文化の知識がなく、タテ割り的に日本の美術史だけ勉強したので、総体的な絵の解題ができなかったのではないだろうか。
 とくに江戸文化は、芝居の…歌舞伎など、当時の社会全体の在りようとか、風俗をよく知らないと、説明できない。今ではそれは基礎知識として当たり前だが、そのころの教育界と江戸文化好きの間は、はっきり乖離していた。
 今でも、江戸期に誕生した日本文化に対する一部の教育者の認識は、明治・大正と発達してきた歴史を顧みることなく、あまり変わらなくて、何年か以前、学校巡回で「いつもはお座敷で演奏してるんですか?」とか訊かれて、いささか衝撃だった。
 十数年前、邦楽の授業を学校で行う方針転換が出されたとき、江戸文化は遊郭の文化でそんなものは恥だ、とかいう有識者もいたぐらいだ。外国人が、日本人の女の子はゲイシャ・ガールで、男子は忍者だと思っているのと、同じじゃないですか、ねえ。

 ……アカデミズムとエンターテインメントの間って、広くて深い河がある。

 ええと、話が逸れました。その芳年の解説文がどんなふうに見当違いだったかというと、今でもよく覚えているのは、次の二点だ。
 ひとつは、あきらかに、芝居『鏡山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』の錦絵であろうと思われる、登場人物の「婢初女」というところに、「ひしょじょ」とルビが振ってあった。…?? はいィ???
 それじゃ意味がわかるまい。
 これは「はしため・はつじょ」と読むべきだろう。『鏡山』は、大奥でイジメに遭って自害してしまう主人のかたき討ちを、仕えていた女中のお初が見事晴らすというストーリー。その登場人物の単なる名前と役柄を言っているだけなのだ。
 …あんなに面白いお芝居を知らないなんて、モッタイナイ。鏡山の敵役である怖いお局・岩藤の、その憎々しげなキャラクターの、なんとまあ、カッコいいこと。
 このキャラクターは人気があるあまり、彼女を主役にした『骨寄せの岩藤』という芝居も派生したぐらいだ。お初に討たれて、野ざらしになっているバラバラの骸骨が、だんだん寄せ集まってきて復活! メアリー・ポピンズのように傘差して宙乗りで登場する。オモダカヤの岩藤、面白かったなぁ。
 岩藤は、胆の据わった凄みのある女優さんが演ってもよくはまる。昔、フィルムセンターで観たものだったかしら、建て替える前の文芸坐だったかしら…映画『鏡山競艶録』の鈴木澄子の迫力、堂々たる悪っぷりがあまりにもかっこよく、本当に惚れ惚れした。毒婦ものの主役を張れる鈴木澄子だからこそ、演じきれた役でもあるだろう。

 …話がどんどん逸れました。
 もう一つは、「女弁慶艶姿十種」というような画題の連作(記憶が定かでないので間違っていたらごめんなさい)の解説。「関東の女性の気風を、威勢のよい弁慶に見立てた姿絵」と、もっともらしく説明してあったので驚いた。
 だってその絵は、単に、弁慶縞の着物をきた、美人の姿絵だったのだもの。
 弁慶縞というのは、お芝居の弁慶の衣装から来た、大きい格子縞のシマ柄のこと。弁慶が着ていたから「弁慶縞」。実に分かりやすいネーミングだ。
 今風にいえば、うーん、そうだなぁ、たとえがちょっと古いですが、「近ごろ流行りのタータンチェック10選美女勢揃い…いや、キルトは男のものだから、イケメン10傑」みたいな感じでしょうか。
 これに「スコットランド・キルト・ブリティシュトラッド・コレクション(これまた英文法が滅茶苦茶のゴタマゼでスミマセン)」とかいう意味で外題をつけたのに、無理やり「イギリス北部・スコットランド人の我慢強い気性を表した姿絵」とか説明されてもねぇ。…違うでしょうョ。

 ところで、これとはまたちょっと逆の話になるのだが、中学校の体験学習の教材として「さくらさくら」を採り上げていたときの話。
 知らない曲は弾けませんから、なるべく知ってる曲を、未体験の楽器で弾かせたいなということで、誰もが知っている「さくら さくら」を弾いてもらおうと思ったら、なんと、今の学校では「さくらさくら」を習わないのだという。習ったとしても、歌詞が、分かりやすい現代語に書き換えられているのだそうな。
 …ひええええ。そりゃー古語、文語体は難しいけれど、難しいものを避けて行ったら、何も、新しい世界は拓けない。文語体の文章を難しいというだけで排除するのって、なんか貧しい。文語体の文章の美しさ、言葉の豊かさったら、ないからだ。
 これこそ、モッタイナイの極み。…それに、分からないところを知るのが勉強なんじゃないのかしら。

 たしかに、いまの学校の音楽の授業では、アニメ・ソングや流行歌であるJポップなどが教材として採り上げられるようになっている。それは身近に感じられて、とっつきやすく興味もわいていいのかもしれないが、社会全体、年代を越えた社会通念で、みんなが知っている曲、とかが、日本には全然なくなってしまうョ。

 学校で、サブ・カルチャーばかりを教えるようになったら、スタンダードなものは、いつどこで身につくようになるわけさ??

 それに、サブカルがスタンダードになったら、サブカルとしての面白み、存在意義がなくなるンじゃ…。社会の正道を外れたところの、ちょっとシャドーで曲折した世界に面白味・魅力を見出していた趣味人としては、つまらないよね。直球ではないカーブ、スライダー、ナックル、フォーク…変化球的サブカルのレーゾン・デートルが失われるゾ。
 さらに、そして、なんでも分かり易いものばかり教わっていたんじゃ、新しいものを知る愉しみ、向学心が無くなっていくンじゃなかろうか。
 物事って、分からないから興味がわく。そこが面白いんじゃあないのかなぁ。

 こうしてみると、教育の指針を決める作業って本当に難しいなあ、と思う。
 だって、歌舞伎だってもともとサブカルだ。子供の人生のお手本になるようなものではなくて、娯楽なんですから…。

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観戦地獄

2010年07月03日 05時50分00秒 | やたらと映画
 邦枝完二の『お伝地獄』を想い出すとき、横浜は黄金町のシネマ・ジャックを想い出す。
 …といっても、この小屋で映画化作品を観たわけではない。黄金町の一つ手前の日ノ出町駅で降りたとき、大岡川の橋のたもとに、高橋お伝が昔この辺りに住まいしていました、というような案内板を見たからである。
 映画自体は、新東宝のと大映のと、両方ともビデオかCSで観たと記憶している。
 昭和の終わりごろ、講談社から刊行された大衆文学館の文庫本シリーズで原作を読んでから、ビデオか何かで映画を観た。
 講談社は、さすが「キング」の雄弁会、講談全集とか落語全集も手ごろな文庫版にして再刊行してくれて、私はずいぶん読みふけったものだった。社会思想社の現代教養文庫のマニアックなラインアップとはまた趣を異にした、かつて大ヒットした読み物を収録した大衆路線なんだが、昭和の終わりにはすでにマイナーになっていた大衆路線、とでもいおうか。

 リアルタイムの新東宝映画は、子どもにはご法度だった。昭和のご家庭には必ず一人はいた、明治生まれのバアサンの言う「俗っぽい」基準というのは、結構的を射ている…と大人になってから気がついた。
 のちに、浅草は田原町の、友人の事務所の近所の黒船神社に行ったとき、大蔵貢が寄贈した、ものすごく立派な石碑が建立されていたのを発見して、驚いたものだ。時代時代の分限者が勧請した灯篭や狛犬、石碑をしみじみと読むのも、神社をお参りする愉しみの一つ。あれからやはり20年近く経つが、まだ在るかしら。

 さて、この『お伝地獄』、お伝自身の数奇な運命を指して地獄と言っているのか、毒婦・お伝に翻弄された男たちの境涯をして地獄と言っているのか…さて、どっちだろう。
 ……両方??

 このところ、年とともに集中力が減退してしまったのか、興味が失せたのか、TVでのスポーツ観戦ができない。チャンネルを合わせてみても、何か別の用事をしてしまうので、結局いつの間にか試合が終わっている。
 映画館で、冒頭の本編への導入シーンを二、三分観たまま爆睡して、気がついたらエンドロールが流れていた、というのに似ている。
 昨晩も、今日も今日とて…という塩梅で、W杯のオランダVSブラジルのカードを、後半42分時点でアナウンサーの、このままブラジルは負けてしまうのか…という悲鳴に近いようなキーワードでハッと気がつき、つけたまま放置していたテレビモニターを注視することになった。
 …で、結局そのすぐ後のハイライトシーンを観たのだが、拍子抜けするほどそそくさと番組は終わり、…おぉそうだったのか、オランダが勝ったのか、それにしても、優勝予想オッズ第1位であろうブラジルが負けたというのに、せっかちな番組の終わりようだな、と、ぼんやりとしていると、ウィンブルドンの生放送が始まったのだった。
 ひええ~これは、うっかりしていると、永久にこの観戦地獄から抜けられないゾ。NHKもご苦労なこった。ひょっとすると、さらにそのあと、ウルグアイ・ガーナ戦が控えているのでは…。

 パソコンのソフトは作業経過を23%としていて、まだまだ終わりそうにない。そのまま放置して、寝ることにした。
 土曜は稽古がある。寝不足では声が出ない。

 ところが、これまた年のせいか、気にかかることがあるせいか、眠れない。観戦しなくても眠れない。不眠地獄。…それじゃ、ダメじゃん、おんなじじゃん。

 スポーツ観戦地獄…。
 幸い私は免れましたけれどもね…。
 
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