平成卅年の桜があまりにも早かったので、鉄道の窓を流れゆく花の群れさえ堪能するいとまもなく、車窓は緑に変わっていた。花房の開き初めたるかぐわしき藤の香も、先週のこととなった。
平成初年ごろからの通勤電車の…都下西域からお濠端を通って東京駅へ至る中央・総武沿線のどこに桜の樹があるのかをすっかり把握していたが、その姿は来る春ごとに少しづつ減っていく。景色を見慣れた者にはかなしき時の流れである。
花のころは更なり…けれども、花の去った後の、瑞々しい若緑の枝が空に拡がるこの季節のなんと美しいことか。ほれぼれと窓の外を眺めていたら、思いがけないことに気が付いた。
…なのに、なぜ、この美しき世界を見ずに、皆はこぞって手許の小さい無機質の塊を覗いているのか。
タブレットを捨てよ、外界を見よ。
その手の内の小さい画面は、この広い空の下に展開する世界より美しいのだろうか。
風光は刻一刻と変化しているのである。
モッタイナイ実践家の方々よ、彼らを啓蒙されたし。
さてまた、私はよく、生き物たちにからかわれる。
何年か以前、梁塵秘抄を実践した蝶の様子をお伝えしたけれど、ついおとついは蜘蛛の本性を見てしまった。
去る13日の金曜日のこと。
東京駅八重洲口9時ちょうど発車の、M都市へ向かう高速バスに乗るべく、私は朝7時半に家を出た。
さてもさても早起きは三文の得なんである。8時ちょっと前、通勤時刻ピークになるちょっと前の、乗車率120パーセント程度の比較的空いている車内の吊り革につかまり、のびのびと手足を拡げ、視線をあちらこちらに廻らしていた。
ドアを入って通路の真ん中の、ぶら下がり健康器ぐらいの半端な高さに下がっている吊革をふと、見上げると、黒い吊り輪に蜘蛛がとまっていた。
あらまあ珍しい。電車で蜘蛛に乗り合わせるとは。
…このクモは誰かの化身か生まれ変わりか、焼津の半次がこの場に居たら偉い騒動になっていたことだろうな、この毛ガニようの足のコンパクトな感じからいうとこりゃハエトリグモの類かしらん、昔ゲジゲジやらおもちゃのゴム製の蜘蛛があったけど肢が長い女郎蜘蛛タイプが多かったなぁ、そいや黒後家蜘蛛の会というミステリの短編集があったね、高校生のころ買って読み切れずにそのままずいぶん長い間持ってたけど結局古本屋に出しちゃったのだったか…
人間の脳というのは恐るべき働き者で、一瞬のうちに蜘蛛をめぐる数々の連想が頭の中を飛び跳ねた。
ぉぉ、そうであった。こういう時こそフラッシュ、フォーカス、フライデーっちゅうやっちゃ、こういう千載一遇のチャンスはカメラに収めねばなりませんな。さいわい、自分の身の回りには1尺ほどの空間があったので、例によってガラホ搭載のピンホール写真機で蜘蛛の御影の激写を試みた。
で、シャッターボタンを押す、と、蜘蛛が糸をはいて、すーーーーっと延びる。
あらま(っちゃんでべその宙返り、って無駄口が昭和のころありましたね)……
敵さん、吊革からぶるさがった蜘蛛の糸の先に、びよーーーーーーん、と涼しい顔(たぶん)でぶらさがっている。
様子を見ていると、そのまましばしぶら下がっているので、撮影するのをあきらめて携帯を半分に折る。
ふと気づくと、敵はまた吊革に戻っている、こりゃめずらしい、と思うからも一度撮影しようとレンズを向ける、シャッターを切ろうとすると、再びびよーーーーんと、空中にダイブする。
そんなことを吉祥寺から高円寺あたりまで、通勤電車の中で繰り返していた。
くーちゃんは、無邪気に(たぶん)何度か空中ダイブに興じていたが、そろそろ中野である。
この後人が増えてきたらどうなってしまうのだろう、と案じていたところ、糸を伸ばしてするするっと、吊革の下にあったチェック柄のシャツを着た若者の襟首に入ってしまった。
あっ!!
息を呑み込んだ私は、お兄さんに、襟首に蜘蛛が…蜘蛛が入りましたよ、と告げるべきか、いやまー、どうするべきか、15秒ほど悩んだ。
ほかに気がついてくれた人はいないのだろうか、と車内を何気ない風を装って見回したが、本当に誰も気づいていないのである。みなタブレットをのぞき込んだり、目をつむったり、蜘蛛の去就にやきもきする物好きは一人たりとていないのだった。幽霊や妖怪や悪党が、一瞬正体を現して、なのに誰も気づかなくって、でも本当に僕は見たんだよっ!!と叫んで孤軍奮闘するホームアローンの坊やの孤独感が、世紀を超えて私にも訪れた。
危うし、お兄さんは何も気づくことなく、静かに背を向けて通勤の混雑をやり過ごしている。
お兄さんはエーリアンならぬ蜘蛛の精の餌食にされてしまうのか、いや、だんだん混んでくる人の背に押されて、哀れくーちゃんは生きたまま煎餅のようにのされてしまうのか………
中野駅に着いたドアからたくさんの乗客が乗り込んでくるに及び、お兄さんに危機を告げるその機会と勇気と親切心を失って、私は車両中ほどに歩を進めた。
そのあと、新宿駅に着くまで柄シャツの後ろから様子を眺めていたが、お兄さんは何も気づくことなく、新宿駅のホームの雑踏、人波に紛れて消えたので、蜘蛛の行方は杳として知れない。
かのちちうはつり革に ひとすじの糸を残して 失せにけり。
今さっき目の前に繰り広げられた光芒が夢ではなかった証拠に、主を失った蜘蛛の糸は、切れた先のほつれが撚れて、空調に揺らぎながら儚げにスーッと糸を引いていたが、数駅が過ぎるとそれも消えていた。
平成初年ごろからの通勤電車の…都下西域からお濠端を通って東京駅へ至る中央・総武沿線のどこに桜の樹があるのかをすっかり把握していたが、その姿は来る春ごとに少しづつ減っていく。景色を見慣れた者にはかなしき時の流れである。
花のころは更なり…けれども、花の去った後の、瑞々しい若緑の枝が空に拡がるこの季節のなんと美しいことか。ほれぼれと窓の外を眺めていたら、思いがけないことに気が付いた。
…なのに、なぜ、この美しき世界を見ずに、皆はこぞって手許の小さい無機質の塊を覗いているのか。
タブレットを捨てよ、外界を見よ。
その手の内の小さい画面は、この広い空の下に展開する世界より美しいのだろうか。
風光は刻一刻と変化しているのである。
モッタイナイ実践家の方々よ、彼らを啓蒙されたし。
さてまた、私はよく、生き物たちにからかわれる。
何年か以前、梁塵秘抄を実践した蝶の様子をお伝えしたけれど、ついおとついは蜘蛛の本性を見てしまった。
去る13日の金曜日のこと。
東京駅八重洲口9時ちょうど発車の、M都市へ向かう高速バスに乗るべく、私は朝7時半に家を出た。
さてもさても早起きは三文の得なんである。8時ちょっと前、通勤時刻ピークになるちょっと前の、乗車率120パーセント程度の比較的空いている車内の吊り革につかまり、のびのびと手足を拡げ、視線をあちらこちらに廻らしていた。
ドアを入って通路の真ん中の、ぶら下がり健康器ぐらいの半端な高さに下がっている吊革をふと、見上げると、黒い吊り輪に蜘蛛がとまっていた。
あらまあ珍しい。電車で蜘蛛に乗り合わせるとは。
…このクモは誰かの化身か生まれ変わりか、焼津の半次がこの場に居たら偉い騒動になっていたことだろうな、この毛ガニようの足のコンパクトな感じからいうとこりゃハエトリグモの類かしらん、昔ゲジゲジやらおもちゃのゴム製の蜘蛛があったけど肢が長い女郎蜘蛛タイプが多かったなぁ、そいや黒後家蜘蛛の会というミステリの短編集があったね、高校生のころ買って読み切れずにそのままずいぶん長い間持ってたけど結局古本屋に出しちゃったのだったか…
人間の脳というのは恐るべき働き者で、一瞬のうちに蜘蛛をめぐる数々の連想が頭の中を飛び跳ねた。
ぉぉ、そうであった。こういう時こそフラッシュ、フォーカス、フライデーっちゅうやっちゃ、こういう千載一遇のチャンスはカメラに収めねばなりませんな。さいわい、自分の身の回りには1尺ほどの空間があったので、例によってガラホ搭載のピンホール写真機で蜘蛛の御影の激写を試みた。
で、シャッターボタンを押す、と、蜘蛛が糸をはいて、すーーーーっと延びる。
あらま(っちゃんでべその宙返り、って無駄口が昭和のころありましたね)……
敵さん、吊革からぶるさがった蜘蛛の糸の先に、びよーーーーーーん、と涼しい顔(たぶん)でぶらさがっている。
様子を見ていると、そのまましばしぶら下がっているので、撮影するのをあきらめて携帯を半分に折る。
ふと気づくと、敵はまた吊革に戻っている、こりゃめずらしい、と思うからも一度撮影しようとレンズを向ける、シャッターを切ろうとすると、再びびよーーーーんと、空中にダイブする。
そんなことを吉祥寺から高円寺あたりまで、通勤電車の中で繰り返していた。
くーちゃんは、無邪気に(たぶん)何度か空中ダイブに興じていたが、そろそろ中野である。
この後人が増えてきたらどうなってしまうのだろう、と案じていたところ、糸を伸ばしてするするっと、吊革の下にあったチェック柄のシャツを着た若者の襟首に入ってしまった。
あっ!!
息を呑み込んだ私は、お兄さんに、襟首に蜘蛛が…蜘蛛が入りましたよ、と告げるべきか、いやまー、どうするべきか、15秒ほど悩んだ。
ほかに気がついてくれた人はいないのだろうか、と車内を何気ない風を装って見回したが、本当に誰も気づいていないのである。みなタブレットをのぞき込んだり、目をつむったり、蜘蛛の去就にやきもきする物好きは一人たりとていないのだった。幽霊や妖怪や悪党が、一瞬正体を現して、なのに誰も気づかなくって、でも本当に僕は見たんだよっ!!と叫んで孤軍奮闘するホームアローンの坊やの孤独感が、世紀を超えて私にも訪れた。
危うし、お兄さんは何も気づくことなく、静かに背を向けて通勤の混雑をやり過ごしている。
お兄さんはエーリアンならぬ蜘蛛の精の餌食にされてしまうのか、いや、だんだん混んでくる人の背に押されて、哀れくーちゃんは生きたまま煎餅のようにのされてしまうのか………
中野駅に着いたドアからたくさんの乗客が乗り込んでくるに及び、お兄さんに危機を告げるその機会と勇気と親切心を失って、私は車両中ほどに歩を進めた。
そのあと、新宿駅に着くまで柄シャツの後ろから様子を眺めていたが、お兄さんは何も気づくことなく、新宿駅のホームの雑踏、人波に紛れて消えたので、蜘蛛の行方は杳として知れない。
かのちちうはつり革に ひとすじの糸を残して 失せにけり。
今さっき目の前に繰り広げられた光芒が夢ではなかった証拠に、主を失った蜘蛛の糸は、切れた先のほつれが撚れて、空調に揺らぎながら儚げにスーッと糸を引いていたが、数駅が過ぎるとそれも消えていた。