濱の与太郎

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もうひとつの「あさが来た」

2016年02月17日 | ひとりごと・・

やがて維新の世となり「若松屋」も新時代を迎えるが・・・
それは、波乱万丈の幕開けとなる。明治12年に幕末の若松屋を支えた二代目の茂七が没し、
三代目を継いだ長男茂吉もその五年後に若くして亡くなってしまう

この時、一人残されたのが三代目茂吉の妻・しも
しもは幕末期、大奥に勤めていた人物で、天璋院篤姫のすすめで若松屋へと嫁いだという
なお、13代将軍徳川家定御台所となった「篤姫」については大河ドラマでご承知の通り

維新後、篤姫は、薩摩藩に戻ることをかたくなに断り続ける
それは、徳川家たちの養育を生き甲斐に、断固、徳川の女として生き、かつて大奥で
働いていた女性たちの就職先の面倒なども見ていたからだ

先の、三代目茂七の妻しもも、篤姫の推薦によって薩摩藩との関係から信頼のおける
若松屋へと嫁いで来たというわけだ

残されたしもは、初代・齊藤重三郎の親戚を夫婦養子に迎え入れ、若松屋の継続に尽力する
そして、四代目となった茂吉は「東京酒造組合」を設立し初代組合頭首に就任する
しかし、一方で随分な道楽者でもあったらしく、若松屋の経営はもっぱら、しもの細腕に
任せられていたという

まさに「九転十起」、NHK朝ドラ「あさが来た」のヒロインのモデルとなった女性実業家、
広岡浅子とオーバーラップする!その“しも”であるが、さすがに幕末の大奥を生きた女性、
その手腕は優れた物で、若松屋の経営も何とか続けてきた

ところが、明治41年、しもが61才で他界し、その一年後には四代目茂吉も亡くなる
ついに若松屋は娘のツル一人となってしまい、明治43年、とうとう若松屋は酒蔵業を
廃業するに至った・・・

酒造業の幕を下した若松屋は、その後、ツルが長野の親戚より婿養子を迎え入れ、
食堂として経営が続けられ、戦後は、雑貨業を生業に、その経営を続けてこられた
そして、約100年ぶりに酒造としての若松屋の再興を果たしたのが東京港醸造だ!!



西郷、三舟に坂本龍馬、水野忠邦と篤姫・・・
江戸、そして幕末から明治にかけての多くの歴史上の偉人と関係があった若松屋
これほどの「造り酒屋」は聞いたことも見たこともない!!

歴史のうえで名を遺した・・・というのはほんの一握りにすぎない
表舞台にはけして登場しない数知れない人がいたからこそ“偉業”は達成される
若松屋こそ、日本の夜明け!江戸城無血開城に至ったその地なのかもしれない

そして、しもさんのDNAを受け継ぎ、齊藤重三郎から7代目、8代目に当たるご当主
彼らこそ本当の江戸っ子かもしれない!家業を再興させようとする心意気!
さぞご先祖様も喜んでおられるはず

さて、「江戸時代の侍」そして、「明治維新の人材不足」に関する逸話がある
ある老婆は江戸幕末期の侍の姿を回想して、
「そりゃ、侍は全然わしらと違って雨が降っても走らないし、辻角を曲がるときも、
前を見据えて直角に曲がる」・・・というようなことを話している
つまり、侍は侍としての威厳を保たねばならない!それが侍をつくる!!ということだ

一方では、幕末維新が終わり、日本は新政府の体制作りに懸命だった
中央、地方で行政組織を‘突貫工事’で整えねばならない!ところが人材がいない!
ときには、無名の人物でも行政の要職に登用されたそうだ

ところが、その登用方法に疑問符が付く人物もでてくる
新政府の今でいうところの人事担当者は大久保利通だった
その大久保に対して「候補者Aはどうにも役職に相応しい威厳がない」と困り顔で相談

すると、大久保は「そのものを体裁の良い馬車にでも乗せて、東京の街中を一日回らせる
そうすれば自然と威厳などつくものだ」と答えたそうだ



近ごろは、馬車に乗って威厳だけついたが、まったく中身のない連中ばかりが多い
日本をよくするためには、若松屋さんのように、性根の座った本当の侍が必要だ
・・・・この項「おわり」

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