長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

一の字騒動

2018年02月16日 09時59分59秒 | 近況
 平成卅年、正月一日は来にけり。立春より後にお正月が来るというのはなかなかに不思議な感じがするが、月の暦ではそういうことも時々起こるらしい。江戸時代の皆さんは、そういう事象とどう折り合いをつけていたのだろうか…気になる。

 このところの日曜日は、芸団協主催のキッズ伝統芸能体験教室へ赴くことが多く、自然、自分が子どもだった時分のことを想い出すことが増えた。

 そういえば…。一目上がりの逆をゆく、こんなことがあった。

 いろいろな物の影のかたちを見よう、という授業だったから、総合的な(そんな形容詞は昭和40年代の学校にはなかったけれども)理科の時間だったかもしれない。
 校庭に出た、小学校に入学して間もない私たちの前方には、先生が用意してくださった幾つかの什器が置かれていた。詳しく何があったのかは想い出せないが、やかんがあったのは覚えている。

 わーーーぃ、という歓声とともに、皆が我勝ちに、地面に置かれていた物体に走り寄った。
 全員の分があったわけではないので、影をつくるものが手に取れない者もいた。
「ない人はお友達のものを一緒に見てくださいね」と、先生の声が聞こえたような気がした。出遅れた私は、徒手となった。
 
 なーんだ、つまんなぃ…と、しゃがみ込むと、赤みがかった薄茶色い関東ローム層の土に、傍らに落ちていた棒切れか何かで、何気なく一の字を書いた。

 すると、間髪を置かず、○○さん、何を書いているんです? という先生の声が聞こえた。
 ……!! 質問されたことに吃驚した私は、いくら何でも、一の字を書いていた…なんてくだらないことは言えないので、黙って下を向いた。

 今思えば…というか当然ながら、質問されたのではありませんね。
 先生は勝手に自分の世界に埋没しようとしている私を注意なさったのである。
 しかし、六歳児の私は、そのようなお気持ちを察することができず、いくら何でもただ一の字を書いていましたとは、とても恥ずかしくて言うことはできない、と思い、固く口を鎖した。

 答えない私に先生は「何を書いていたの?」と繰り返し尋ねた。
 そんなことは聞いてくださいますな、とても恥ずかしくて、ひと様に言えるようなことではありませんのです、はい…という心持ちだったのだけれど、黙っているうちにますます言葉を発する機会を失い、
「何を書いていたのか、言うまで、授業に出なくていいですよ」
 と、思いもかけない展開になり、教室に居ながら、二時間ドラマ的に言えばカンモクのうちに、一週間が過ぎてしまった。
 
 そんなわけで、一年生になって早々、ついに母親が職員室に呼ばれる、という騒動に発展した。

 いつの間にか、とんでもなく反抗的で強情でかたくなな悪い子になってしまったような気がしていた私は、でも、それはそんなに許してもらえないほどのことだったのだろうか、と悲しく思いながら、母と先生を前にして、
 ただ一を…一という字を書いていただけなんです、ごめんなさい…と泣きながら謝った。

 その当座は、その騒動の想い出から早く遠ざかりたかったので思い返すこともなかったが、成長してのち、先生は私に何を教えたかったのか、その一の字騒動を想い出すたび考えていた。
 教えを受ける人から聞かれたことには素直に答えなさい、ということだったのかも、と十代のころは発想していたようにも思う。
 集団行動においては、最初の決め事を遂行しなさい、ということでもあったのかと気がついたのは、二十代後半になってからだっただろうか。
 いや、先生は何かというと自分の世界に没頭しがちな私の性癖を見抜いていて、真っ当な人間に矯正してくださろうとしたのかも。
 そもそもが、そんなくだらないことをしていた…と気がついていたということは、学校の授業という大切かつ重要な時間に、ついうっかり悪気がなかったのかもしれないが、やっぱりいけないことをしてしまったのだった…と、小学1年生なりに分かっていたのだとも言える。

 …もう少し生きてみたら、また別の答えが見つかるのかもしれない。
 

【追記】
解答篇は、令和2年天神祭の日(学問の神様・菅原道真公の御導きによるかも知れません)付の日記をご覧ください。
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釣狐

2018年02月11日 23時50分00秒 | 凝り性の筋
 何と嬉しや、憧れの『釣狐』を演ずる機会が私にも訪れた。
 …と申せども、狂言ではなく長唄の舞台である。



 あまりに嬉しかったので、堺の白蔵主稲荷へ詣でた。
 ♪…姿は伯父の白蔵主 見えつ隠るる細道…



 余りに愉しい曲なので、様々なことを申し述べたいのであるが、稽古に励んでいるうち、なんと明日が本番になってしまった。(現在、2月25日深夜)

 そんなわけで、来たる2月26日月曜日、日本橋蛎殻町の日本橋公会堂にて、第7回伝統長唄伝承の会がございます。
 皆さま、何とぞよろしくお願い申し上げます。

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二の字

2018年02月02日 02時00分22秒 | 落語だった
 雪が降るとめちゃくちゃ嬉しい。吸血鬼に魅入られた美女のようにふらふらと散歩に出かけた時の、まつげや頬にふうわりとまとわりつく氷の粒の感触と湿った空気の匂い、鼻の奥に迫ってくる一種独特なトンガリ感。心身共に重力に従う年回りになっちゃったのか、戌年の今年に在っても庭を駆け回らずに窓から幾たびも雪の降りっぷりを眺めていた私は、感触の記憶を反芻する楽しみに浸る。
 雪は降る、雪は降る…雪を冒して出かけなきゃならない方は、そりゃー皆さん不要不急じゃないに決まっている。
 今日は絶対、寄席で誰かが雪てんをかけるぞ…いや、かけるかなぁ…かけてほしいなぁ……てか、かけて!
 
 寄席の愉しみは、公共の放送にのせられないお噺を、即時性でもって聞くことである。
 世の中のニュースのどうにも納得できないこと、あんな悪人づれが大手を振って横行し、正直者たる弱者が泣きを見て、頼みになりそうな偉い人々はほっかむりして知らん顔して…正義の味方はもうどこにもいないのか。神も仏もないものか、黄門さまや大岡越前は今の世にはいないのか…誰かこの無法状態の現在を糾して糺して、正して…という、無力の民草が胸に抱えた青春の焦燥を、誰かが必ず高座で揶揄して代弁してくれた。
 しかも、今感じたこと、思ったことを今日只今、他人の口から聞けるのだ。共感できた時のジャストな快感。
 
 さてねぇ、そんな大がかりな社会の有態にかかることだけじゃなくて、些末な、天候気象のほんの小さな出来事やなんかの、世間話を聞く心の余裕が愉しいのである。もう久しく寄席に行けないけれど、今も雪の日に雪てんをかけてくれる落語家はいるのかなぁ…二の字二の字の下駄のあとって…お客さんも共感できなきゃ笑わないだろうから、21世紀ではどうなんだろう。
 演者自身もそんな体験がなきゃ自分の噺としては話せないもんなぁ…

 雪の日に、雪下駄をはいて出かけることの爽快さときたら! 積もった雪にサクサクっと歯が刺さって、推進力の凄いこと、陸上選手でなくとも駅までのタイムが幾分縮んでいるに違いないことの歓び。雨下駄より歯が薄いので、よく雪を噛んで一歩一歩が心強い。そんなわけで長年、天気の悪い日には下駄を愛好してきたのだった。
 それが、である。その爽快感までもが記憶の反芻でしか得られなくなってしまったのだ。

 …というのは一昨年の暮れ、歯に引いてある滑り止めのゴムが減ってきたので、雪下駄の歯を直してもらおうと履物屋さんに持っていったら、今はねぇ直せないんですょ、前は歯ごと交換してたりもしたんだけど、漆を塗れる職人もいなくなっちゃったから、すみませんねぇ…と、いろいろくふうして下さって、応急の手当てはしてもらえたのだが、そうなるとこの雪下駄が愛おしくて履き倒すわけにもいかず…さらば、雪下駄の日々よ……

 ビニールの爪皮が一体化した雨草履のダサい感じが嫌で(ごめんねアマゾーリ)、ずっと回避してきたのだけれど、昨春、名古屋の円頓寺商店街で、衝撃の価格でさりげない色合いの品のよい雨草履を手に入れたので、住めば都、履けば雨草履も雪草履、重宝している。

 そいえば、この間、久しぶりに拵えた眼鏡屋さんの眼鏡ケースは、ひどく不格好なものだった。サービスでつけてくれたのだから仕方ないが、そうか、昔の日本の、こうした身の回りのこまごまとした様々なものが、高品質であるのに廉価で手に入った常日頃というものが、改めて考えてみると、奇跡の世の中だったのだ、といまさら気がついた。それは、そうした物事を日常的に供給できる労働人口、人々の不断の努力、就労があってのことなのだった。
 現日本にはそうした技術を持つ人々がかろうじて絶滅せずに残っているのかもしれないが、もはや日常を彩るものではなく、そしてまた、それらを提供される人々は、一般の庶民ではなくなっているのだろう。

  …かくて雪の朝の、二の字の風物は滅びぬ。


 
 小学何年生だったか…お正月に雪が降って、叔母が駅前の洋品屋さん(後期昭和風に言えばブティック)で福袋を買って、可愛がられていた姪の私は、金色の環がぶら下がったイヤリングを頂いた。
 早速、ぅわーーーい、と言いながら耳に下げて、家の脇の雪の積もった道で、そのまま雪合戦に興じた。
 気がつくと、片方のイヤリングがなくなっていた。叔母の好意を無にしてしまった、しかももらった当日に…という罪悪感と自己嫌悪と反省の気持ちは、当時の概念、福袋の中身というものは、お店の売れ残りばっかりで要らないものしか入ってないからなぁ…という叔母の呟きに幾分和らげられたのだけれども。

 それから雪がほとんど溶けて、でも路肩には雪の塊がちょっと汚れた形で残っていた、一週間も経たぬうちの朝の登校時間のこと、家の脇の道をまっすぐ学校に向かって歩いていた私は、町内を曲がる手前の、アスファルトの舗装道路の上に、ピカリと光る金色の円い環っかを見つけた。
 驚くまいことか、先日の雪合戦の折紛失したイヤリングだったのである。おそらく先日の雪合戦古戦場から百メートルほども離れていただろう。
 雪には何かしら…茶目っ気というものが備わっているのではないかと思ったりもする。
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