残る花あり 風吹けば顔をうつ
二十代にとてもとても好きだった荻原井泉水の回顧展に、行くことができた。先月半ばの最終日に。これまた、ふと地震速報を見ようと思ってつけたテレビが、会期終了の三日前に、フェードインざま教えてくれたのだ。
ありがとう、TVKテレビ。震災以降、私の心の支えは戦国鍋だけじゃなかった。
この一節は、そのときの展示の井泉水の絶筆から、抜粋したものだ。
神奈川近代文学館から出て港を望めば、丘の下方に本牧、彼方にベイ・ブリッジ。
そういえばこの公園に来たのは昭和の六十年ごろ以来だから、なんともう、あれから四半世紀あまりの月日が流れていた。
花見の盛りを過ぎた園内は人もまばらで、うらうらと午後の陽ざしに温(ぬく)まっている。
私はよく思い違いをする。
たとえばユトリロを、ずいぶん長い間ユリトロだと思っていて、でもその間違いに気付いたのは、高校のとき、修学旅行で訪れた岡山の大原美術館で、であった。
中学生のときは美術部にいたのに…自分は印象派びいきで、ルノアールやドガもどきの油絵ばかり描いていたが、そのとき、エコール・ド・パリとか無頼派的な画家とかの議論をする友人がいなかったのは、不幸中の幸いだった。
そうして私は誰にも知れず、赤面しながら、モネの「睡蓮」の手前の回廊で、自分の思い違いをそっと修正することに成功した。
それから、中原中也の「よごれつちまった悲しみに」。
もうずっとずっと、わたしは、この「よごれつちまった」が「かなしみ」そのものにかかる意味だと思っていた。つまり、かなしみが汚れてしまった、というふうに解釈していたのだ。かえって、すごく思索的で難解になっちゃってるけど。
これっぽちも、自分自身がよごれちまったことだったとは、思いもせなんだ。
その自分の間違いに初めて気がついたのは一昨々年のこと。
かくまでも黒くかなしき色やある
わが思ふひとの春のまなざし
という北原白秋の歌そのままのような、深く清冽で、透き通った眼をしている人にめぐり会ったからだった。
そうして私は、ずいぶん長いこと忘れていた、青春のころの潔い初心を思い起こした。
先月に続き、また訃報が届く。ずいぶんとよくしてくれた先輩だった。寂しい。
長唄が、一部の好事家のものではなく、現代のエレキギターのように普及していた時代があった。それは明治35年(1902年)壬寅の歳。
芝居や舞踊から離れた、純粋に聴く対象である音楽として、長唄を新生させる運動というのが始まって、そのこころざしを抱く先人による演奏会が、頻繁に行われた。その行動が実を結んだものだ。
「長唄の趣味好尚はあまねく一般社会に及び、各階級家庭に入り、民衆音楽としての本領を発揮することになった…(中略) そうして多くの新曲も出来た」。
中内蝶二は、昭和4年の著作にこう書いている。
青春のころ、そういう活気あふれる長唄に親しんで、芸事・稽古に対する姿勢、筋の通った生き方を持っていた諸先輩方が、ひとり、またひとりと、旅立っていく。
失われていく前時代の美風。
きのう平成23年5月2日は、旧暦の平成廿三年弥生晦日で、三月尽。今日から四月。季節は夏。
行く春に、別れを告げるつもりだった。
でも、to‐springではなく、in‐springになってしまった。
春に別れを……。
二十代にとてもとても好きだった荻原井泉水の回顧展に、行くことができた。先月半ばの最終日に。これまた、ふと地震速報を見ようと思ってつけたテレビが、会期終了の三日前に、フェードインざま教えてくれたのだ。
ありがとう、TVKテレビ。震災以降、私の心の支えは戦国鍋だけじゃなかった。
この一節は、そのときの展示の井泉水の絶筆から、抜粋したものだ。
神奈川近代文学館から出て港を望めば、丘の下方に本牧、彼方にベイ・ブリッジ。
そういえばこの公園に来たのは昭和の六十年ごろ以来だから、なんともう、あれから四半世紀あまりの月日が流れていた。
花見の盛りを過ぎた園内は人もまばらで、うらうらと午後の陽ざしに温(ぬく)まっている。
私はよく思い違いをする。
たとえばユトリロを、ずいぶん長い間ユリトロだと思っていて、でもその間違いに気付いたのは、高校のとき、修学旅行で訪れた岡山の大原美術館で、であった。
中学生のときは美術部にいたのに…自分は印象派びいきで、ルノアールやドガもどきの油絵ばかり描いていたが、そのとき、エコール・ド・パリとか無頼派的な画家とかの議論をする友人がいなかったのは、不幸中の幸いだった。
そうして私は誰にも知れず、赤面しながら、モネの「睡蓮」の手前の回廊で、自分の思い違いをそっと修正することに成功した。
それから、中原中也の「よごれつちまった悲しみに」。
もうずっとずっと、わたしは、この「よごれつちまった」が「かなしみ」そのものにかかる意味だと思っていた。つまり、かなしみが汚れてしまった、というふうに解釈していたのだ。かえって、すごく思索的で難解になっちゃってるけど。
これっぽちも、自分自身がよごれちまったことだったとは、思いもせなんだ。
その自分の間違いに初めて気がついたのは一昨々年のこと。
かくまでも黒くかなしき色やある
わが思ふひとの春のまなざし
という北原白秋の歌そのままのような、深く清冽で、透き通った眼をしている人にめぐり会ったからだった。
そうして私は、ずいぶん長いこと忘れていた、青春のころの潔い初心を思い起こした。
先月に続き、また訃報が届く。ずいぶんとよくしてくれた先輩だった。寂しい。
長唄が、一部の好事家のものではなく、現代のエレキギターのように普及していた時代があった。それは明治35年(1902年)壬寅の歳。
芝居や舞踊から離れた、純粋に聴く対象である音楽として、長唄を新生させる運動というのが始まって、そのこころざしを抱く先人による演奏会が、頻繁に行われた。その行動が実を結んだものだ。
「長唄の趣味好尚はあまねく一般社会に及び、各階級家庭に入り、民衆音楽としての本領を発揮することになった…(中略) そうして多くの新曲も出来た」。
中内蝶二は、昭和4年の著作にこう書いている。
青春のころ、そういう活気あふれる長唄に親しんで、芸事・稽古に対する姿勢、筋の通った生き方を持っていた諸先輩方が、ひとり、またひとりと、旅立っていく。
失われていく前時代の美風。
きのう平成23年5月2日は、旧暦の平成廿三年弥生晦日で、三月尽。今日から四月。季節は夏。
行く春に、別れを告げるつもりだった。
でも、to‐springではなく、in‐springになってしまった。
春に別れを……。