今日は本来の七夕の日なんだけど、誰も何も言わないな…と寂しく思っていた。
今年の暦は五月が閏だったから、新暦の7月7日のときはまだ二度目の五月の十四日で、それから二月あまり。心躍る夏が始まる予感の7月7日の習俗に慣らされた20世紀の者には、どうも孟秋の七月の行事である実感がいま一つ湧かないのだった。
でも、お星さまは見えた。雲間にピカリと輝く一等星を見たときの心のさざめき、これが節句を祝う清やかな心持ちというものか…やはり七夕は旧暦に限る。
あんれ、まぁ………
昨晩の稽古の帰り道、駅のホームを歩いていたら、ごみ箱に似たリサイクル専用回収boxの上に、透明なカップにストローが刺さった状態のものが十数個も林立、放置されていた。缶やペットボトル専用の穴から中に入らないから、その箱の上に置いたまま、ほったらかしにして逃げたのだ。一人が始めると我も我もと、罪悪感が薄まるせいか、山になって見るも無残な有様なのだった。見苦しいこと堪えられないので見ないようにしていたが、これを直視して片付ける役回りの人は大変だ。
こういうことが平気な人間になっちゃぁいけないょ…自分の心無い行為がいったいどのくらいの人間の迷惑になるのか、想像できなきゃ、真っ当な大人にはなれませんぜ。
だいたい、長距離を移動するわけでもない街なかの電車という動く物体の中で、さらに流動してこぼれ易い状態の容器を持ち込んで飲むこと自体、前世紀の人間には考えられないことなのだった。
駅に入っているファストフードのチェーン店も売れればいいものだから、何の配慮も注意もなく害悪を垂れ流す温床になっていることにも気づかないで、オシャレな人気ブランド店であるとの錯覚の下、商売に余念がない。
なーんか無策だなぁ。核廃棄物の捨て所がまだ見つからないのに、バンバン原発で電気作っちゃってるのとおんなじだなぁ。
一事が万事、人間のなすことは不細工ですね。
この誰とも分からぬ飲み残しのごみの山を見知らぬ誰かであろう駅員さんが片付けるのかと思うと、実に可哀想である。切符を切る作業から解放はされたものの(でも改札口でのあの一連の手際のよい動作がカッコよかった時代もありましたね)、遅延による様々な手当て、酔客の世話やら小間物店の片付け…あれは平成の一桁時代でしたか、職業別寿命、みたいな統計を見たことがあって、平均寿命が一番短いのが、鉄道員、駅員さんだったのだ。
電車が時刻通りに無事運行できるかという本来の業務に加えて、さらに聞き分けのない自分勝手な乗客の相手まで、どれだけのストレスを抱えながら日々就業しているのかと想像するだに涙が溢れる。
…余談が過ぎたので、とにかく、私はホームで電車を待ちながら沈思黙考していた。
己の欲せざるところ人に施すこと勿れ、という言葉を知らないかなぁ…誰が始末すると思ってるんだぃ。
誰が片付けると思ってるの!!と、やんちゃが過ぎる私は、家の中を散らかしてはしょっちゅう母に叱られていた。子どものころよく叱られたおかげで、今ではどうやら、人並みな思考ができるようになりました。お母さんありがとう、と、カーネーションの時季でなくても、十日の菊になる前に表明しておこう。
相手の身になって考える、ということができなくなった社会になって久しい。明日は我が身、因果は廻る、情けは人の為ならず…なんてことはことわざ解説の方に任せておいて、長唄人として何ができるだろうというと、それはまぁ、手っ取り早くは曲の解説でもあろうか。
さぁて、相手の身になって考える→→そんな長唄あったかなぁ→→映画には他人とひっくり返っちゃう映画があったね、…ほら大林宣彦監督の、オレがあいつでアイツが俺で…とかいう原作の、何だっけ…ふたり?いや違うタイトルだったな、何だっけ…ぁぁ脳髄の底の映画ょ、君の名は………
と、記憶の大海に捨て小舟は翻弄され、映画のタイトルは思い出せなかったのだけれども、そうだ!二人といやぁ、二人椀久!! 長唄の《ににんわんきゅう》があったじゃないの、松山と椀久が入れ替わった振りをするところが…!!
そんなわけで、駅で電車を待つ間に、ご案内する作品が決まりました。
『二人椀久』といったら、ついつい浮かれて踊りたくなってしまう魅惑のダンスナンバーなのだ。
椀屋久兵衛という、大坂御堂前の豪商の御曹司が、新町の松山という遊女に入れ揚げ、家財を湯水の如く浪費したので(散財する前に蓄財したものの苦労を知ってほしいものでありますね)、一族の座敷牢に閉じ込められた、という実在の人物をモデルにしております。(没年は延宝五=西暦1677年、九月七日のこととかや:四代将軍家綱公の治世であります)
♪たどりゆく、今は心も乱れ候、という唄いだしの歌詞は、江戸時代の歌謡を集めた元禄十七年刊の落葉集にも収録されていて、長唄としてもかなり古い部類に入り、歌舞伎や人形浄瑠璃にも幾たびとなく取り上げられ、椀久ものという、男の狂乱物の嚆矢として1ジャンルを築いた人気キャラ。
狂乱して彷徨う椀久が、自分の瞳の中に松山を見出す、その面影、幻影とともに、時には謡曲の『井筒』を引いてしっとりと、時には狂おしいほど狂騒的なテンポでリズミカルに踊りまくる、緩急の差の激しい大曲が、長唄舞踊の二人椀久なのである。
であるから、二人椀久の舞台を想い出すとき、長唄の地はさておいて、タタタタ、するするする…という本物の音ではない、立方さんから発される擬音のイメージが蘇る。
踊り上手、というものは、バタバタしないのである。曲芸ではない身体芸術。
若さゆえの勢いだけではない、年齢を重ねた表現力と技術、というものが日本舞踊には存在するのである。
だから日本の踊り手のピークは西洋のそれと比べると、たぶんビックリするほど高齢になる。
特に洋楽好きな方におススメのメロディは、織部の薄杯(うすさかずき)で、よいさ、しょんがえ…と乾杯するところ。オペラの何だったろう、紗幕が上がって不動のスタイルで待機していた人々がプロージット!と盃を酌み交わして動き出すシーンによく似た雰囲気を醸し出している旋律が、不思議な類似点だなぁ…と感じて、私は気に入っている。
さて、20世紀の歌舞伎舞踊『二人椀久』といえば、四代目中村雀右衛門×五代目中村富十郎が決定版でありました。
あるとき私は、築地の今は亡き先代京屋のお宅に伺って、二人椀久の藝談をうかがうという僥倖を得た。
まだ二月の寒いころだった。冬の日の明るい午後の陽が、モダンに大きくとった障子の嵌った窓から柔らかに差していた。
京屋は大きい襟の立った真っ赤な半袖のシャツ、金のネックレスやブレスレットで美しく身支度し、障子紙越しに交差する光と陰の中で、活発で朗らかにお話ししてくださった。
「今日のために取り寄せたんですよ」と道明寺の桜餅を手ずから取り分けてもくださった。
京屋が動くたび大ぶりのアクセサリーがジャラジャラと鳴って、なんだか私はアクシデントのため無音のラ・シルフィードを手首に巻いた鎖のサラサラいう音だけで踊った山岸凉子の少女漫画を想い出していた。
京屋は昭和18年の鳥取大地震の折、巡業先で客死された父君の大谷友右衛門の名跡を継がれたこともあり、子どものころは立役の修業しかしていなかったそうである。
戦後、いっとき映画の世界でご活躍なさっていたこともあった。
もちろん時代劇にたくさん出てらして、映画好きの間では市川崑監督の『青春銭形平次』、一般女性客には佐々木小次郎の役が人気だったそうであるが、私には名画座で見た溝口健二監督1954年作『噂の女』の変わり身の早い青年医師の役が面白かった。
戦争に取られて南方で終戦を迎え、復員して別な職業に就こうと思っていたところ、もう無くなったとばかり思っていた歌舞伎がまだあった。飛ぶようにして観に行き、夢中で見ているうちに涙がぽろぽろこぼれてきて、どうしても役者に戻りたい気持ちが沸き上がってきた。高麗屋に改めて弟子入りし、当時女形が不足していたこともあって、お前がやれ、ということになって転向なさったそうである。
自分は目が小さかったのでどうしようと思っていたら、ある時おじさん(岳父である七代目松本幸四郎、今の幸四郎の御祖父さんですね)がこれを使えと、黒いものを持ってきて…などと気さくにお話ししてくださった。御苦労をなさっただけ飾り気のない、分け隔てなく万人に優しくすこぶる前向きで努力を惜しまない、とてもパワフルでチャーミングな方だった。
年とともに枯れてゆく藝境なんて考えられない、ともおっしゃった。
ある年の雀右衛門の会で、本興行では滅多に掛からない『英執着獅子』を番組になさったことが、とても印象に残っている。
松山を踊る京屋の記憶から椀久の男の狂乱に思いをいたしていた車中(ホームから無事に電車に乗れたのです)、本編の盛り上がりをよそに、主人公がエンドマーク間際、とても寂しい狂乱状態に陥って、何だかなぁ…と思ってしまった映画に、大川橋蔵の『月形半平太』があったことまで想い出した。
もう25年以前、先代文芸坐だったろうか、一緒に観た友人に、なんでああなっちゃうんだろう、詰まんないですよねぇ、と言ったら、だって原作がそうなんだから仕方ないじゃない…と困ったように呟いた。その困惑した眼差しを、なぜだか今でも覚えている。
今年の暦は五月が閏だったから、新暦の7月7日のときはまだ二度目の五月の十四日で、それから二月あまり。心躍る夏が始まる予感の7月7日の習俗に慣らされた20世紀の者には、どうも孟秋の七月の行事である実感がいま一つ湧かないのだった。
でも、お星さまは見えた。雲間にピカリと輝く一等星を見たときの心のさざめき、これが節句を祝う清やかな心持ちというものか…やはり七夕は旧暦に限る。
あんれ、まぁ………
昨晩の稽古の帰り道、駅のホームを歩いていたら、ごみ箱に似たリサイクル専用回収boxの上に、透明なカップにストローが刺さった状態のものが十数個も林立、放置されていた。缶やペットボトル専用の穴から中に入らないから、その箱の上に置いたまま、ほったらかしにして逃げたのだ。一人が始めると我も我もと、罪悪感が薄まるせいか、山になって見るも無残な有様なのだった。見苦しいこと堪えられないので見ないようにしていたが、これを直視して片付ける役回りの人は大変だ。
こういうことが平気な人間になっちゃぁいけないょ…自分の心無い行為がいったいどのくらいの人間の迷惑になるのか、想像できなきゃ、真っ当な大人にはなれませんぜ。
だいたい、長距離を移動するわけでもない街なかの電車という動く物体の中で、さらに流動してこぼれ易い状態の容器を持ち込んで飲むこと自体、前世紀の人間には考えられないことなのだった。
駅に入っているファストフードのチェーン店も売れればいいものだから、何の配慮も注意もなく害悪を垂れ流す温床になっていることにも気づかないで、オシャレな人気ブランド店であるとの錯覚の下、商売に余念がない。
なーんか無策だなぁ。核廃棄物の捨て所がまだ見つからないのに、バンバン原発で電気作っちゃってるのとおんなじだなぁ。
一事が万事、人間のなすことは不細工ですね。
この誰とも分からぬ飲み残しのごみの山を見知らぬ誰かであろう駅員さんが片付けるのかと思うと、実に可哀想である。切符を切る作業から解放はされたものの(でも改札口でのあの一連の手際のよい動作がカッコよかった時代もありましたね)、遅延による様々な手当て、酔客の世話やら小間物店の片付け…あれは平成の一桁時代でしたか、職業別寿命、みたいな統計を見たことがあって、平均寿命が一番短いのが、鉄道員、駅員さんだったのだ。
電車が時刻通りに無事運行できるかという本来の業務に加えて、さらに聞き分けのない自分勝手な乗客の相手まで、どれだけのストレスを抱えながら日々就業しているのかと想像するだに涙が溢れる。
…余談が過ぎたので、とにかく、私はホームで電車を待ちながら沈思黙考していた。
己の欲せざるところ人に施すこと勿れ、という言葉を知らないかなぁ…誰が始末すると思ってるんだぃ。
誰が片付けると思ってるの!!と、やんちゃが過ぎる私は、家の中を散らかしてはしょっちゅう母に叱られていた。子どものころよく叱られたおかげで、今ではどうやら、人並みな思考ができるようになりました。お母さんありがとう、と、カーネーションの時季でなくても、十日の菊になる前に表明しておこう。
相手の身になって考える、ということができなくなった社会になって久しい。明日は我が身、因果は廻る、情けは人の為ならず…なんてことはことわざ解説の方に任せておいて、長唄人として何ができるだろうというと、それはまぁ、手っ取り早くは曲の解説でもあろうか。
さぁて、相手の身になって考える→→そんな長唄あったかなぁ→→映画には他人とひっくり返っちゃう映画があったね、…ほら大林宣彦監督の、オレがあいつでアイツが俺で…とかいう原作の、何だっけ…ふたり?いや違うタイトルだったな、何だっけ…ぁぁ脳髄の底の映画ょ、君の名は………
と、記憶の大海に捨て小舟は翻弄され、映画のタイトルは思い出せなかったのだけれども、そうだ!二人といやぁ、二人椀久!! 長唄の《ににんわんきゅう》があったじゃないの、松山と椀久が入れ替わった振りをするところが…!!
そんなわけで、駅で電車を待つ間に、ご案内する作品が決まりました。
『二人椀久』といったら、ついつい浮かれて踊りたくなってしまう魅惑のダンスナンバーなのだ。
椀屋久兵衛という、大坂御堂前の豪商の御曹司が、新町の松山という遊女に入れ揚げ、家財を湯水の如く浪費したので(散財する前に蓄財したものの苦労を知ってほしいものでありますね)、一族の座敷牢に閉じ込められた、という実在の人物をモデルにしております。(没年は延宝五=西暦1677年、九月七日のこととかや:四代将軍家綱公の治世であります)
♪たどりゆく、今は心も乱れ候、という唄いだしの歌詞は、江戸時代の歌謡を集めた元禄十七年刊の落葉集にも収録されていて、長唄としてもかなり古い部類に入り、歌舞伎や人形浄瑠璃にも幾たびとなく取り上げられ、椀久ものという、男の狂乱物の嚆矢として1ジャンルを築いた人気キャラ。
狂乱して彷徨う椀久が、自分の瞳の中に松山を見出す、その面影、幻影とともに、時には謡曲の『井筒』を引いてしっとりと、時には狂おしいほど狂騒的なテンポでリズミカルに踊りまくる、緩急の差の激しい大曲が、長唄舞踊の二人椀久なのである。
であるから、二人椀久の舞台を想い出すとき、長唄の地はさておいて、タタタタ、するするする…という本物の音ではない、立方さんから発される擬音のイメージが蘇る。
踊り上手、というものは、バタバタしないのである。曲芸ではない身体芸術。
若さゆえの勢いだけではない、年齢を重ねた表現力と技術、というものが日本舞踊には存在するのである。
だから日本の踊り手のピークは西洋のそれと比べると、たぶんビックリするほど高齢になる。
特に洋楽好きな方におススメのメロディは、織部の薄杯(うすさかずき)で、よいさ、しょんがえ…と乾杯するところ。オペラの何だったろう、紗幕が上がって不動のスタイルで待機していた人々がプロージット!と盃を酌み交わして動き出すシーンによく似た雰囲気を醸し出している旋律が、不思議な類似点だなぁ…と感じて、私は気に入っている。
さて、20世紀の歌舞伎舞踊『二人椀久』といえば、四代目中村雀右衛門×五代目中村富十郎が決定版でありました。
あるとき私は、築地の今は亡き先代京屋のお宅に伺って、二人椀久の藝談をうかがうという僥倖を得た。
まだ二月の寒いころだった。冬の日の明るい午後の陽が、モダンに大きくとった障子の嵌った窓から柔らかに差していた。
京屋は大きい襟の立った真っ赤な半袖のシャツ、金のネックレスやブレスレットで美しく身支度し、障子紙越しに交差する光と陰の中で、活発で朗らかにお話ししてくださった。
「今日のために取り寄せたんですよ」と道明寺の桜餅を手ずから取り分けてもくださった。
京屋が動くたび大ぶりのアクセサリーがジャラジャラと鳴って、なんだか私はアクシデントのため無音のラ・シルフィードを手首に巻いた鎖のサラサラいう音だけで踊った山岸凉子の少女漫画を想い出していた。
京屋は昭和18年の鳥取大地震の折、巡業先で客死された父君の大谷友右衛門の名跡を継がれたこともあり、子どものころは立役の修業しかしていなかったそうである。
戦後、いっとき映画の世界でご活躍なさっていたこともあった。
もちろん時代劇にたくさん出てらして、映画好きの間では市川崑監督の『青春銭形平次』、一般女性客には佐々木小次郎の役が人気だったそうであるが、私には名画座で見た溝口健二監督1954年作『噂の女』の変わり身の早い青年医師の役が面白かった。
戦争に取られて南方で終戦を迎え、復員して別な職業に就こうと思っていたところ、もう無くなったとばかり思っていた歌舞伎がまだあった。飛ぶようにして観に行き、夢中で見ているうちに涙がぽろぽろこぼれてきて、どうしても役者に戻りたい気持ちが沸き上がってきた。高麗屋に改めて弟子入りし、当時女形が不足していたこともあって、お前がやれ、ということになって転向なさったそうである。
自分は目が小さかったのでどうしようと思っていたら、ある時おじさん(岳父である七代目松本幸四郎、今の幸四郎の御祖父さんですね)がこれを使えと、黒いものを持ってきて…などと気さくにお話ししてくださった。御苦労をなさっただけ飾り気のない、分け隔てなく万人に優しくすこぶる前向きで努力を惜しまない、とてもパワフルでチャーミングな方だった。
年とともに枯れてゆく藝境なんて考えられない、ともおっしゃった。
ある年の雀右衛門の会で、本興行では滅多に掛からない『英執着獅子』を番組になさったことが、とても印象に残っている。
松山を踊る京屋の記憶から椀久の男の狂乱に思いをいたしていた車中(ホームから無事に電車に乗れたのです)、本編の盛り上がりをよそに、主人公がエンドマーク間際、とても寂しい狂乱状態に陥って、何だかなぁ…と思ってしまった映画に、大川橋蔵の『月形半平太』があったことまで想い出した。
もう25年以前、先代文芸坐だったろうか、一緒に観た友人に、なんでああなっちゃうんだろう、詰まんないですよねぇ、と言ったら、だって原作がそうなんだから仕方ないじゃない…と困ったように呟いた。その困惑した眼差しを、なぜだか今でも覚えている。