1949年(昭和24)から2010年(平成22)まで、まずは61年間の資料デジタル化を終えた。
“未整理”と書いた紙が貼られている箱があるが、ここまでの分量からしたら、それほど多くはない。
つまり、ようやく一山超えられた。
まず、昨年の九月に始めてから、しばらく遠ざかっていたが、この春に仕事を再開して一週間。
連日のこと、正座で作業を続けていた。
先週末の土曜日クラスでは、思わず「私の人生はなんだろう」と口走ってしまった。今となっては取り消せないが、余計なことを言ったものだ、と反省している。
資料のうち、いちばん古いものは、戦後の混乱期には紙が不足していた昭和の20年代の資料だが、それらは国会図書館と大屋文庫で探し出したコピーだ。
国会図書館のものは、別室の小部屋で閲覧する“持ち出し禁止”の古い雑誌だった。監督する人の目があるところで読み、コピーはその方にお願いする。一般の場所で見ることができない雑誌だった。今でもその時の感触を思い出す。カビの匂いがかすかにして、紙の色は赤茶け、手触りはザラザラで、丁寧に扱わなければ今にも破れてしまう状況だった。
大屋文庫の雑誌はそれほどではなかったが、似たような状態だ。
さて、61年間の月刊誌、週刊誌、機関誌、その他、等々の紙に触れ、製本に触れて、内容はともかくとして、時代とともに材質がよくなっていくのを知った。
なによりも製本は壊れないことを目的としているから、ばらす作業はなかなかに苦労だった。
いちばん大変だったのは教科書、次は分厚い本の代表格『教育をどうする』岩波書店編集部編が極めつけだった。なかなか崩れないのである。崩すことを想定していないのだから当然だ。書籍が誕生した時には、まさかデジタル書籍の時代が来て、自炊する人間が出て来るとは誰も思わない。
ところで、はじめのうちこそ本をばらすことに抵抗感を抱いたが、次第に慣れてしまう。黙々と壊し続けた。黙々とスキャンし続けた。その間、様々な条件の紙に触れ、さまざまな製本をこわし、均一なデジタルに置き換えていく行為は、“機械的でしょ”と言われれば、“そうでもない”と答えてしまう。一つひとつ条件が違うだけに、その都度、新しい気遣いをすることになる。
なかでも雑誌として楽だったのは『AERA』だった。紙もよく、製本も丈夫でありながら手動断裁機で断裁しやすく、スキャンの段階では紙の質の違いで何回かに分けるものの、何ごともなくきれいに送り出されてPCに取り込める。手間のかからない良い子だったのよ!
さて、思いますね。
これから本はどうなっていくのかしら。著者と編集者の本つくりの楽しさも苦労も工夫も奪われてしまうのだろうか。
少なくとも自炊しながらデジタル化する行為は、本の世界をいとおしむ思いからだったが、やっていることは真逆の行為にすぎなかったわけだ。
「願わくば紙の本がなくなりませんように」
デジタル化し終わっていく資料の本や雑誌類の数が増えれば増えるほど、その思いが強くなっていく。
粘土版、パピルス、羊皮紙、甲骨、青銅器、竹、その他、さまざまな材質のものに人は文字を記してきた。
そうした材料のなかでも、紙に記される内容は、聖職者が担う宗教からアダルトな下世話な話まで、それはそれは豊かな世界が築かれている。もちろん言葉だけでなく絵や写真がプラスされて、より一層の豊穣さが、本の文化にもたらされた。
今、バラバラにすることから始まる資料整理の一段落を得て、紙に残された文字や絵や写真が、内容を超えて全ていとおしい。
こうして半世紀の紙の手触りを体験できたことは、条件付きだが、幸せな体験だ。
つくづく思います。
編集者の方々はもちろん、印刷、製本する方々の徹夜の仕事に感謝し感服している。
私の指先が、そう感じている!のです。
とにかく野口体操資料は、硬軟取り混ぜて、お硬い哲学関係誌から、アダルトな日刊紙・週刊誌まで、色とりどりでした。
“未整理”と書いた紙が貼られている箱があるが、ここまでの分量からしたら、それほど多くはない。
つまり、ようやく一山超えられた。
まず、昨年の九月に始めてから、しばらく遠ざかっていたが、この春に仕事を再開して一週間。
連日のこと、正座で作業を続けていた。
先週末の土曜日クラスでは、思わず「私の人生はなんだろう」と口走ってしまった。今となっては取り消せないが、余計なことを言ったものだ、と反省している。
資料のうち、いちばん古いものは、戦後の混乱期には紙が不足していた昭和の20年代の資料だが、それらは国会図書館と大屋文庫で探し出したコピーだ。
国会図書館のものは、別室の小部屋で閲覧する“持ち出し禁止”の古い雑誌だった。監督する人の目があるところで読み、コピーはその方にお願いする。一般の場所で見ることができない雑誌だった。今でもその時の感触を思い出す。カビの匂いがかすかにして、紙の色は赤茶け、手触りはザラザラで、丁寧に扱わなければ今にも破れてしまう状況だった。
大屋文庫の雑誌はそれほどではなかったが、似たような状態だ。
さて、61年間の月刊誌、週刊誌、機関誌、その他、等々の紙に触れ、製本に触れて、内容はともかくとして、時代とともに材質がよくなっていくのを知った。
なによりも製本は壊れないことを目的としているから、ばらす作業はなかなかに苦労だった。
いちばん大変だったのは教科書、次は分厚い本の代表格『教育をどうする』岩波書店編集部編が極めつけだった。なかなか崩れないのである。崩すことを想定していないのだから当然だ。書籍が誕生した時には、まさかデジタル書籍の時代が来て、自炊する人間が出て来るとは誰も思わない。
ところで、はじめのうちこそ本をばらすことに抵抗感を抱いたが、次第に慣れてしまう。黙々と壊し続けた。黙々とスキャンし続けた。その間、様々な条件の紙に触れ、さまざまな製本をこわし、均一なデジタルに置き換えていく行為は、“機械的でしょ”と言われれば、“そうでもない”と答えてしまう。一つひとつ条件が違うだけに、その都度、新しい気遣いをすることになる。
なかでも雑誌として楽だったのは『AERA』だった。紙もよく、製本も丈夫でありながら手動断裁機で断裁しやすく、スキャンの段階では紙の質の違いで何回かに分けるものの、何ごともなくきれいに送り出されてPCに取り込める。手間のかからない良い子だったのよ!
さて、思いますね。
これから本はどうなっていくのかしら。著者と編集者の本つくりの楽しさも苦労も工夫も奪われてしまうのだろうか。
少なくとも自炊しながらデジタル化する行為は、本の世界をいとおしむ思いからだったが、やっていることは真逆の行為にすぎなかったわけだ。
「願わくば紙の本がなくなりませんように」
デジタル化し終わっていく資料の本や雑誌類の数が増えれば増えるほど、その思いが強くなっていく。
粘土版、パピルス、羊皮紙、甲骨、青銅器、竹、その他、さまざまな材質のものに人は文字を記してきた。
そうした材料のなかでも、紙に記される内容は、聖職者が担う宗教からアダルトな下世話な話まで、それはそれは豊かな世界が築かれている。もちろん言葉だけでなく絵や写真がプラスされて、より一層の豊穣さが、本の文化にもたらされた。
今、バラバラにすることから始まる資料整理の一段落を得て、紙に残された文字や絵や写真が、内容を超えて全ていとおしい。
こうして半世紀の紙の手触りを体験できたことは、条件付きだが、幸せな体験だ。
つくづく思います。
編集者の方々はもちろん、印刷、製本する方々の徹夜の仕事に感謝し感服している。
私の指先が、そう感じている!のです。
とにかく野口体操資料は、硬軟取り混ぜて、お硬い哲学関係誌から、アダルトな日刊紙・週刊誌まで、色とりどりでした。