先週の土曜日、秘密基地から徒歩3分、根岸ベースのフレンドシップにでかけてきた
昨日の新聞には、当日7千人の入場者で賑わった!と書いてあったが、ゲートは長蛇の列、
あまり行列は好きではないオイラだけど、天気もよかったので日光浴を兼ねて並んだ
さて、オイラの秘密基地がある横浜の根岸、その昔は半農半漁の小さな村だった
人々は漁業や海苔の養殖を行い、自然からの恵みを受けて静かに暮らしていたそうだ
そして、本牧から根岸にかけての一帯は、切り立った岸壁と美しい遠浅の海岸が広がり、
夏になれば海水浴のメッカとして多くの人で賑わったという
そして、1854年(嘉永7年)1月、ペリー率いる黒船が根岸湾に到来!
それから5年後、横浜は開港される訳であるが、その当時、本牧の景観はアメリカの
ミシシッピ湾に似ていた事から居留者から「ミシシッピ・ベイ」と呼ばれるようになる
このように、本牧・根岸は、居留外国人達のリゾート地だったそうだ
海辺には「チャブ屋」と呼ばれる、今で言う「海の家」が多く立ち並び、人々は食事や
休憩をそこで取っていたのである
時は巡り、1945(昭和20)年5月29日、横浜大空襲で本牧一帯は炎と煙に包まれる
根岸競馬場や一帯の住宅地などは焼け残ったが、本牧の大部分は壊滅的な被害を受けた
やがて、終戦を迎えた横浜には「小さなアメリカ」が幾つもできていく
1945年8月30日、横浜入りした連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥によって
米軍による占領が開始、横浜地区占領軍受入設営委員会は、横浜税関を占領軍司令部に、
ホテル・ニューグランドを占領軍首脳の宿舎にあてた
とくに、接収面積が大きかったのが本牧地区のエリア1、エリア2と根岸台のエリアX
それぞれ、米軍人の住宅用だったため、広い緑の芝生にアメリカンハウスが立ち並び、
限られたエリアとはいえ豊かなアメリカそのものが展開されていく
すでに、本牧地区の接収地は返還され、商業施設、そして、高層マンションと洒落た
住宅街に変貌と遂げているが、オイラの秘密基地がある根岸台の「エリアX」は当時の
姿そのまま。あのころ、焼け野原とバラックに住む日本人にとっては羨望の地だった
アンルイス、そして、Crystal Kay、SHELLYなど、父親が米軍だった彼女らも
根岸台のエリアXにあったバードスクール(小学校)の卒業生だ
そんな秘密基地から見える「フェンスの向こう」にオイラは憧れている
根岸ベースからは、富士山、東京湾、そして、ハマの街並みが一望できる。なにより、
緑が多く、広大な敷地にポツンとハウスが建てられているから圧迫感がまったくない!
そのため、ある意味、根岸ベースの住人を羨ましく思うことがある
このように、街中、近所に外国人がいるのは当たり前・・・というのが横浜
とくに、オイラの秘密基地周辺は、米軍、そして、頻繁に日本のパトカーも巡回しており、
変なやつがウロウロすることはなく、とても治安がいい
さて、戦後、濱っ子は、 駐留する米軍を「駐留軍」ではなく「進駐軍」と呼んだそうだ
その進駐軍は、横浜市内の焼け跡のあちこちにカマボコ兵舎と呼ばれたプレハブ家屋を
設置していく。もともと外国人の多かった横浜、浜っ子は、アメリカ文化に順応していく
浜っ子が、はじめにショックを受けたのが食文化、ハンバーガーだったり、ホットドック!
こうしたジャンクフード。そして、大排気量のバイクとアメ車にJAZZ!
洋もく(煙草)、バドワイザーにコーラー!
このように、「フェンスの向こう側」、「小さなアメリカ」には日本人にとっての「夢」が
いっぱい詰まっていたんだろうね!しかし、目の前にあっても立ち入ることができない、
手の届かない憧れの場所だった・・・
約20年までは比較的緩やかな警備体制であり、屋内は別として、ベースのなかを
通り抜けだけなら黙認してくれる。しかし、9.11以降、警備体制は厳格化され、
ベースの従業員や出入りする米軍軍人のゲストとして足を踏み入れるしか方法がない!
さらに、「近くて遠い外国」になってしまった。まさに「オフリミット」
仮にここが全面的に返還されたどうなるんだろう?
大型スーパーだとか、コンビニなんてものを建ててほしくないね
このままの環境を「歴史的建造物」として保存してもらいたい
次にベースに入れるとすれば8月の「BONODORI」
詳細が分かり次第、このブログでお知らせしたいと思う
一度は「フェンスの向こう側」を見てみるのもいいかも・・・
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