20世紀につくられた、シルクロード紀行番組を偶々見た。
砂漠の遺構群が、遥か異国への憧憬と旅情を思い起こさせてくれたのだが、たぶん、もう今では心無い人災や戦禍に見舞われ、時の流沙にさらされる以前に、失われてしまっているのだろうなぁ…
日中共同制作…というキャプションが懐かしく、ぁぁ、そんな時代もあったね…と、しばしほのぼのしたのだが、記憶がまぶしく目に痛かった。
1980年代中頃、横浜中華街への食い倒れツアーや、返還されて間もない米軍住宅跡地(マイカル本牧として新開発される以前でしたがその名称さえ今は昔)散策、新作が封切りされるたび連れ立って出掛けたジャッキーチェン映画の観劇仲間でもあった大衆読み物研究会の学生時代の友人が、日本語学校の先生になって、中国(どの地方か失念してしまったが)へ赴任した。
土産話に、買い物に出かけると凡てがメイヨーであると、話し上手な彼は面白おかしく伝えてくれた。
開放政策が軌道に乗る前までの中国は、商店にはほとんど全く何もなく(あっても見本だそうで)、店員さんは「メイヨー(無い)」と宣うのみ。
(売るものがなくても国家公務員なので、お店は開けなくてはならないそうなのです)
赴任先で、文革の時代にはとても辛い目に遭われた画家の娘さんとご結婚なさって、一時帰国の折に、浦安に出来立ての東京ディズニーランドへ行きたい、ということでご案内した。
感極まった彼女が目をキラキラさせて、中国には21世紀になってもこのようなものは出来ない!と叫んだ。
それから私も環境が変わり、お目にかかることもなくなってしまったが、1990年代中頃、洋装のおしゃれはし尽して飽きてしまったような気がしていた30歳代半ばに、デパートに洋服を買いに行く度、延々と広がる膨大なアパレル売り場の…ぁぁ、これが、ここからここまでしかなくて、この中から仕方なく選ぶしかない…という状況だったらどんなに楽だろう…と、今思えば贅沢極まりない悩みに悩んでいたとき、かつて友人から聞いたメイヨー奇譚をしばしば想い出すようになっていた。
1995年ぐらいからだったでしょうか、それまで興味がなかった中華電影に突如ハマった話は別稿に譲るとして、怒涛のような20世紀末をやり過ごそうとしていた2000年の夏、祖母の葬式の席で、私は意外な話を叔父から聞いた。
理系の父方の叔父は重厚長大の典型的な電機系の大企業に就職し、1970年当時1ドル360円時代に社費でアメリカに留学したが、B型人間の定めか、上司と折り合わず退職した。しかし、手に職がある優秀な人材だったので、その企業の下請けのような、研究開発をするラボを起業し独立していたのである。
その強気な叔父が、2000年夏、このところは委託され中国へ技術を教えに行っていると話し、技術供与で日本の電気機器技術の重要なところまですべて分け与えている、このままでは日本国内の産業はなくなってしまうと思う、と、怒気を含ませながら悲しげに語った。
近江の鉄砲鍛冶の、筒一つの重要な研磨の秘術を絶対に漏らさなかった国友衆のことが頭によぎり、火葬場で祖母の焼昇を待ちながら私は、叔父の話に聞き入っていた。
さて、時は流れて、2020年夏、昨日私は近所の量販店に、古びてしまった卵焼き器の代わりに、新しいテフロン加工の角型フライパンを購入するべく出掛けたのである。
フライパンを展示するスペースが3列ほどもあった。
しかし、そのすべてがmade in CHINAまたはKOREAなのだった。
衰退し没落しつつある日本の産業を奮い立たせるべく、国産のものを買おうと思っていた私は混乱した。
(そして一方で、国産と銘打たれている商品の多くは、技能実習生という名の下で安い賃金で酷使されている外国人労働者の手になるものであるとも聞いている)
日本製のものを買おうと思ったのに、made in JAPANは、もはやメイヨーなのである。
いったい日本の国はどうなるのでしょうねぇ。
貿易が国際情勢に左右されるのは昔っから、分かりきっていることでありました。
いざという時の備えなくして、何の国力でありましょうか。
しおしおと空手で売り場を後にした私は、数分後、食料品売り場で、店員さんに「この間まであった商品がなくなっている、種類が減っている」と訴えている男性に出くわした。たしかに、輸入品は言わずもがな、このところの猛暑で、野菜類は品薄になっておりますね。
20世紀に面白おかしく聞いた隣国のメイヨー噺を、21世紀のいま、自分の国で実体験することになろうとは、誰が思ったことでありましょう。
時代を重ねれば進歩する…と思っていたのは20世紀の夢だったのでしょうか。
科学が進歩しても、人間性が進歩するとは限らないわけですからね…
そういえば、古典SFにして名作のウェルズ『タイムマシン』でも、遠い未来、人類は退化していますものね……
砂漠の遺構群が、遥か異国への憧憬と旅情を思い起こさせてくれたのだが、たぶん、もう今では心無い人災や戦禍に見舞われ、時の流沙にさらされる以前に、失われてしまっているのだろうなぁ…
日中共同制作…というキャプションが懐かしく、ぁぁ、そんな時代もあったね…と、しばしほのぼのしたのだが、記憶がまぶしく目に痛かった。
1980年代中頃、横浜中華街への食い倒れツアーや、返還されて間もない米軍住宅跡地(マイカル本牧として新開発される以前でしたがその名称さえ今は昔)散策、新作が封切りされるたび連れ立って出掛けたジャッキーチェン映画の観劇仲間でもあった大衆読み物研究会の学生時代の友人が、日本語学校の先生になって、中国(どの地方か失念してしまったが)へ赴任した。
土産話に、買い物に出かけると凡てがメイヨーであると、話し上手な彼は面白おかしく伝えてくれた。
開放政策が軌道に乗る前までの中国は、商店にはほとんど全く何もなく(あっても見本だそうで)、店員さんは「メイヨー(無い)」と宣うのみ。
(売るものがなくても国家公務員なので、お店は開けなくてはならないそうなのです)
赴任先で、文革の時代にはとても辛い目に遭われた画家の娘さんとご結婚なさって、一時帰国の折に、浦安に出来立ての東京ディズニーランドへ行きたい、ということでご案内した。
感極まった彼女が目をキラキラさせて、中国には21世紀になってもこのようなものは出来ない!と叫んだ。
それから私も環境が変わり、お目にかかることもなくなってしまったが、1990年代中頃、洋装のおしゃれはし尽して飽きてしまったような気がしていた30歳代半ばに、デパートに洋服を買いに行く度、延々と広がる膨大なアパレル売り場の…ぁぁ、これが、ここからここまでしかなくて、この中から仕方なく選ぶしかない…という状況だったらどんなに楽だろう…と、今思えば贅沢極まりない悩みに悩んでいたとき、かつて友人から聞いたメイヨー奇譚をしばしば想い出すようになっていた。
1995年ぐらいからだったでしょうか、それまで興味がなかった中華電影に突如ハマった話は別稿に譲るとして、怒涛のような20世紀末をやり過ごそうとしていた2000年の夏、祖母の葬式の席で、私は意外な話を叔父から聞いた。
理系の父方の叔父は重厚長大の典型的な電機系の大企業に就職し、1970年当時1ドル360円時代に社費でアメリカに留学したが、B型人間の定めか、上司と折り合わず退職した。しかし、手に職がある優秀な人材だったので、その企業の下請けのような、研究開発をするラボを起業し独立していたのである。
その強気な叔父が、2000年夏、このところは委託され中国へ技術を教えに行っていると話し、技術供与で日本の電気機器技術の重要なところまですべて分け与えている、このままでは日本国内の産業はなくなってしまうと思う、と、怒気を含ませながら悲しげに語った。
近江の鉄砲鍛冶の、筒一つの重要な研磨の秘術を絶対に漏らさなかった国友衆のことが頭によぎり、火葬場で祖母の焼昇を待ちながら私は、叔父の話に聞き入っていた。
さて、時は流れて、2020年夏、昨日私は近所の量販店に、古びてしまった卵焼き器の代わりに、新しいテフロン加工の角型フライパンを購入するべく出掛けたのである。
フライパンを展示するスペースが3列ほどもあった。
しかし、そのすべてがmade in CHINAまたはKOREAなのだった。
衰退し没落しつつある日本の産業を奮い立たせるべく、国産のものを買おうと思っていた私は混乱した。
(そして一方で、国産と銘打たれている商品の多くは、技能実習生という名の下で安い賃金で酷使されている外国人労働者の手になるものであるとも聞いている)
日本製のものを買おうと思ったのに、made in JAPANは、もはやメイヨーなのである。
いったい日本の国はどうなるのでしょうねぇ。
貿易が国際情勢に左右されるのは昔っから、分かりきっていることでありました。
いざという時の備えなくして、何の国力でありましょうか。
しおしおと空手で売り場を後にした私は、数分後、食料品売り場で、店員さんに「この間まであった商品がなくなっている、種類が減っている」と訴えている男性に出くわした。たしかに、輸入品は言わずもがな、このところの猛暑で、野菜類は品薄になっておりますね。
20世紀に面白おかしく聞いた隣国のメイヨー噺を、21世紀のいま、自分の国で実体験することになろうとは、誰が思ったことでありましょう。
時代を重ねれば進歩する…と思っていたのは20世紀の夢だったのでしょうか。
科学が進歩しても、人間性が進歩するとは限らないわけですからね…
そういえば、古典SFにして名作のウェルズ『タイムマシン』でも、遠い未来、人類は退化していますものね……