平成卅年、正月一日は来にけり。立春より後にお正月が来るというのはなかなかに不思議な感じがするが、月の暦ではそういうことも時々起こるらしい。江戸時代の皆さんは、そういう事象とどう折り合いをつけていたのだろうか…気になる。
このところの日曜日は、芸団協主催のキッズ伝統芸能体験教室へ赴くことが多く、自然、自分が子どもだった時分のことを想い出すことが増えた。
そういえば…。一目上がりの逆をゆく、こんなことがあった。
いろいろな物の影のかたちを見よう、という授業だったから、総合的な(そんな形容詞は昭和40年代の学校にはなかったけれども)理科の時間だったかもしれない。
校庭に出た、小学校に入学して間もない私たちの前方には、先生が用意してくださった幾つかの什器が置かれていた。詳しく何があったのかは想い出せないが、やかんがあったのは覚えている。
わーーーぃ、という歓声とともに、皆が我勝ちに、地面に置かれていた物体に走り寄った。
全員の分があったわけではないので、影をつくるものが手に取れない者もいた。
「ない人はお友達のものを一緒に見てくださいね」と、先生の声が聞こえたような気がした。出遅れた私は、徒手となった。
なーんだ、つまんなぃ…と、しゃがみ込むと、赤みがかった薄茶色い関東ローム層の土に、傍らに落ちていた棒切れか何かで、何気なく一の字を書いた。
すると、間髪を置かず、○○さん、何を書いているんです? という先生の声が聞こえた。
……!! 質問されたことに吃驚した私は、いくら何でも、一の字を書いていた…なんてくだらないことは言えないので、黙って下を向いた。
今思えば…というか当然ながら、質問されたのではありませんね。
先生は勝手に自分の世界に埋没しようとしている私を注意なさったのである。
しかし、六歳児の私は、そのようなお気持ちを察することができず、いくら何でもただ一の字を書いていましたとは、とても恥ずかしくて言うことはできない、と思い、固く口を鎖した。
答えない私に先生は「何を書いていたの?」と繰り返し尋ねた。
そんなことは聞いてくださいますな、とても恥ずかしくて、ひと様に言えるようなことではありませんのです、はい…という心持ちだったのだけれど、黙っているうちにますます言葉を発する機会を失い、
「何を書いていたのか、言うまで、授業に出なくていいですよ」
と、思いもかけない展開になり、教室に居ながら、二時間ドラマ的に言えばカンモクのうちに、一週間が過ぎてしまった。
そんなわけで、一年生になって早々、ついに母親が職員室に呼ばれる、という騒動に発展した。
いつの間にか、とんでもなく反抗的で強情でかたくなな悪い子になってしまったような気がしていた私は、でも、それはそんなに許してもらえないほどのことだったのだろうか、と悲しく思いながら、母と先生を前にして、
ただ一を…一という字を書いていただけなんです、ごめんなさい…と泣きながら謝った。
その当座は、その騒動の想い出から早く遠ざかりたかったので思い返すこともなかったが、成長してのち、先生は私に何を教えたかったのか、その一の字騒動を想い出すたび考えていた。
教えを受ける人から聞かれたことには素直に答えなさい、ということだったのかも、と十代のころは発想していたようにも思う。
集団行動においては、最初の決め事を遂行しなさい、ということでもあったのかと気がついたのは、二十代後半になってからだっただろうか。
いや、先生は何かというと自分の世界に没頭しがちな私の性癖を見抜いていて、真っ当な人間に矯正してくださろうとしたのかも。
そもそもが、そんなくだらないことをしていた…と気がついていたということは、学校の授業という大切かつ重要な時間に、ついうっかり悪気がなかったのかもしれないが、やっぱりいけないことをしてしまったのだった…と、小学1年生なりに分かっていたのだとも言える。
…もう少し生きてみたら、また別の答えが見つかるのかもしれない。
【追記】
解答篇は、令和2年天神祭の日(学問の神様・菅原道真公の御導きによるかも知れません)付の日記をご覧ください。
このところの日曜日は、芸団協主催のキッズ伝統芸能体験教室へ赴くことが多く、自然、自分が子どもだった時分のことを想い出すことが増えた。
そういえば…。一目上がりの逆をゆく、こんなことがあった。
いろいろな物の影のかたちを見よう、という授業だったから、総合的な(そんな形容詞は昭和40年代の学校にはなかったけれども)理科の時間だったかもしれない。
校庭に出た、小学校に入学して間もない私たちの前方には、先生が用意してくださった幾つかの什器が置かれていた。詳しく何があったのかは想い出せないが、やかんがあったのは覚えている。
わーーーぃ、という歓声とともに、皆が我勝ちに、地面に置かれていた物体に走り寄った。
全員の分があったわけではないので、影をつくるものが手に取れない者もいた。
「ない人はお友達のものを一緒に見てくださいね」と、先生の声が聞こえたような気がした。出遅れた私は、徒手となった。
なーんだ、つまんなぃ…と、しゃがみ込むと、赤みがかった薄茶色い関東ローム層の土に、傍らに落ちていた棒切れか何かで、何気なく一の字を書いた。
すると、間髪を置かず、○○さん、何を書いているんです? という先生の声が聞こえた。
……!! 質問されたことに吃驚した私は、いくら何でも、一の字を書いていた…なんてくだらないことは言えないので、黙って下を向いた。
今思えば…というか当然ながら、質問されたのではありませんね。
先生は勝手に自分の世界に埋没しようとしている私を注意なさったのである。
しかし、六歳児の私は、そのようなお気持ちを察することができず、いくら何でもただ一の字を書いていましたとは、とても恥ずかしくて言うことはできない、と思い、固く口を鎖した。
答えない私に先生は「何を書いていたの?」と繰り返し尋ねた。
そんなことは聞いてくださいますな、とても恥ずかしくて、ひと様に言えるようなことではありませんのです、はい…という心持ちだったのだけれど、黙っているうちにますます言葉を発する機会を失い、
「何を書いていたのか、言うまで、授業に出なくていいですよ」
と、思いもかけない展開になり、教室に居ながら、二時間ドラマ的に言えばカンモクのうちに、一週間が過ぎてしまった。
そんなわけで、一年生になって早々、ついに母親が職員室に呼ばれる、という騒動に発展した。
いつの間にか、とんでもなく反抗的で強情でかたくなな悪い子になってしまったような気がしていた私は、でも、それはそんなに許してもらえないほどのことだったのだろうか、と悲しく思いながら、母と先生を前にして、
ただ一を…一という字を書いていただけなんです、ごめんなさい…と泣きながら謝った。
その当座は、その騒動の想い出から早く遠ざかりたかったので思い返すこともなかったが、成長してのち、先生は私に何を教えたかったのか、その一の字騒動を想い出すたび考えていた。
教えを受ける人から聞かれたことには素直に答えなさい、ということだったのかも、と十代のころは発想していたようにも思う。
集団行動においては、最初の決め事を遂行しなさい、ということでもあったのかと気がついたのは、二十代後半になってからだっただろうか。
いや、先生は何かというと自分の世界に没頭しがちな私の性癖を見抜いていて、真っ当な人間に矯正してくださろうとしたのかも。
そもそもが、そんなくだらないことをしていた…と気がついていたということは、学校の授業という大切かつ重要な時間に、ついうっかり悪気がなかったのかもしれないが、やっぱりいけないことをしてしまったのだった…と、小学1年生なりに分かっていたのだとも言える。
…もう少し生きてみたら、また別の答えが見つかるのかもしれない。
【追記】
解答篇は、令和2年天神祭の日(学問の神様・菅原道真公の御導きによるかも知れません)付の日記をご覧ください。