濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

縁(えにし)と因果

2015年01月09日 | ひとりごと・・

北海道をはじめ、日本海側を中心に「冬の嵐」が吹き荒れ、交通機関も乱れている
東京も晴れているが北風が物凄く強くて、体感的にはかなり寒く感じる

しかし、今年は正月から晴天の日が多く、ほぼ毎日、霊峰「富士」を見ている
これは、寒ければ寒いほどよく見える。富士を見るたび得した気分になるんだよなア~

さて、松の内は過ぎたけど、まだ年明けなので少しばかり堅い話をしようと思う
今回は「縁(えにし)」について考えてみた


オイラのこれまでの人生、多くの人との出会い(縁)があり、多少の紆余曲折はあっても、
その人たちの支えによって半世紀以上を過ごしてきた

子供の頃は、たいがいは親が方向性を決めてくれた。しかし、大人(社会人)になれば、
当り前だがすべて自分で決めなければならない

しかし、厄介なのは、大人になると、なかなか自ら今の環境を変えるのが億劫になる
毎日、会社に出勤して同じ顔ぶれのなかで仕事をして、同じ顔ぶれで一杯飲んで帰る・・・
これを繰り返していてもなにも変わることはない

環境や付き合う人を変えなければ人生は変わらないようにできている・・
大袈裟に言えば、オイラの人生の節目・節目で、必ず環境と人間関係に大きな変化があった

色川の大将との出会い、外資系会社への出向、社内異動(横浜・東京・博多・北海道)、
そして、北海道から沖縄まで、出張先での出会った多くの人・・・

すでに逝ってしまった人も少なくない
しかし、縁あって出会いがあり、そこでの教え(経験)はオイラの財産である
縁があれば必ず別れもある・・・ということ

仏教では、人との縁はすべて単なる偶然ではなく、深い因縁によると云われる
だからこそ、どんな出会いも大切にしなければならない

○袖振り合うも多生の縁

オイラもそうだったように、この本当の意味(解釈)を理解している人は少ないはず
なぜならば、「偶然出会ったことも大事な縁」といった単純なものではないからだ

第一、 多生を多少と思い込んでいる輩のほうが多いはず。オイラがそうだったように
多生とは、仏教の「六道を輪廻して何度も生まれ変わる」という意味があるという

また、六道とは「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天という六つの迷界」を指す
つまり、修業を積んだ者こそがこの六道からの苦しみを脱却できるそうだ

○迷界
人ってーもんは、しっかり心の鍛錬をしない限りは、どんな偉い人であろうと、学者、
そして文化人であろうと、何であろうと、この六道を出たり入ったりを繰り返している
先人曰く、これを脱却するひとつのツールが「縁」だと云われる

「縁!?」
そんな簡単に「縁」なんてものはないよ・・・と言いたくなるが、ところがそうではい
縁とは、偶然ではないという。前世からの必然的な“因縁”で繋がっているものだと

必然的な因縁、分り易く言えば、「川の流れの中でぶつかる岩」そして「親兄弟」など、
こういうのを「必然の出会い(縁)」という

しかし、必然的とはいえ、縁は選択できる。これは人に与えられた「特権」だ
つまり、「選択できる縁」とは、必然の後の「対応の縁」ともいえる

対応の縁とはこれから“どう向き合うかという縁”のことである
例えば、オイラが北海道への転勤命令を受ける

宮使いとして、転勤命令は受け止めなければならない「必然の縁」だ
ところが、その先、その「命令」に対してどうするかを選択できる

明日は小樽に行こうか?その次は稚内!来週はディープインパクトを見に行こう!!
四季折々に変わる風景をこの目に焼き付けながら、可能な限り、いろんな場所を訪れてみる
時には、場末のスナックで地元の人々と酒を汲みかわす・・・なんてこともよくある



また、その土地の行事や祭りには積極的に参加を試みる
郷に入ったら郷に従え・・・これこそが「対応の縁」であり、「選択できる縁」だ
つまり、人が受け止める縁は必然だけど、対応で縁を選択することができるということ

こうして、人生は縁の選択の連続だとすると、良い人生も、悪い人生もそれぞれの選択の
積み重ねの結果だということがよくわかる

繰り返すが、「縁」は特別の出会いや出来事ではない
実は毎日の生活のすべてが「縁」だということを認識して欲しい

今食べていることも、話していることも、歩いていることも、車に乗っていることも、
働いていることも、即ち、朝起きてから寝るまでの一挙手一投足の行動の全てが「縁」、
そして、自身の選択による「対応」と、その「結果」の繰り返しだ

と、ここまで好いことばかりを書いたが、
必然の縁には当然好ましい縁もあれば好ましくない縁もある

しかし、好ましい縁であっても扱いによっては悪い結果となるし、悪い縁であっても
場合によっては良い結果をもたらすこともあるということを自覚すべきだ

良い縁だけが与えられる人生なんて絶対にあり得ない
また、悪い縁だけが与えられるということも絶対にない

だから、人はどんな縁に対しても“選択”で勝負をしなければならないのである
しかし、その勝負にいつも勝てるとは限らない

それは「人間だから」
人の行動のすべては、意識的にしろ、無意識的にしろ、「心」によるものである

人生を決める素晴らしい縁に出会えるか、若しくは、縁を避け、迷界を彷徨うか
すべては、その縁をコントロールする「自身の心」次第ということになる

以下は、亡くなった高倉健さんが尊敬する酒井雄哉大阿闍梨(故人)の名言

一歩ふみだすために
どうしたらいいかって?

どうしようかと思うこと自体が
おかしいんだよ。

やりたいことがあるなら
やればいい。