今の福助が襲名した時だから、もう十八年も昔になろうか。平成の福助が誕生するとて、歌舞伎座で一度きりの記念上映会があった。
手元に記録がなく、記憶で述懐するので断定できず申し訳ないのだが、昭和28年だったか昭和32年だったかに制作された、六世歌右衛門の『京鹿子娘道成寺』である。舞台の記録映画というだけでなく、一部をスタジオ撮影していて、全篇物語映画風なつくりになっていた。
その頃の大成駒は、神谷町との『二人道成寺』などで、一人で道成寺全曲通して勤めることはもうなくなっていた。『伊勢音頭』の万野役など、遣り手婆のようないやらしさをこれでもか、と、ねっとり愉しそうに演じていた。
芝居はライヴ感がすべてである、と思っていた私は、舞台映画を観るのは気が進まなかったのだが、この映画が上映されることは滅多にない、大変珍しい機会なのである、という福助の番頭さんの言葉に促されて、観に行った。
ありがたい。親の意見と番頭さんの言葉に、百に一つも無駄はなかったのである。
おなじみの道成寺の釣鐘をぼんやりと眺めているうちに、私はもうその世界に引きずり込まれていた。ただただ美しかった。成駒屋だけではなく、成駒屋を取り巻くすべてが美しかった。山門の朱、草木の緑、舞い散る桜の花びら。一心にくるくる舞い踊る白拍子花子。
舞台のなかの野山の春。柳はみどり、花はくれない。戦争に負けて焦土と化した国破れて山河ありの、あの時代に、あの失意のどん底にいた日本に、こんなにも美しいものがあったのかと、大道具の書割の青い空を観ているうちに、私は心が空っぽになって、ただただしみじみと感動して、ただただ涙を流していた。
映画を観て虚心坦懐、悲しいとも可哀そうとも嬉しいとも思わず、滂沱の涙を流したのは、後にも先にも、これと、あと、中学生の時に観た、フランコ・ゼフィレッリの『ブラザーサン・シスタームーン』だけである。
手元に記録がなく、記憶で述懐するので断定できず申し訳ないのだが、昭和28年だったか昭和32年だったかに制作された、六世歌右衛門の『京鹿子娘道成寺』である。舞台の記録映画というだけでなく、一部をスタジオ撮影していて、全篇物語映画風なつくりになっていた。
その頃の大成駒は、神谷町との『二人道成寺』などで、一人で道成寺全曲通して勤めることはもうなくなっていた。『伊勢音頭』の万野役など、遣り手婆のようないやらしさをこれでもか、と、ねっとり愉しそうに演じていた。
芝居はライヴ感がすべてである、と思っていた私は、舞台映画を観るのは気が進まなかったのだが、この映画が上映されることは滅多にない、大変珍しい機会なのである、という福助の番頭さんの言葉に促されて、観に行った。
ありがたい。親の意見と番頭さんの言葉に、百に一つも無駄はなかったのである。
おなじみの道成寺の釣鐘をぼんやりと眺めているうちに、私はもうその世界に引きずり込まれていた。ただただ美しかった。成駒屋だけではなく、成駒屋を取り巻くすべてが美しかった。山門の朱、草木の緑、舞い散る桜の花びら。一心にくるくる舞い踊る白拍子花子。
舞台のなかの野山の春。柳はみどり、花はくれない。戦争に負けて焦土と化した国破れて山河ありの、あの時代に、あの失意のどん底にいた日本に、こんなにも美しいものがあったのかと、大道具の書割の青い空を観ているうちに、私は心が空っぽになって、ただただしみじみと感動して、ただただ涙を流していた。
映画を観て虚心坦懐、悲しいとも可哀そうとも嬉しいとも思わず、滂沱の涙を流したのは、後にも先にも、これと、あと、中学生の時に観た、フランコ・ゼフィレッリの『ブラザーサン・シスタームーン』だけである。