長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

お膝送り願います。

2010年06月28日 21時30分05秒 | 落語だった
 かつて、景気のよかった時分の、就業人口が極度に高かった朝夕の電車のラッシュは、こんなものじゃなかった。
 でも、今、電車に乗ると、そんなに乗客が多いわけでもないのに、やたらと乗りづらいのだ。
 そんなとき思う。「つめなきゃ」。もうちょっと詰めてもらえませんかねぇ…。

 公共の場所で、自分の家のリビングにいるように、気ままにふるまわれても困る。まあ、そう思っても、自分自身、憎まれっ子になる腹も据わってないから、いじわるばあさんのように叱りつけることができるわけぢゃなし、あぁ、この人は自分の家に居場所がないから、こんな電車の中なんかで存在感をことさら示しているわけね…と憐れんでみる。
 そう思って溜飲を下げようとしている自分も忌々しい。

 昭和の50年代後半のこと。まだまだ沿線に田園が多く、田舎の電車といった風情があった井の頭線に、平日の昼下がりに乗った。ガラガラの車両の中に入ったら、ドア付近のイスに、若者が長い脚を組んで投げ出して座っていた。
 しばらくして、その若者の座るすぐわきのドアから老紳士が入ってきた。退役軍人のように背筋のピィンとした、鷲鼻のキリッとした、矍鑠としたその紳士は、無言で、持っていたステッキで、ポーンと、その若者の脚を叩いた。
 若者は自分の所業に恥じたように、ササッと居住まいを正して、椅子に座り直した。

 ひゃあぁぁ~~その鮮やかな老紳士の動作に、私は惚れ惚れした。今なら、なんだその暴力行為は!と問題になるかもしれないが、チョーかっこよかったのだ。
 威厳があるとはこういうことなのね。刑事コロンボに出てくる超タカ派のUS海軍のキャプテンみたいだった。あきらかに、戦争を知っている、いや、戦ってきた年代だったんだろう。

 あれから三十年近くが過ぎて、そういう大久保彦左衛門のような、いかにもうるさ型のご老体というキャラクターは、めっきり見かけなくなった。虚構世界のドラマの中でさえも、みんなやたらと物分かりがいい。
 …それにつけても、街なかに多少の規律があってもいいんじゃないかと思う。のんべんだらりとペタペタ天下の大道を歩いてて、なんだか腑抜けたことはなはだしい。もうちょっとしゃっきりしたほうがいいンじゃなかろか。

 平和なのはもちろんいいことだけれど、警戒心がなさすぎる。危険なことが起きると何でも他人のせいにして、少しは自分の不注意さ加減に恥じ入ったほうがよいのじゃあ…ござんせんか。
 平和ボケしている世の中を揶揄して、天敵がやってきて、毎日何人かずつ人が食べられちゃう話って、1970年代に星新一だったか、筒井康隆が新聞のコラムに書いていたけれど。
 こりゃー、韓国の兵役みたいに、軍隊でみっちり仕込んだほうがいいよ…とまでは言わないけれど、この野放図な、限りなく、ぐにゃぐにゃした背骨と気骨、どうにかならないのか。
 まったく、人間って、振り子みたいに、極端から極端に走っちゃうものらしい。
 中庸を実践することの、いかに難しいことだろう…。

 ところで、昔の劇場や寄席は椅子席ではなく桟敷だったので、込み合ってくると観客にそう言って、詰めてもらったそうである。
 昭和の終わり頃、私がよく通っていた桟敷席の寄席は、建て替える前の池袋演芸場と、上野広小路の本牧亭だった。
 しかし、あいにくとその頃の寄席は、バブル前夜に突入していく世間に忘れ去られた、アンダーグラウンドな空間だったので、えらく空いており、そう言われたことは一度もなかった。
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詰めなきゃ!

2010年06月27日 13時50分51秒 | お稽古
 ……シュート!
 しかし敵もさる者、ゴールキーパーのブロックに阻まれ、あえなくボールはペナルティエリアをころころ転がっていく…二の矢を放て! …しかし、あぁ、ボールの周りは、ディフェンダーばかりで、寄せ手の選手はシュートした本人しかいない。
 そんなとき思う。「詰めなきゃ!」

 ゴール前で猟犬のようにウロウロして、千載一遇のチャンスを逃さず、こぼれたボールを見事に決め込む選手がいる。こんなとき、イタリアはミランのピッポ・インザギくんなら、すかさずモノにしていただろうになぁ…。
 一発で決められない、いざという時のために、援護射撃をする選手が常に控えていなくちゃ。
 単騎じゃ攻めは続きませんョ。

 …こう思えるのは傍目八目、遠隔地から俯瞰しているからである。まったく、当事者じゃないものは何だって無責任に言うものだから、かまびすしいことこの上ない。

 ある日のお稽古。
 勘所が決まらずに、どうもイマイチな音色になっているお弟子さんに。
 「詰めなきゃ」。
 …いえいえ、指を詰めて落とし前つけろ、と言っているわけじゃありません。指の間隔を詰めなさい、と言っているのですョ。さらに、音に対する感覚もつめること。

 息をつめて演奏する。…わが師の教えである。
 音色はデリケートなもので、ほんのちょっとした違いで極上のメロディが生み出せるか、無神経な音の連なりになるのかが決まる。

 将棋もそうなのでしょうね…。
 なんでも「詰め」、これが重要ですなあ。
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チョコプラな日々

2010年06月25日 12時10分01秒 | フリーク隠居
 お笑いは、わが心の糧である。
 去年ぐらいからか、CX系番組レッドカーペットに登場するようになった漫才…というかコントのコンビ、チョコレートプラネット。
 藤山寛美を彷彿とさせる、松竹新喜劇的ほのぼのとした不可思議な空気感を持っていて、出てくると嬉しい。私の場合、映画なのだが、昭和に大井武蔵野館で観た寛美ちゃんの『親ばか子ばか』とか、面白かったなあ。
 そのチョコプラの、「なんでやねん!」の声色が真似られるようになった私は、日々、「なんでやねん」な出来事があってもなくても、「なんでやねん!」を連発するようになっていた。

 「なんでやねん……!!」イタリアが負けたのである。
 今回のワールドカップに乗り遅れていた私は、一試合も観ていなかったのだが、数日前、虫の知らせとでもいうのか、偶然つけたТVでイタリア戦が始まり、そのままずるずると、引き分けたニュージーランド戦を観てしまった。
 偶然つけたラジオやテレビで、気になっていた出来事や音楽に、思いもかけずバッタリ行き合ってしまうことがよくある。人間にもきっと、自分の好むものを意図せずしてキャッチする、指向性アンテナ、のようなもの…がついているに違いない。

 懐かしいリッピ監督。かつてスカパーと、サッカー・キングダム・セットを視聴契約していたカルチョ三昧の遠い夏の日々を思い出した私は、そのころの贔屓のユヴェントスが調子の悪いときに一点も取れない、あのジリジリとした、胃の痛くなるような試合展開を、再び目の当たりにした。

 日本のリーグ戦突破に沸く国内のほんわかした歓喜ムードで、逆に私は安心して、イタリアを悼むことができる。
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忌地(いやち)

2010年06月25日 09時30分50秒 | 凝り性の筋
 先日、所用で琵琶湖西岸北部へ赴き、そういえば…と思い出して、海津の浦を訪ねた。義経一行が、奥州落ちの旅路のはじまりに、月の都(京)を発ち出でて、舟で渡りついたところである。「竹生嶋」という地酒を商っている蔵元のご主人が、「義経の隠れ岩」がある、と教えて下さった。
 おぉ、近江の地にも義経の隠れ岩があったのか。以前、屋島を訪れたとき同名の岩が海岸にあった。いや、あれは「義経の舟隠し岩」だったかしら…。とにかく、義経はよく隠れる人なのだ。あんなに活躍したのに、可哀想に。…もっとも、屋島のときは戦略上のことで、溌剌として隠れていたのであろうから、状況がずいぶん違うけれども。イタリアも負けちゃうし、栄枯盛衰は世のならい、ってことなんでしょうかね。 
 その酒屋さんには「ヨキトギ」というお酒もあった。ご主人が「よき」は上代語で「斧のことです」とご説明くださったので、おお、よきこときくですね、と言ったら、「犬神家の一族ですか」と切り返された。さすが湖西の旧街道沿いで蔵元をやっていらっしゃるだけあって、歴史に造詣の深い、お話の面白いご主人なのだった。
 蛇足になるが、斧琴菊の本来は、歌舞伎の尾上菊五郎のキャラクター文様である。

 浅井三姉妹の次女・初が嫁した京極高次も居城としていた大溝城へ至る道が分からず、どうにかこうにかそぼ降る雨の中を辿りつき、途上の地名のいちいちに戦国武将でおなじみの土豪の氏を見出しては感動しつつ、朽木渓谷を越えてゆけば、北近江に隣接する町々一帯のところどころに、すでに来年の大河ドラマのヒロイン・お江の関連商品が置かれていた。
 高島市の菖蒲園へ行ってみたところ、花菖蒲を株分けして売っていた。旅先で植木や花の美しいのを見ると、つい欲しくなってしまう。後先のことがあるのでいつも諦めていたのだが、珍しく買ってみることにした。
 園内をざっと観たところ、三笠山という肥後系の花菖蒲の濃き紫が実に美しいので、求めると、この売り場に置いてあるのは咲いてみないと分からない、すみませんね…という、鄙らしい長閑な話だった。開けてみないと分からないとは、博打みたいなもんですね、こりゃ。酔狂だからのってみるか、と、葉っぱの威勢よく四方に思い切りよく伸びている株を選んだ。

 さて、近江の菖蒲を江戸に移して数日。若緑の花芽は徐々に花弁を顕かにして、蕾の端から顔を覗かせていたのは紫色だったが、花開いてみると、二藍(ふたあい)とでもいおうか、薄い紫のような、浅黄色というか、裏はまさに花色木綿。薄い花色、水色なのだった。
 お手本のような紫色を期待していた私にとっては意表を衝かれたことだったが、これはこれで清々しく、美しい。梅雨空に時々のぞく、雲の晴れ間の淡い空色みたいで、いいじゃないの。わがものと思えば軽し笠の雪、ってなもんですョ。
 そしてまた、なんとまぁ間のよいことに、次の日曜日の朝、偶然テレビをつけたところが、NHK「趣味の園芸」で花菖蒲特集をやっている。これぞまさしく渡りに舟。
 明治神宮の菖蒲苑から、花菖蒲の種類、育て方から管理の仕方まで、懇切丁寧にレクチャーしてくださり、私は園芸科一年生の真剣な面持ちで、放送に見入った。
 明治神宮で栽培されていた三笠山は、濃い紫ではなく薄紫だったのも、新発見。近江の地と江戸の地で、当然土壌の性質が違うから、色の出方も違うのかなぁ…。

 それにしても六日のアヤメ、とはよく言ったもので、きれいに咲いたなぁ…と嬉しく見とれていると、咲いた翌日ぐらいまではもっているのだが、三日目には花弁の先が丸まって、すぐにしぼんでしまう。…三日天下??
 しかし、驚いたことに、菖蒲は一茎に一輪限りではないのだった。その花のすぐ下脇に、もう一つ花芽が、蕾というより、花芽と呼びたいような、茗荷の花苞の様な形をしている花芽があるのだった。…柏の葉のようだな、と思った。新しい葉が出てから古い葉が落ちる柏は、そんなわけで、家代々累代栄えるめでたい植物として好まれる。
 同様に、菖蒲の花は、ひとつが萎れても、お次が控えているのだ。これはまた、武家っぽい話ではないか。

 こうして日々仔細に菖蒲を観ていたら、「武士道残酷物語」を想い出した。南條範夫の残酷ものが流行って、次々と映画化、舞台化されたのは昭和の三十年代だろうと思う。私は昭和六十年ごろから、自分が生まれる以前に制作された日本映画黄金期の作品群の魅力にすっかり取りつかれて、むさぼるように観、原作本を読んだりしていた。
 南條範夫原作の『第三の影武者』は市川雷蔵が主演なのだが、影武者が、武将本人が負傷するにつれ同様に身体を損傷させられていくという身の毛もよだつストーリー性に驚愕して、通常のカリスマ的雷ちゃんキャラは影をひそめ、市川雷蔵を観た、という印象よりも、南條範夫の残酷もの映画、なのだった。
 歌舞伎では『燈台鬼』というのがあり、私が平成ひとケタ時代に歌舞伎座で観たのは、先代松緑の追善興行で、当時二代目辰之助だった当代松緑が演じた。彼の地で行方知れずになってしまった遣唐使のお父さんを探す主人公。奴隷として売られた父は、生きながらにして宮廷を彩る人間燭台にされていた。
 …人間の尊厳、という根本的な命題を突きつけられ、観客はただただ打ちのめされる話なのである。このとき、紀尾井町親子の逆縁に思いを致し、物語を梨園の孤児的立場になっていた新旧二代の辰之助の身に置き換えて、観客はさらに泣いた。

 この芝居を観たとき、久生十蘭の全集の中にあった、世界残酷物語ともいうべき一連の作品群を想い出した。読む者は衝撃の滂沱の涙で、文字の後先が見えない。…もう目が見えぬ…という、太功記十段目、瀕死の十次郎的状況だ。
 そんな物語が流行ったのが昭和の三十年代で、たぶん、戦争が終わって十年以上経って、そのときのことを思い起こす気持ちのゆとりが多少、高度成長期を迎えようとする日本に訪れたのだろう。戦争中の、自分の存在を脅かす慄然とする衝撃を、虚構の世界のものとして体験する。現在の現実ではなく、過去のものとして安堵しながら、映画館の暗闇の中で反芻してみる。

 ところで、菖蒲の咲き誇る姿を観るにつけ、この剣のような鋭角的な性質は、やはり関東のものが好んだような気がする。杜若…琳派のカキツバタは、なんとなく京風で姿が優しい。丸みを帯びた曲線で図案化されている。色も高貴な紫一色。三河は池鯉鮒の八橋とともに描かれている風雅の極みとでもいうべきあの植物も、カキツバタだ。尾形光琳の燕子花図屏風もあった。
 …燕子花。たしかに、燕のヒナの、親鳥が餌を銜えて戻ってきたとき、巣の中で大きく嘴を開けて、まだ羽根の生えない上肢を折り曲げてピヨピヨ叫んでいる姿に、花の形がそっくりだ。…こういうと、ちょっと世話場な感じもしますけれどもね。

 それから、思わずメモしてしまったのだが、趣味の園芸の先生のおっしゃっていたことには、菖蒲には忌地性という性質があり、ずっと同じ地べたで育てているとうまく育たなくなってしまうらしい。へえぇぇぇ…。だから、何年かしたら、新しい土に入れ替えるとか、近くてもいいからちょっと違う場所に植え替える必要があるそうだ。
 …ううむ、これもなんだか武将っぽい。替え地をさせられたり、新しい領国を求めたり。スーッと伸びた茎と葉といい、わずか一両日咲いてしおれる花質といい、潔すぎる。
 菖蒲=尚武=勝負、という単純な図式だけではない、武運長久を祈念するに、菖蒲が好まれる理由が、その性質にもあるように思う。

 花菖蒲に、ある意味、明治以降につくられた幻影ともいうべき、武士道のお手本のような中世期の武将の姿を見た。…そして、引っ越し魔ともいうべき、葛飾北斎のようなその気風に、江戸っ子ウケする気概も感じた。
 上方はカキツバタ好みで、菖蒲は江戸好み。古今集の歌で「五月のあやめ草」と、ことさらにことわっているからには、これはやはり旧暦四月に咲くアヤメ・カキツバタのことではなく花菖蒲のことなのだろう、と、ひともとのあやめ草から想いはさらに株分かれしていくのだった。

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菖蒲浴衣(あやめゆかた)

2010年06月16日 01時18分18秒 | お稽古
 今日は待ちに待った五月五日、端午の節句である。もちろんお稽古カレンダー時間で、陰暦でのことである。
 …それにつけても、やっぱり…!!日本の風土は月の暦だよね~~と思う。いくら異常気象だ、温暖化だ、気候分布の移行期だ、といわれても、みなさん! 身の周りに、花菖蒲の、すこやかにシュッと恰好よく伸びた、剣のような葉、まっすぐな茎の先に、これまた潔い形で咲いている藍紫の花を目にしませんか?
 端午の節句といったら菖蒲が付き物。それは昔も今も変わらない。太陰暦の五月になれば五月雨が降って梅雨入りして、濡れツバメが軒先を低く飛んで行ったりして、ふと眼を上げると樹影にぽっかりと白い、泰山木は夢見て咲いているし…ううむ、美しい。世界のすべてがソフトフォーカス。
 古歌にもいう「ほととぎす鳴くや五月(さつき)のあやめ草 あやめ(文目=分別、物の道理)も知らぬ恋もするかな」。
 こんなしめじめとした雨の季節だからこそ、想い込んじゃう恋が、熟成されちゃうわけだ。晴天の空にひときわ響くホトトギスの、あのあでやかな声は、曇天の暗い雲の垂れさがったところで聞いたら、ちょっとギョッとする。
 ♪ぞっとするほど想いの増して…というのは「屋敷娘」の歌詞だけれど、雨で増水して水嵩の増した川みたいに物凄い想い…そんな恋心で理性の堤防が決壊しそうなシーズンが、旧暦の五月なのだ。
 そんな鬼気迫り危機迫る季節だから、邪気を払う魔除けの意味もあって、菖蒲を軒下に飾ったり、湯に入れたりしたそうな。たしかに、今時分は、蒸すのに妙に寒かったり、ただでさえ体調を崩しそうな気候だ。

 菖蒲革という、ものすごく達者に、抽象的に、菖蒲をデザイン化した文様がある。菖蒲→尚武→勝負と、同音異義語の多い日本語は、二重三重の意味を含ませるのが面白い。…そんなこともあって、武将がこの小紋を好んで身につけた。
 十数年前に甲府へ旅行したとき、本場の甲州印伝の、菖蒲革の信玄袋を手に入れた。舞台用の小物入れに使おうと思ったのだ。その頃の私は、とにかく、舞台度胸をつけたかったのだった。演奏は真剣勝負だっ!と、あの頃の私は肩に力が入っていた。観ている側はさぞやつらかったでしょうね…。しゅみましぇんでした。

 さて、「あやめ浴衣」。これは長唄の名曲で、唄も、本手も替え手も、みんなが演りたがる。演奏会ともなると、名取はお揃いを着るのでまあ置いておいて、素人衆は、帯が作家ものの菖蒲の絵柄だったり、ツウっぽく凝ってる人は帯揚げが菖蒲の地紋だったりする。常の演奏会とはまた違い、必要以上に衣装にリキが入ってしまうのだ。
 本調子→二上り→三下りと、無理のない調子変わりで、それぞれの調子の特徴をよく表した、よくできた飽きの来ないメロディが続く。
 歌詞が、また、いい! この曲を習っただけで、安政年間の流行りものの着物や帯結びのスタイル、意匠など、江戸の服飾文化や染織技術に詳しくなってしまうという、魔法のような曲なのだ。それだけじゃぁない。「鬢(びん)のほつれを簪(かんざし)の…」とか「命と腕に堀切(惚れた相手の名前を二の腕に刺青した「彫り」物を入れた意味と、菖蒲の名所・堀切菖蒲園をかけてある)の…」とかグッとくる、イカす言葉の数々。…う~ん、粋でやんすねぇ。
 晋子(しんし)という宝井其角の別号を、わけもなく覚えられちゃったりする。
 しかつめらしく歴史資料とにらめっこしているよりも、楽しく面白く、江戸時代の豆知識を蓄えられるのである。先代金馬も、浅草の観音様の裏、北国のことを説明するのに「『吉原雀』という教科書に書いてございます」…なんて、言っていたし。

 ♪五月雨や 傘につけたる小人形 晋子が吟も目の当たり おのが替え名を市中の 四方(よも)の諸君へ売り拡む つたなき業(わざ)を身に重き……唄い出しのカッコいいことといったら…! 初演時に唄方が改名披露した、そのことも歌詞に盛り込まれている。
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口三味線と調子合わせ

2010年06月11日 07時51分00秒 | お稽古
 6月6日付の記事を書き直したら、流れで口三味線に話が至ってしまった。
 それで思い出したのだが、先日、独眼竜…いや違った、独学で三味線をやっていたのだが、我流でとうとう行き詰まってしまった、という方がいらして、基本からきっちりやり直したい、ということなのだった。その方は、手ほどきはちゃんと教わったのだが、お師匠さんがご高齢になって、教えてもらえなくなってしまったらしい。
 それで、調子を合わせるのに、ドッピンカンと合わせなさい、と教わったそうで、「よくわからないんですけどね…」と、困ったような顔で言った。
 いやいや、しかし、これは言い得て妙というか、たしかに、そんな感じに合わせると言えばそうなのだ。これは本職さんのセンスというか、職人の本能のようなものに基づく表現で、長嶋茂雄カントクの「スッと来たのをバァッと行ってガーンと打つ」という名言に相通ずるものがあると思った。
 これはプロゴルファー猿の「チャーシューメーン」、NHK朝のテレビ小説の「雲のじゅうたん」の浅茅陽子が、お辞儀の仕方を仕込まれていた「チントンシャン」などなどにもみられるものである(類例を、記憶のみで列挙しているので、違う物語のだったら、ごめんなさい)。

 物事の真髄を、何も知らない人に言葉で伝えるということは難しい。マニュアル化すると、文化…というか、技術は低下する。優れているものというのは、微妙なニュアンスが大切で、ほんのちょっとしたことで全然違うのだ。これは芸事のみならず、お料理にも、すべての人間社会の生活や仕事全般にいえることだと思う。
 すべての人に分かり易く、やり易い方法に汎用化すると、伝えづらく、体得しにくいトップレベルの技術は、置き去りにせざるを得ない。

 それで想い出したのは、ごく最近体験した、こんな話である。
 差し障りがあるといけないので、具体的な固有名詞は出さないが、知人が演奏会で、ある現代邦楽の名曲をかけた。昭和の現代邦楽の第一人者の作品で、三味線一棹と尺八一管で演奏する、深山幽谷の水面に月影が映っている…というような曲想の名曲である。洋物でいえばドビュッシーの「月の光」かなぁ…いやいや、あんなにロマンチックではなくて、もっと禅的精神にあふれた毅然とした曲ではある。波に反映する光を表すような、揺らぎの表現がすばらしい。
 演奏後、知人が、前回同じ曲をかけたときは、○×流の尺八の方にやっていただいたのだが、今回は×△流の先生にやっていただいたけれど、この曲は○×流の方にやっていただいたほうがいいような気がする、と語った。
 その曲を、知人とはまた別の、三味線の種類が違う異なる演者で聴いたときのことを思い浮かべた私は、たしかに、同じ曲でもだいぶ印象が違う…と感じた。間合いとか抑揚とか、そういったものの違いかなぁ…と考えてみたが、まだ手掛けたことのない作品だったので、実感がつかめない。どうもそれだけじゃないように思ったので、わが家元・杵屋徳衛に伺ってみた。
 家元のおっしゃるには、×△流は、西洋式に譜面も整理されていて、音程もきちんとしているのだけれども、それだったら別にフルートで演奏しても構わないんじゃないか、ことさら尺八で演奏する必要性がまったく感じられない、というような演奏になってしまうところがある、ただし、そういうわけで教え方がマニュアル化されているので、圧倒的に×△流のほうをやっている人数が多いのであるけれども…、ということだった。

 …邦楽の面白さと難しさを、実に的確に表している事例だと思う。
 ところで、蛇足になるが、誤解があるといけないので補足する。くだんの独眼竜さんのおしさんが伝えたかったドッピンカンは擬音である。それはおっしゃったおしさんご本人もそう意図して表現なさったことである。三味線の調子合わせは、唄う人の声の高低で基音となる一の糸の高さをきめるので、必ず何の音、ということではないのだ。三筋の糸の音程の関係性は決まっているのであるが。

 口三味線はそれとはまた別の話で、演奏するにあたり、音の呼称を糸ごとに押える音色で区別したものである。
 独眼竜さんをたびたび例にたとえて恐縮だが、ちょうど口三味線を説明しやすいエピソードがある。自分は同じ音を弾いているから間違っていないつもりなのに、おしさんから、「違うわョッ」と指摘された部分の手があるという。
 それは、おしさんが正しい。
 つまり、こういうことだ。たとえば同じ高さの音でも、三の糸の開放絃テンと、二の糸を押えて出した音ツンとは、明るい感じの開放絃と、くぐもった感じの指で押えた音と、音質が違う。糸の太さも違うから当然音色が変わる。だから違う音なのだ。
 
 ちなみに、よくいわれる「チントンシャン」は口三味線である。
 チンは三の糸を押えたときの口三味線。トンは前記したように二の開放絃。シャンは二と三の糸を二本一緒に弾いたとき。…ね、すぐに弾けたでしょう?
 一つの道に精進を重ねた本職さんの、直感に基づく言葉というのは、端的に真実を伝えていることがある。千に一つも無駄がないのだ。


追記:ある現代邦楽の名曲とは、杵屋正邦先生の「明鏡」です。

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神酒所/猿の巻

2010年06月06日 01時40分00秒 | 落語だった
 「山王の桜に三猿三下り 合いの手と手と 手手と手と手と」
 東京かわら版という、たぶん、日本国内で唯一の演芸専門情報誌があって、ひところの私は、この月刊誌がなくては夜も日も明けぬ寄席通いをしていた。
 お正月号には恒例の新年懸賞クイズがあって、10問だか20問だったか、落語や講談、芸人関連のクイズが出る。成績優秀者には寄席の招待券やら、うれしいプレゼントがあるのだが、昭和の終わりごろのある年、私は自分でも予期せぬことに2位になって、先代正楽師匠の紙切りの「藤娘」の色紙をいただいた。
 そのとき、分からなかった問題がこの、「山王の桜に××三下り…」の伏せ字部分に言葉を埋める問いだった。しょっちゅう耳にする句だったのだが、何だったか思い出せない。いろいろと心あての速記本を探してみたが、あいにく見当たらなかった。改めてテープを聴き探る時間もなく、後日、先代金馬のテープか何かで気付き、雑俳だった~~~っと頭を抱えたのだった。悔しかったので、今でも覚えている。
 それからしばらくして、NHKで、正楽師匠原作の『晴れのちカミナリ』が、まだ初々しかった渡辺謙と黒木瞳共演でドラマ化された。あまりTVドラマを観ない私には珍しく、毎週ビデオに録って、まるで自分ごとのように、二人の恋心の行方を案じていたのだった。その直後だったか、売り出し中の渡辺謙が発病したと聞き、たいそう吃驚した。

 先週から、内堀郭内界隈の街角のいたるところに、山王祭の神酒所ができている。各町内、神輿や山車を辻々に飾り、いつだったかの年は、祭囃子が麹町や番町のビジネス街にも流れて、なにやら心が浮き立った。
 もう十年以上前、外出先でお昼を食べ損ねた私は、未の下刻になって、京橋の大通りに面したビルの二階にあった、老舗のフルーツパーラーで、サンドウィッチを食べていた。そのころは今のように夕方までランチをやっている店もなく、時間がずれるとデパートの食堂か、喫茶店で食べるしかなかったのだ。
 ふと、通りに目をやると、トラックに神輿のようなものが載っていて、祭囃子を流しながら、中央通りを走っている。神田祭は五月だし、今時分、何のお祭りだろう…??と不思議に思い、お店のお兄さんに伺ったら、「山王さまのご祭礼なンですけどね、このあたりの氏子は不精だから、あぁやってトラックに神輿を載せて、町内をぐるぐる回ってるンですよ」と、ちょっと照れくさそうに教えてくれた。
 へえぇぇ~~~。トラックに載せて神輿渡御してても、町内の祀りごとを忘れずに執り行っている、今どき、それだけでもエライってもんですョ。
 それよりも、私が驚いたのは、神田にごく近い、京橋のこの辺りも、日枝神社の氏子だったということだ。あとで調べてみたら、銀座、京橋、日本橋の一部も山王権現の氏子だった。すごいなぁ。さすがに将軍家鎮守だっただけのことはある。

 ♪猿は山王、まさる目出度き…長唄に「外記猿」という面白い曲がある。外記節の「猿」という意味合いで作曲されたのを、キムタク、ブラピのように略して通称となっている。
 この曲の前弾き(曲冒頭の唄に入る前の三味線だけの演奏部分。俗にいうイントロのようなもの)は、「辻打ち」という、太鼓が入る賑やかなメロディで、寄席の出囃子でもよく使われている。見世物小屋で使われていたメロディを、猿回しの登場するイメージに当てはめたそうだ。飄逸で愉快で、♪トテテントテテン…という弾き出しが、心浮き立つ。

 先日、久しぶりに入った池袋演芸場で、外記猿の出囃子が流れた。そして、中入りののち、再び外記猿が流れた。不思議に思っていると、同じ噺家さんが上がった。そこで、何の気なしに入ってしまったのだが、若手の勉強会だったことに気がついた。
 二つ目の噺家二人が自主公演をしていたらしい。…しかし、いくら出囃子とはいえ、昔の落語会は、同じ出囃子を二回続けて使うことはなかったように思う。独演会ではなおさらで、そんな味気ない体験をしたことはなかった。
 番組構成的にも、曲がないではないか。たしか、トレードマークの出囃子とは別に、上がりの順番とかによっても使う出囃子があるはずだし、二つ目さん用に使う出囃子もあったはずなので、別の意味で、曲がない、というわけでもないだろう。二人が交互に出るのでやむなし…なのか、繰り返しの笑いをとる実験をしているのか…笑える時もあるけれど、あいにくその時は笑えなかった。

 冒頭に挙げた句「山王の…」の、テテトテトテト…は太鼓の音とも、口三味線とも取れて、リズミカルで面白い言葉遊びになっている。口三味線でいえば、テンは三の糸の開放絃で、トンは二の糸の開放絃だから、「三三二三二三二…」。
 一方「外記猿」の前弾きはトテテントテテン…ですから、「二三三、二三三…」。
 さあ、これであなたも、外記猿の出囃子が弾ける……かも。
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是非に及ばず

2010年06月02日 23時50分00秒 | キラめく言葉
 天正十年六月二日、そう言って、織田信長が本能寺で自害した。
 バブル期前後ぐらいから、信長の革新的で独創的な天才的政治手腕が再評価されて、今では日本史上で一、二を争う人気キャラクターになっているそうなのだが、歌舞伎の世界では信長をヒーローにした作品はない。
 大坂でできた人形浄瑠璃のネタはどうしたって、豊太閤が一番カッコいいキャラクターになってるのだし、江戸では徳川家に遠慮したこともあり、時事ネタでも古代から中世の間へ、時代を移したお話になっている。

 明智光秀を主役に据えた「時今也桔梗旗揚(ときはいまききょうのはたあげ)」。俗にいう「馬盥」の光秀。うちの女紋は桔梗なので、何となく他人とは思えないところがあったりもする。
 当代の團蔵さんが、襲名の時に演じたことがあった。平成になってからは、松嶋屋がかけてたこともあった。松嶋屋の面長の顔に、額の傷がよく映えるのだ。
 信長は小田春永という役名の敵役で、ものすごく異常性格者的に光秀をいじめる。
 歌舞伎の敵役って、悪過ぎてカッコいいキャラクターが多いのだが、この芝居では、いじめられる光秀くんのほうがやたらとカッコイイ。眉間を鉄扇で割られて、旗本退屈男みたいになる。
 …いやいや、旗本退屈男が真似をしたのだから、これは逆ですね。この、男の生き面にキズ持つキャラクターのオリジナルは、たぶん、「先代萩」の仁木弾正だと思うけれど。

 それから428年後の今月今夜。旧暦のことだから、今の暦日に置き換えるのも変だけれど、平成22年の6月2日。永田町で政変が起きた。
 …いま再びの、是非に及ばず。
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黒門町

2010年06月01日 01時55分00秒 | 旧地名フェチ
 今を去ること二十年ほど前、平成3年前後のあるとき、私は例によって三ノ輪の辺りをウロウロしていた。都電を大塚から乗って、三ノ輪橋で降りた。
 三ノ輪というともっとシメシメした情緒のある下町だと思っていたのに、目の前にすごい道幅の五差路があって、私はちょっとたじろいだ。右に行けば吉原で投げ込み寺と言われている淨閑寺。まっすぐいけば、日光街道を北上することになる。
 はら~~~。これって、「将軍江戸を去る」のルートじゃないかしら…。そう思って、ちょっと私は泣きそうになった。大政奉還したあと、上野寛永寺にこもっていた最後の将軍・慶喜公が、江戸を離れ水戸へ去るときに通った、真山青果の芝居でものすごく泣ける、千住大橋へ続く道だ。

 平成ひとケタ時代、メリハリのある口跡で、新歌舞伎ものを得意にしていた今の中村梅玉が、徳川慶喜を演じていた。
 つい昨年、前進座が八十周年記念公演で、「江戸城総攻」と、松本清張の「無宿人別帳~左の腕」をかけた。客席はみな、世話物の「左の腕」で中村梅之助にしみじみとしていたが、私は一人、「将軍江戸を去る」で目を真っ赤にしていた。…もう、堪えきれずに、泣けたのだった。こういうテーマが胸に迫って泣き腫らしてるワタシって、もはや前々世紀の遺物なのか…。

 そうだ、ここら辺には、あのお師匠さんが住んでらしたな、と日光街道の車の往き来の激しいのを横目で見ながらふと思った。三ノ輪橋に当時、流派を超えた勉強会でご一緒していた、三味線方のお師匠さんの家がその辺りにあった。
 大正生まれの、丹下キヨ子を可愛くしたような感じのおしさんで、楽屋で三味線の支度を一緒にしていたら、そのおしさんの箱のいたるところから、やたらと糸が出てくる。北見マキみたいなおしさんやなーと自分の三味線を立てながら思っていたら、「あら、あたしったら、糸大尽だワ…」と無邪気におっしゃった。大正ロマン乙女そのままのおしさんだった。
 このおしさんも、二十一世紀の声を聞かぬうちに黄泉へ旅立たれた。

 何となくぼんやりと、その街道を北へ向かったら、左手に、なんだかずいぶん特徴のある堂塔が建っているお寺の前に来た。お釈迦様が九輪を背負われたような形で屹立している。何の気なしにお参りしょうと、寺内に入って驚いた。
 学校の校庭の柵のようなグリーンの金網で仕切られた向こうに、黒光りのする、立派な、しかし、やや朽ちたような門柱が見えた。近寄ってみると、立札の説明書きに、「上野の黒門」とあるではないか…!
 なんと、これが戊辰戦争で上野の山にこもった彰義隊が守っていた、黒門の本物だったのである。…まだ現存していたのだ。先ほどまで十五代将軍でしんみりしていた私は、あまりといえばあんまりの偶然に、ちょっと肌が粟立った。
 そう思って見てみれば、柱のいたるところに銃弾の痛々しい穴が空いている。
 時代のついたその、なんともいえぬ存在感に、なんだかうっかり門の中を覗いたら、頭を結綿にして前垂をかけた小娘が、ペタペタと草履をつっかけて走ってくるような気がして、私はそっとそばを離れた。
 裏門から西へ抜けるとまたお寺があり、その前庭の観音様の立像のわきに、黄金色の大きな夏蜜柑をたわわにつけた樹が、茂っていた。

 上野のお山の戦争は、慶応四年、もちろん旧暦の五月十五日。壊滅状態だった彰義隊戦死者の遺体は放置され、酸鼻を極めたという。弔うと官軍にとがめられたらしい。
 その年の四月は閏月で、今でいえば7月ぐらいの気候になっていた。あまりにもあんまりな状態だったのを圓通寺のご住職が不憫に思い、自分のお寺に葬ったのが縁で、いつからかこのお寺に、黒門が移築されたのだそうである。

 それからしばらくして、レプリカの黒門に会いに行った。まさか、まだ本物が残っていたとは思わなかったから、そんなにしみじみと上野の黒門を見たことがなかった。
 清水堂の下にある黒門ダッシュは、藪の中にぼうっと佇んでいた。やはりご本尊よりも影が薄く、銃痕もつけられてはいたが、薄いあばたのような痕でしかないのだった。
 …しかし、君には君の、役割がある。

 さて、黒門町といえば、落語好きには先代の桂文楽。
 テレビで時代劇を観て育った昭和の子どもには、伝七親分。小学校の友人と、よく「ヨヨヨイ、ヨヨヨイ、ヨヨヨイヨイ、めでてえなぁ」…と締めて遊んでいたものだった。
 …そうだ、伝七親分は、私たちの世代には梅之助だった。

 バラバラに点在していた符合が、時を超えてあるときピタリと巡り合う。不思議な事象だけれど、そんな偶然に遭遇すると、生きて在ることの僥倖を深く感じるのだ。


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