濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

三溪園で見つけた冬鳥たち

2014年12月02日 | ひとりごと・・

梅の名所・桜の名所・紅葉の名所・・・として知られるこの庭園は、
季節によってさまざまな表情を見せてくれる

なんと!!夏には蛍にも出逢うこともできるし、冬が近付いてくると、
大池には多くの渡り鳥たちがやってくる

オイラが見る限り、最も多く飛来していたのが“キンクロハジロ”
動きが機敏で、観ているだけで楽しくなる。頭の後ろの冠羽が特徴的
芝浦運河でもよくみかける渡り鳥



そして、キンクロハジロのなかで優雅さを見せているのは“オナガガモ”
他のカモと比べると、尾羽がピンと長く、首も長い
オイラとは違い、全体にほっそりとスマートなシルエットに気品を感じる



最後に紹介するが“アオサギ”
アオサギ(蒼鷺)は、コウノトリの仲間だそうだ



全長は100cm弱、翼を広げると150-170cmと大型の鳥である
雅な姿をしているが、意外にも攻撃的で、餌場では羽毛や飾り羽を逆立て、
小型の“キンクロハジロ”を威嚇して追っ払っていた!



自然とは違い、人が多く訪れる三溪園
そのためか、かなり近づいてもビクともしない・・・
三溪園は、冬鳥の写真を撮るには絶好!の場所でもある

オイラは見たことがないが、此処には、カワセミも生息しているらしい
特に、園内の記念館(休憩所)、そこの窓越しの小さな池でよく見られるとか
そこではお茶をいただけるし、紅葉を見ながらカワセミを見てみたい


横浜で紅葉狩り

2014年12月02日 | ひとりごと・・

紅葉狩りという言葉から「モミジを狩る!」という発想をもつものはいないだろう
念のため、本当に「狩り」をする!と、思い込んでいる人のために言っておこう

この「狩り」とは、大昔は生きていくため、すなわち食べるために行ってきたもの
しかし、時が経ち、狩猟の意味での「狩り」をしない貴族が現れ、草花や自然を愛でる
また、その時に実際に草花を手にとって眺めたことに由来するという

今は「お花見」と言われている春の桜を見ることも、昔は「桜狩り」と称されていた
「桜狩り 霞の下に今日くれぬ 一夜宿かせ 春お山もり」藤原定家

さて、紅葉や黄葉が色づき始めるにはある一定の条件が必要だという
その日の最低気温は8℃以下(広葉樹)、さらに、5℃以下になると一気に進むとされる



美しい紅葉の条件は「昼夜の気温の差が大きい」「平地より斜面」「空気が汚れていない」
「適度な水分」など、光合成が行いやすい条件が必要だそうだ



日本は、太平洋の西岸に位置する美しい島国である
日本はかつて「東瀛」とか「扶桑」と呼ばれた
そのいずれも“東の彼方”とか、仙人が住む東方の山”という意味が込められている

そのため、古来より「日出づる国」と呼ばれている。なんとも神々しい呼び名である
それに相応しく、日本は四季に分かれ、季節ごとにさまざまな生活を楽しんでいる

春、
日本人は桜を特に好み、桜が満開になると、家族や職場の仲間と一緒に花見に出かける

夏、
7月には「七夕」がある
みな自分の願い事を短冊に書いて、竹の枝に吊し願い事が叶うように祈る

秋、
月見や紅葉狩りを行う。なお、「七夕」もそうだが、月見の習慣は中国から伝わったが、
紅葉狩りは日本特有のものである



冬、
近ごろの日本人は欧米人と同じようにクリスマスを過ごす
そして、晦日の夜は「紅白歌合戦」を見て、横浜の場合、「汽笛」を合図に新年を迎える

このように、日本人の生活は中国や欧米の文化から、多少なりとも影響を受けているが、
紅葉狩りのように、雅な独自の伝統的文化も少なくない

こうした文化は絶やしちゃいけないと思う
すでに暦は“師走”を迎えたが、横浜では山手地区、そして、三溪園では今しばらく
紅葉狩りを楽しむことができる

○三溪園の紅葉スポット



三溪園を代表する紅葉の景観を楽しめる聴秋閣と春草廬は隣り合う場所に立地しながら、
それぞれカエデ・モミジの紅色、イチョウの黄色というツートンの世界を見せてくれる



ちなみに、聴秋閣(重要文化財)は、徳川家光が二条城内に建てた春日局ゆかりの建物
この時期だけ、聴秋閣沿いの紅葉に包まれた遊歩道が一般開放されている
しかし、舗装されていないので、雨上がりは汚れてもいい靴ででかけよう!

そして、旧天瑞寺寿塔覆堂(重要文化財)もお奨めの撮影ポイント!
このお堂は、豊臣秀吉が母のために建てた寿塔を覆うための建物と言われており、
現存する秀吉が建てたものと確認できる数少ないもの

迦陵頻迦(かりょうびんが)や蓮の花などの彫りの深い装飾、そりあがった屋根は、
雅の荘厳さが感じられる

このお堂の隣にはイチョウの古木があり、お堂全体がイチョウの落ち葉で覆われている
遠くから見ると、黄金の絨毯、そして、お堂も金色に輝いているかのように見える


三溪園は、山下公園や中華街、そして山手地区から車で10分~15分
しかし、駐車場があまり広くないので、比較的空いている“平日”がお奨め

ちなみに、UPした画像はすべて三溪園で撮影したもの(2014.11.28 撮影)

原三溪というひと

2014年12月02日 | ひとりごと・・

横浜に所縁がある有名なものといえば、
崎陽軒の焼売、中華街の豚まん、有明のハーバー、サンマーメン、そして、
忘れちゃいけないベイスターズ!!

ひとでは、ゆず、美空ひばり、そして、CKB横山剣ちゃん!にシェリー!!
文化系では、岡倉天心、大佛次郎、そして、根岸生まれの吉川英治などがいる

しかし、横浜の歴史を語る上で忘れてもらっては困る歴史的人物がいる
現在の横浜の基礎を作ったとされる“原三渓”だ

開港されたばかりの横浜は、幕府によって貿易が制限され、生糸などの重要産品は、
特権を持つ江戸の商人が独占販売していた

しかし、時代とともにこの旧態依然とした制度はなし崩し的に葬られていくなかで、
ついに!ハマに追い風が吹いた!!

カイコの伝染病によって“ヨーロッパで生糸が品薄”になったからだ
日本全国から横浜へと運ばれた生糸は高値で売れに売れた!!

生糸貿易は日本の富国強兵と近代化を支えたとよくいわれる
明治期に横浜の豪商達が扱った生糸の輸出額は国家予算に迫るものがあったそうだ
その豪商達が得た利益はべらぼうで、短期間のうちに王侯のような財力を手に入れる

そのため、ゴールドラッシュ!ならぬシルクラッシュ!!
成功を夢見る人々が横浜に多く集まるようになった
このように、幸先よくスタートを切った横浜であったが、莫大な財力を得たものは僅か

その当時、日本は外国相手に対等な取引など困難な状況であり、理不尽な行為ばかり
もし日本人がしてやられたと気づいても、お奉行様は外国人を裁けないのだから辛い!
百戦錬磨の外国商人に対抗するのは容易ではなかったという

こうしたなか、原善三郎(原三渓の義父)や茂木惣兵衛など、ほんのひとにぎりだけ
その一方で、大半が大きな損失を出して破滅する商人も続出した

さて、義父の死去に伴い「三渓」こと、原富太郎が「原家」の家督を相続する
三渓は、早稲田大学で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務めるほどの秀才

その経営手腕は群を抜いており、帝国蚕糸の社長、そして、現在の横浜銀行の初代頭取、
さらには、関東大震災後には、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長などを歴任する

また、日本で18件日の世界遺産に登録された「富岡製糸場」
三渓は、三井物産から富岡製糸場を譲り受け、36年の長きにわたり経営していた
この事実はあまり知られていない

さて、生糸貿易で莫大な資産を蓄えた実業家の「原三渓」
彼は、横浜郊外に東京ドーム4個分にもなる広大な庭園「三渓園」を造営する



京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は、明治35年頃から造成が始まり、
大正3年に外苑、大正11年には内苑が完成するに至った



特に、三溪が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「神輿振」、
横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が
園内で生まれる

元来、三溪園の土地は、原富三郎(三渓)の養祖父である原善三郎が購入したもの
その広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている



さらに、園内には、国の重要文化財建造物10件12棟をはじめ、歴史的価値のある
17棟の建築物を見ることができる(全て京都など他都市から移築した古建築)

画像は、蓮の花が美しい二つの池の向う、緑濃き小高い丘にある旧燈明寺の三重塔
オイラの秘密基地がある根岸の杜から車で10分!!
ここにくれば喧騒を忘れ、まるで日本画のような四季折々の景観を満喫できる

参考:2014.11.28 撮影 ※紅葉は、12月第1週までが見ごろ

かぼちゃと柚子

2014年12月02日 | ひとりごと・・

暦は「師走」。今年も残すところ1か月をきってしまった
早いもので、12月7日は「大雪(たいせつ)」、22日は「冬至(とうじ)」

大雪とは、そのまま「雪が降り始めるころ」を意味しており、鰤などの冬の魚の
漁が盛んになり、熊が冬眠に入り、南天の実が赤く色付くころ

また、冬至とは、北半球において太陽の位置が1年で最も低くなる日
つまり、日照時間が最も短い日といえる

昔、「日時計」の時代は、地面に立てた棒の影で季節の変化を感じていたが、
影の長さは夏からどんどん長くなっていき、冬にはかなりの長さまでに達する

こうして、その長さが一番遠くまで伸びる日が「冬至」
一方、棒の影の長さが一番短くなる日が「夏至」と定められていた。

そのため、太陽の位置が1年で最も高くなる夏至と日照時間を比べると、
北海道の根室では約6時間半、東京で約4時間40分もの差がある!!

また、今年は19年に一度!の「朔旦冬至(さくたんとうじ)」
この 「朔旦冬至」とは、新月(朔)と冬至が重なる日で、月の復活と太陽の復活が
重なる日ということで、大変めでたいとされている

冬至といえば、かぼちゃと柚子(ゆず)湯!

冬至は、一年でもっとも太陽の力が弱まる日であり、それ以降は再び太陽の力が強く
なる事から「一陽来復」と言って、この日を境に運が上向くとされている

そして、古来より、さらに運がよくなるようにと「ん」がつく物を食べていたそうだ
これを「運盛り」と言いい、特に運盛りに食べられていたものは、
れんこん、だいこん、にんじん、ぎんなん、きんかん、かんてん、うんどん、など

これらは「ん」が2つ入る物として好んで食べられていたとされている
では、かぼちゃは?が、かぼちゃには「ん」が付いていない・・・

これは、かぼちゃは漢字で「南瓜」と書く。すなわち、「なんきん」であり、
「ん」が2つ付いているからである

さらに、かぼちゃは夏野菜である
貯蔵が効くので冬まで美味しく食べられるのと、元は南方から渡ってきた野菜

一年でもっとも陰(太陽の力が弱い日)のときに、夏や南の「陽の気」を持つものを
取り入れることで勢いをつける!という意味があるそうだ

それでは柚子は?
冬至に柚子湯に入る由来は、運を呼び込む前に体を清めるといった意味があったから
昔は今と違って毎日のようにお風呂に入る習慣がなかった

そのため、風呂に入ること自体「お浄め」の意味があったという
そこにさらに香りの強い柚子を入れる事によって、邪気を払う!
こういう意味もあった

また、「融通が効く湯治=柚子が効く冬至」
といった語呂遊びの要素もあったと言われている

しかし、ちょうどこのころは「忘年会」の時期と重なる
酔って帰り、風呂にも入らず、そのまま寝てしまう・・・こういうことも度々
ということで、12月22日は“ゲンを担いで”かぼちゃを食べ、柚子湯に入ろう!

ある意味、冬至こそが「1年の始まり」