歌舞伎で、妙齢のお嬢さんや、力なさげな色男が、花道の七三あたりで、よろよろっと、何かにつまづいて転びそうになるのを「おこつく」という。
これは、登場人物が、分かり易くステロタイプ化されている歌舞伎において、そのキャラクターが弱々しく可憐なさま…あぁ~、守ってあげたい!と観客の母性本能や父性本能やらをくすぐる…を如実に表現している、しぐさのひとつであるらしい。
馬鹿のことを「痴、烏滸(おこ)」というので、ちょっと愚かしく情けなく見えるさまのことからいうのだろう、と、何となくずっと思っていたが、こうして文章化するために改めて調べてみたら、所作の「おこつく」は「勢いづく」という意味のほうからきているらしい。
旧かな遣いで書くと、バカの「おこ」は「をこ」になるので、別な言葉なのだ。思い込みで文章を書く、ということが如何に危険か、改めて感じた。
人間、何かにつまづく、ということはよくある。実際に転ぶのも、比喩的に転ぶのも。
私など、空の青いのを見ては嬉しくなり、空気の清々しいところへ四季折々の走りの匂いを嗅ぎつけては喜んで、足もとも見ずに駈け出していくような、かといってそれに相応する運動神経がなかったので、不注意の極みのような傷だらけの人生だったから、小学校に上がる前から、両膝に一寸ほどの、一文字の切り傷がついていた。
もう、総身に無数の傷持つ、切られお富のような渡世なのだった。
十年ほど前になる。
あることから当時、ちょっとへこんでいた私に、知人が、一冊の本をプレゼントしてくれた。それは、人間の動作や出来事をキーワードにして引く、詩や俳句・短歌を寄せ集めた詩の事典とでもいうような、面白い本だった。
そのなかに、山川登美子の、「矢のごとく地獄に落つる躓きの石とも知らず拾ひ見しかな」という和歌が入っていた。
ちょっと…というか、かなり、私はドキンとした。
そのときへこんでいた原因が、まさにそんな感じだったからだ。
山川登美子のこの歌は、詳しくは知らないのだけれど、直観で独断で解釈すると、たぶんこの「躓きの石」は与謝野晶子のことだ。たしか、山川登美子が恋心を寄せていた与謝野鉄幹に、晶子を紹介したのだ。山川登美子は後年、自分の恋敵となるとは夢にも思わず、面白いキャラクターの子だナァ…ぐらいに思って、鉄幹に晶子を紹介したのだろう。
恋じゃない。私の場合はまさしく仕事で、そんな思いをした。
……三十一文字では簡潔に説明できない。
ある知人に、仕事にあぶれてかわいそうな子がいるから面倒見てやってョ、と頼まれたのだ。なにも出来なかった彼女に、私はイロハのイから、とある仕事のやり方を教えた。
映画「イヴの総て」とはちょっと状況が違う。要するに、私があまりにも人がよかった、ということだ。
つい三月ほど前、バッタリ、本当に十年ぶりで、しかも奇遇としかいいようのない街角で、かつての私の「躓きの石」に会った。彼女はそんな曰くはまるでなかったように、無邪気だった。
そして意外なことに、本当に自分でも思いがけないほど、私は直面したかつての躓きの石に対して、怨嗟を露ほども感じないのだった。あの十年前の詩の事典で感じていた、ドキリとする心の臓を貫く、鈍い痛みも。
彼女はいまでも、その仕事を続けているという。その幸せそうな快活な姿に、逆に嬉しくなった。
「躓きの石」が立派になっていなくちゃ、私がいっとき、つまずいた意味がなくなろうというものだ。
…こんな気弱なことを想い出したのは、私が「熱」という躓きの石に、久しぶりに見舞われたせいかもしれない。おとついからにわかに発熱。喉が腫れて声が出ない。稽古をすべて断った。
みなさんもどうかお体を大切に。人間体力が消耗すると、気力も萎える。
弱気になるとロクな考えが浮かばない。養生あるのみ。
これは、登場人物が、分かり易くステロタイプ化されている歌舞伎において、そのキャラクターが弱々しく可憐なさま…あぁ~、守ってあげたい!と観客の母性本能や父性本能やらをくすぐる…を如実に表現している、しぐさのひとつであるらしい。
馬鹿のことを「痴、烏滸(おこ)」というので、ちょっと愚かしく情けなく見えるさまのことからいうのだろう、と、何となくずっと思っていたが、こうして文章化するために改めて調べてみたら、所作の「おこつく」は「勢いづく」という意味のほうからきているらしい。
旧かな遣いで書くと、バカの「おこ」は「をこ」になるので、別な言葉なのだ。思い込みで文章を書く、ということが如何に危険か、改めて感じた。
人間、何かにつまづく、ということはよくある。実際に転ぶのも、比喩的に転ぶのも。
私など、空の青いのを見ては嬉しくなり、空気の清々しいところへ四季折々の走りの匂いを嗅ぎつけては喜んで、足もとも見ずに駈け出していくような、かといってそれに相応する運動神経がなかったので、不注意の極みのような傷だらけの人生だったから、小学校に上がる前から、両膝に一寸ほどの、一文字の切り傷がついていた。
もう、総身に無数の傷持つ、切られお富のような渡世なのだった。
十年ほど前になる。
あることから当時、ちょっとへこんでいた私に、知人が、一冊の本をプレゼントしてくれた。それは、人間の動作や出来事をキーワードにして引く、詩や俳句・短歌を寄せ集めた詩の事典とでもいうような、面白い本だった。
そのなかに、山川登美子の、「矢のごとく地獄に落つる躓きの石とも知らず拾ひ見しかな」という和歌が入っていた。
ちょっと…というか、かなり、私はドキンとした。
そのときへこんでいた原因が、まさにそんな感じだったからだ。
山川登美子のこの歌は、詳しくは知らないのだけれど、直観で独断で解釈すると、たぶんこの「躓きの石」は与謝野晶子のことだ。たしか、山川登美子が恋心を寄せていた与謝野鉄幹に、晶子を紹介したのだ。山川登美子は後年、自分の恋敵となるとは夢にも思わず、面白いキャラクターの子だナァ…ぐらいに思って、鉄幹に晶子を紹介したのだろう。
恋じゃない。私の場合はまさしく仕事で、そんな思いをした。
……三十一文字では簡潔に説明できない。
ある知人に、仕事にあぶれてかわいそうな子がいるから面倒見てやってョ、と頼まれたのだ。なにも出来なかった彼女に、私はイロハのイから、とある仕事のやり方を教えた。
映画「イヴの総て」とはちょっと状況が違う。要するに、私があまりにも人がよかった、ということだ。
つい三月ほど前、バッタリ、本当に十年ぶりで、しかも奇遇としかいいようのない街角で、かつての私の「躓きの石」に会った。彼女はそんな曰くはまるでなかったように、無邪気だった。
そして意外なことに、本当に自分でも思いがけないほど、私は直面したかつての躓きの石に対して、怨嗟を露ほども感じないのだった。あの十年前の詩の事典で感じていた、ドキリとする心の臓を貫く、鈍い痛みも。
彼女はいまでも、その仕事を続けているという。その幸せそうな快活な姿に、逆に嬉しくなった。
「躓きの石」が立派になっていなくちゃ、私がいっとき、つまずいた意味がなくなろうというものだ。
…こんな気弱なことを想い出したのは、私が「熱」という躓きの石に、久しぶりに見舞われたせいかもしれない。おとついからにわかに発熱。喉が腫れて声が出ない。稽古をすべて断った。
みなさんもどうかお体を大切に。人間体力が消耗すると、気力も萎える。
弱気になるとロクな考えが浮かばない。養生あるのみ。