長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

桜咲いたもご存じない

2011年03月29日 21時30分00秒 | 歌舞伎三昧
 3.11の四日ほどのち。稽古場へ向かう井の頭線の、いつもなら車窓からの景色など望めようもないほど混んでいる車内はガラガラで、最近凝っている詰将棋の本を読む気にもなれず、ぼんやりと、正面の窓から外の景色を眺めていたら、真紅色の桃の花が見えた。
 「柳はみどり、花はくれない」。いつの間にか、そんな季節になっていた。

 地上に何が起きようと、四季はめぐり、花は再び開く。
 そういえば、今年は沈丁花の匂いに気がつかなかった。…そう思ったあとの彼岸のうちに、知人の葬儀に向かった先で、かの花の今年もあるに気づいた。かすかな香りに在りかを探すと、葬祭場の門柱のわきに、うつむいて咲いていた。

 …そして昨日。気がつけば、桜が咲いていた。偶然、開花宣言の、染井吉野の標本木のある九段の辺りにいたのだが、私は北の丸公園から竹橋のほうへ歩いていた。千代田城の石垣を眺めながらお濠端をゆけば、大寒桜、寒緋桜も、枝をたわわの花盛り。
 「サクラサク」。日本人には特別な呪文であるこの言葉を、迂闊にも失念していたのだった。

 人間は桜の花を、自分が生きていた年数と同じ回数しか、見ることができない。
 考えてみれば、四季折々に咲く花はすべてがそうなのだが、とりわけ桜は人々を、今日を逃したらもうめぐり会えないような、刹那的な切ない気持ちにさせる。
 咲いている期間が短いから、想い出が圧縮される。これが常夏の国のハイビスカスだったら…あれはハイビスカスの花の咲くころ…って、いったいいつだっけ?年がら年中咲いてるしぃ~的な感じになってしまう。

 「…散る花にも風情がある」と、真山青果『番町皿屋敷』の序盤で、青山播磨はつぶやく。梅は咲き初(そ)めたときが絶品だが、桜は散りかかった姿がいとしくて、えも言われぬ。
 以前、現・勘三郎が春に旅立った歌舞伎役者の話をしていた。それが、自身の父・先代中村屋の葬儀の折のことだったか、六世歌右衛門のときだったのか、あいにく忘れてしまったのだが。
 やはり桜のころの葬式で、亨兄さんの棺桶に、桜の花びらがはらはらと降りかかり、それがとてもきれいで、そしてとても悲しかったことを想い出した…と、語っていたことだけ覚えている。

 亨兄さんとは、紀尾井町の初代・辰之助である。連獅子の、キリリきっぱりとしたまなじりが、今も瞼に浮かぶ。私が最後に辰之助を観たのは、亡くなる前年の昭和61年、国立劇場開場20周年記念(たぶん)公演の、『仮名手本忠臣蔵』五段目、斧定九郎である。
 顔色がもう真っ青で、ぞっとするほど鬼気迫る定九郎だった。稲木からぬっと伸び出た腕と手指のかたち。鉄砲の玉が体に入って、口からたらたらと血筋を流してジタバタ蠢くそのさま。
 聞けばその月、実際に楽屋で、血を吐きながら勤めていたそうである。
 圓生や彦六の正蔵の「中村仲蔵」のテープを聴くたび、私はずいぶん長い間、辰之助のことを想い出さずにはいられなかった。

   春しあれば 今年も花は咲きにけり
      散るを惜しみし 人は いつらは
 鴨長明の歌である。
 春になって、今年もまた再び、桜の花は咲いた。昨年、桜の花が散るのを惜しんでいたあのお方(たしか長明の父上のことだと記憶している)は、どこに行ってしまったのだろうか…桜の花は今年も咲いたけれど、花の寿命の短いのを残念がっていた父自身が、今年はもうこの世にいない。
 亡くなった父君への挽歌である。

 そして今年も、桜は咲く。


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デライラの日

2011年03月25日 11時33分00秒 | やたらと映画
 心がかつえたので、音楽がききたいと思った。
 美しいものを見れば心いやされるものだが、ここしばらくというもの、目から入ってくる情報はあまりにも荷重で、視覚の世界から遮断されたいと思ったのだ。
 ふと、ここ10年以上聞いていなかったCD群が目につく。
 『南太平洋』のサウンドトラック。……。名曲ぞろいだけれど、この場合、シャレにならない。小林旭ベスト4枚組。『恋の山手線』は、歌詞を想い出すのに脳内がますます興奮・活性化するような気がしてやめた。
 エノケン。神楽坂はん子。森繁久弥の軍歌と流行り唄集。「銀座の雀」をシャンソンぽく唄うのもいいが、多少、癒されつつ、元気にもなりたい。
 やっぱり、気分を変えるには洋楽だ。それも、理由もなく毎日が明るく楽しく思えたころ聴いた曲。そしてまた、あまり浸りすぎずに済む、明朗快活な曲。
 小手調べにZep。黙祷するによい瞑想曲もあり、そののち「胸いっぱいの愛を」で溌剌とする作戦だったが、ラストの名曲「stairway to heaven」で、すっかり、ヒース生い茂る荒野に迷い込み、仙人化してしまいそうになったので、2回リピートしてやめた。

 現実世界に舞い戻るためには……おぉ、そうだ! トム・ジョーンズのベストアルバムが、あるじゃないか。
 これは、たしか前世紀の終わりごろ、映画『マーズ・アタック!』公開時に、再リリースされたCDだ。
 そうだった、あのとき、『マーズ・アタック!』の試写に行った同僚が、「この映画の意味がわかんない!」と、激怒して帰ってきたのだった。
 いーじゃないか、いいじゃないか。大ウソの世界はバカっ噺でいいじゃないか。虚構の世界に変な理屈をつけると、壮大な話が世話場になる。

 『マーズ・アタック!』を想い出すとき、私にはウェルズの『宇宙戦争』より、フレドリック・ブラウンの『火星人ゴーホーム』が連想される。
 中学から高校にかけて、ブラウンとブラッドベリは私にとっての両Bで、(ここらへん、竹中半兵衛・黒田官兵衛の両兵衛にかけてあります…緊張をほぐすにはまず、言葉遊びから!)早川書房、東京創元社から出ていた文庫本、晶文社の叢書など、翻訳された両所の著作本は、全部持っていた。
 ブラウンの簡潔でシニカルな文体は、清少納言に相通ずるものがある。
 ならば、ブラッドベリは紫式部か…というと…ううむ、あの類稀なる叙情性、ブラッドベリはブラッドベリだよね。色事から遠ざかった、叶わぬ恋への追憶、とでも申しましょうか。積極的な源氏物語とはちょと違う。

 トム・ジョーンズの全盛期、私は小学生だった。そのころ大好きだったルシール・ボールの「ルーシー・ショー」と同じように、当時、彼の冠番組があったように記憶している。60年代後半のオシャレなバラエティ番組は、すべて欧米伝来のショウ形式だった。
 いま思えば、杉良のような、中条きよしのような、小学生には分からない、大人のおねーさん方を覚醒させずにはおかない、艶物系大スターだったのだろう。
 しかし、こうしてまた、改めて聴きかえすと、007や、ピーター・オトゥールの顔が浮かぶ『何かいいことないか、仔猫ちゃん』のテーマ曲もあるし、知らない曲はひとつとしてない。
 一曲一曲が、今はもうこの地上の、どこにもないのだけれど、慣れ親しんだ生家のそばの商店街の軒先を、通り過ぎるかのように、なつかしい。
 そしてまた、70年代の日本の昭和歌謡に、多大な影響を与えていることがわかる。
 何より歌詞も唄い方も、骨太でストレートで直線的で、実にいい。

 …トム・ジョーンズは、『万葉集』だ。
 心の叫びを、せつせつとダイナマイツにうたいあげる。自分の真情を吐露することに終始するので、押しつけがましくない。人生に立ち向かっていこう、というエネルギーが沸々と湧いてくる、愉快なウキウキ感を増殖させる音楽だ。

 収録1曲目は「よくあることさ」…。そう言って、肩を叩いて軽く慰めてほしい。

 火星人の脳髄を直撃した、北米大陸版ヨーデルのような、コヨーテの遠吠えのような、あの秘密兵器は、ずっと、トム・ジョーンズの歌だと思っていたが、違うのだったかしら。
 そういえば、このCDを買った時も、ああ、あの曲は入ってないんだ…と軽く落胆したのだった。たぶん、私の思い違い。
 てっきり、トム・ジョーンズが地球の救世主なのだとばかり思っていたのだ。ターザンの雄叫びとはまた違う、のびやかなトム・ジョーンズ節が、火星人の延髄を破壊したのだ…と思っていた。
 もしそうなら、すごい! ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』の少年が、金切り声でガラスを割ってしまう、あの奇声に匹敵する破壊力だ。

 邦楽界でこの手の武器を有する人物はたったひとり。私の記憶の中の、清元志寿太夫お師匠さんしかいない。
 あるとき、新橋演舞場3階の菊廼舎の前で、ぼんやりと幕間をやり過ごしていたら、スタスタと、志寿大夫お師匠さんが歩いてきた。むき身の茹で卵のように、つやつやしていた。私は思わず会釈した。すると、志寿のお師匠さんはうれしそうににっこりしながら、そのまま菊廼舎に入っていった。
 そのとき観た芝居が何だったのか、さっぱり想い出せないのだが、あの風呂上がりのように血色のよい志寿太夫のにこやかな顔は、忘れられない。九十を過ぎても、声量はすごかった。ご長命の舞台を、最期まで看取ってあげなければ、という気持ちを観衆に与えるお人柄でもあったのだ。
 清元は、幕末の世相を色濃く映し出しすぎたあまり、退廃的かつ煽情的すぎるという理由で、お上から上演禁止処分を食らった。ほとんどすべてが心中物だ。そしてまた、あの超絶技巧的高音からなだれ込む節回し。
 世の中を破滅に導く…「滅びの笛」。ある意味、ダイナマイツなパワーを秘めた音曲なのだ。間違いない。

 20世紀に夢見ていた未来が、この手の上に出現してしまった21世紀。そして災厄も、SF映画のスクリーンで、いつか見た風景のままに訪れた。
 そうして、その先の未来は?
 小学生のころ想像していた、真空管コンピュータによって導き出される未来は進化を止めて、それにとって代わった半導体コンピュータが、新しい世界をもたらした。
 そんなふうにまた人類は、新しい未来を夢見ることができるのだろうか。

 …トム・ジョーンズは「letter to Lucille」を唄っている。
 歌詞の内容はほとんど分からない…でも、雨上がりに、東の空に虹を見たような気がした。
 今日どんなことがあっても、私は、明日を迎えることができるぞ…というような。



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われ今日も生きて在り

2011年03月14日 01時50分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 「近頃は 哀れいかにと問ふ人も 問はれる人も 涙なりけり」
 という歌を、むかし、戊辰戦争のころの逸話をまとめた本で読んだことがある。
 慶応四年の江戸の街角で知人に会って、近ごろはほんとにもう…無惨だよね、あなたのほうはどんな具合ですか…?と訊くほうも訊かれるほうも、ただただ涙…なのである。
 記憶頼みに書いているので、少し違っているかもしれない。

 昨年の六月、友人の演奏会が仙台であり、その機会に便乗して、ほんの一日半だったが、仙台平野を電車で旅した。それまで海産物の美味しい街というイメージが強かった仙台だったのだが、車窓に広がる仙台平野は、豊かな穀倉地帯だった。ササニシキ誕生の地…と大きな文字がサイロに掲げられ、遙か地平の彼方まで、青々とした美しい耕作地が拡がっていた。
 仙台から東北本線に乗り、小牛田で陸羽東線に乗り換えて有備館で降りる。伊達政宗が青葉城に移るまで居城としていた岩出山城へ登り、しずかな城址で小鳥の囀りを聞いてから岩出山駅まで歩き、再び陸羽東線、石巻線を乗り継ぎ、石巻まで来た。
 残念に思いながら時間の都合でそのまま急ぎ仙石線に乗り、松島湾のうつくしい海岸線を眺めながら多賀城。いにしえの国府跡へ向かい、路肩の赤いヒナゲシに古代の面影を結ぶ。そうして東北本線の塩釜からバスに揺られ、愛宕山もかくや、何段あるか数えきれない急な石段を、狛犬に励まされながら上り、塩竈神社を参詣。神社の境内からみはるかした湊町は、夕焼けに染まっていて本当にうつくしかった。
 さらに歩いて仙石線の本塩釜にたどりつき、再び仙台に戻ってきたときには、日はとっぷり暮れていた。私もすっかりくたびれていたが、塩釜の鮨屋で巻いてもらったお土産を手に、ほろ酔い加減でいい心持ちになっていた。
 仙石線から新幹線への乗り換えコンコースの中に「伊達な警察官になろう!」という県警のポスターを発見したときには、旅の興、しっかりその映像をカメラに収めたものだった。

 一昨日からのニュース映像を見るにつけ、あの愉しかった旅の想い出が胸を締め付ける。

 そうして涙ぐんでいる私の身の回りも、まだ時折ゆさゆさと、余震で部屋が揺れている。
 今日から輪番制の停電だという。あまりに都会生活の便利さに慣れ過ぎると、かえって不便なのだった。
 そういえば、お月さまが九曜紋に見えるほど乱視でド近眼の私は、二十代のころ、コンタクトレンズも眼鏡もない無人島に漂着してしまった時の用心に、裸眼で生活できる訓練を、時々していたものだった。
 …すっかり忘れていた。
 もはや、どんな慰めの言葉も、私には安易に口にできない。
 ただただ、みなさん、どうぞ、ご無事で…。
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二挺杼(にちょうひ)

2011年03月06日 00時29分00秒 | 美しきもの
 「以後、呉服屋に出入りすること、まかりならん!」
 と、バアサンが遺言してくれたらよかったのだが、生憎、私に残されたのは三棹分の箪笥に入った着物だった。
 …とはいえ、母方のバアサンが亡くなったのは昭和15年、叔父誕生時の産後の肥立ちが悪かった、ということだから、着物のあらかたは虫が喰っていた。
 その遺品が私のもとに渡ってきたのは、平成の20年のことである。
 母は商家に生まれながら、商売をやっていると一家揃って落ち着いてご飯が食べられない…という理由で、降るような縁談を断って公務員の父のもとへ嫁いできた。しかし、長男の甚六の父は、終業ベルと同時に宴席へ向かい、箏か三味線を習わせようと思っていた長女(我事也。当ブログ2010年3月21日付「マイ楽器」記事をご参照されたし)は、音楽系の稽古事に通わせれば号泣して通学拒否する始末。
 そんなわけで母は、人生のほとんどを「失望」という言葉のもとで暮らしてきたので、女人特有の貪婪さを失い、自分が相続するべき物品への権利を主張することもなく生きてきたのだった。

 有吉佐和子の『真砂屋お峰』は、大豪商の材木問屋に生まれた女性が、自分の代で生家を潰すことを決意し、代々の当主が蓄財した莫大な財産を費やし尽くして、空前絶後の着物道楽に没入していく話である。
 『一の糸』だったか、『悪女について』だったのか…最初に手にした有吉佐和子の小説が何だったのかは忘れてしまった。23歳のとき、この本に度肝を抜かれた私は、有吉佐和子の小説をほとんど読破してしまった。
 勧めたのは橋本治である。

 書物を通してだが、橋本治は、二十代前半の私の人生の先生だった。
 1985年に『チャンバラ時代劇講座』を読まなかったら、私は今でも大星由良之助と大石内蔵助の区別もつかない、目玉に銀紙を張った西洋カブレの日本人のままだったろう。
 文庫本の『青空人生相談所』を口切りとして、怒濤のように橋本治の著作を読みつくしていた22歳のころ、橋本治が文中で勧めるままに、有吉佐和子の小説も読み尽くしてしまったのだ。
 それからずっとのちに一冊本で刊行された『久生十蘭選集』の、解説を橋本治が書いていて驚いた。そして、好きなもののルーツが根っこでつながっていることを知り、喜びもした。
 久生十蘭は、十代の私が一番愛し、崇拝していた作家だったからである。

 二十代、お峰のド迫力を心に刻みつけていた私は、三十代のある時期、「粋(すい)は身を食う」という、格言そのままに暮らし、給金のほとんどを呉服屋さんに貢いでいた。
 その放蕩もひと昔となった今、不思議なことに、うずたかく積み上げられた反物を目前にしても、胸騒ぎがするでもなく、食指も動かないのだ。
 身の内の業火がすっかり、燃え尽きてしまった。たぶん、着物への執着は水素のような気体で出来ていたのだろう。燃えるとその残骸すらも残らないというような。消し炭からくすぶりだす埋み火のような未練すらない。
 欲しいものがないのだから、仕方ない。…いや、素晴らしい品物はたくさんある。けれど欲望…という名の感情が無くなってしまったのだ。欲しい!死んでも欲しい!という、物に対する一途な執念が、どこからも沸き起こってこないのだ。
 こりゃ、解脱ってやつだ。市川家の歌舞伎十八番にもあるじゃん。私はキモノに関して、すっかり悟りの域に達したのだ。煩悩から解放されたのだ。
 …ああ、うれしくもない。

 祖母の遺品が詰まった箪笥が私の手許にきたのは、そんなときだった。
 衣喰う虫や時間の砂嵐から、かろうじて被害が少なかった三枚ばかりの羽織の裄と丈を直してもらい、私は久しぶりに、羽織の紐を買いに行った。
 総務部の職員が文房具店に、事務必需用品を買いに行くようにしおしおと。

 お勘定を済ませている間に、ふと後ろを見ると、博多織の展示会だ。
 なにしろ、美しいものを放っておけない、オッサンのような性癖を持つ自分である。ついふらふらと近寄って、その美しい、繭玉から紡ぎだされた絹が、職人さんの手によって昇華された姿をみつめた。
 すると、よく知っているいつもの博多の帯でないことに気がついた。傍らにおられた、作家ご本人が説明して下さる。

 薩摩切子のグリーンの色みから着想を得たという、グラデーションの色彩感覚といい、昔日の博多とは、一味もふた味も違う献上柄。
 新しい時代に生まれた若い職人たちは、その感性で、いま、こんにちの博多帯を模索し、創造しているのである。
 また、可憐な花喰い鳥が、くっきりとした稜線で織り出されている帯もあった。伺えば、二挺杼(にちょうひ)、という手法で織り上げているそうなのだ。
 緯糸を通す杼を二つ操り、かくも素晴らしい帯を織りあげるのだ。裏から見れば、二重織りのように仕上がっている。…美しい。感激した。

 こういうすばらしい仕事は、もっと世間に流通しなくてはならない。
 一目で値段と出所が分かってしまう、誰もが持ってるようなブランド品のバッグを買ってる場合じゃありませんぜ。
 もっと安い対価で、この世にたった一つしかない、美しい芸術品が手に入るというのに。
 …そういうわけで、日本橋高島屋の呉服売り場に行って御覧なさい。今度の火曜日までしか観られません。急ぐべし。



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