石原 慎太郎(いしはら しんたろう(旧字体で『石原愼太郎』とも表記されるが、本項ではよく知られている新字体の表記を使用する)、昭和7年(1932年)9月30日 - )は、日本の政治家、小説家。自民党員。現東京都知事、元衆議院議員、元参議院議員。第34回芥川賞受賞作家、現同賞審査委員。戸塚ヨットスクールを支援する会会長。新しい歴史教科書をつくる会に賛同するなど、右派・新保守主義的政治家の代表として知られる。
日本の著名な歌手兼俳優の石原裕次郎の実兄という知名度、強い個性とリーダーシップというイメージから人気が高く、1999年の東京都知事選では有力候補を押さえて大差で当選し、続く2003年の都知事選では史上最高の得票率を得て再選、現在二期目である。主な支援団体は霊友会。
概要
兵庫県神戸市須磨区生まれ。一橋大学在学中の1956年、『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞、文壇デビューを果たす。
1968年に参議院議員に初当選、1972年には衆議院に鞍替え出馬し当選する(以後連続8回当選)。1975年、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬するも落選。その後1976年福田内閣で環境庁長官を、1987年竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年には自民党総裁選に立候補した(海部俊樹に敗れる)。1995年、議員辞職。
1999年、再度、都知事選に出馬。立候補を表明するのが有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康といった有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。2003年には308万票(得票率史上最高)を得て再選を果たした。2006年5月15日「8都県市首脳会議」後の報道陣との質疑で三選出馬を正式に表明した。自民党の推薦を受けていたが、2007年2月22日突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と推薦を辞退することを表明した。
家族は妻と4男(伸晃・良純・宏高・延啓)がいる。趣味はヨット、テニス、スキューバダイビング。
人物像
政治的には新保守主義的スタンスをとる。石原の持ち味とされる、毅然とも倣岸ともとれる態度や、斟酌ぬきの大胆な発言は時に多くの支持を得る一方、近隣諸国の民族・文化を殊更に否定、ないし揶揄する発言が非難を浴びたり、時としてその発言がきっかけとなって訴訟にまで発展するなど、常に要職の地位にありながら舌禍に発展すること枚挙に暇がない。フランスではオーストリアの極右になぞらえて「日本のハイダー」と報じられたことがある。
江藤淳が石原の人物評として遺した「無意識過剰」なる端的なフレーズは、石原本人も「言い得て妙」であるとして、現在では自己の性格を表す際に石原自らが頻繁に用いるところともなっている。その一方で、反石原陣営においては、これまでに石原が惹き起こした数々の舌禍事件を揶揄する際のフレーズとして、この「無意識過剰」がしばしば常套的に用いられることがある。
外国人について
アジア系在日外国人やフランス人、及びそれらの文化を否定・揶揄する発言をしばしば行ううため、フランス語教育関係者は会見を行い猛反発したこともある。2005年の国連人権委員会では特別報告者のディエヌから「外国人差別的な東京都知事の発言に日本政府がどういう立場を取っているのか、説明を求めたい」と苦言を呈されている。また自分の言動に関しては、どんなに非難されても基本的には謝罪をしない。
ジェンダー・性の問題について
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。 男尊女卑の観点をうかがわせる「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です」「きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」という発言をし、裁判に発展している。(いわゆるババァ発言事件)
性の問題については「太陽の季節」などの小説で奔放な性を描き、自著で明かした様にかつて自身もベトナムで買春行為を行うなど自身は自由な性行為を行っており、都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示していて、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない。なおベトナム買春問題に付いては当時相次いでいた買春ツアーと同じ性的搾取ではないかというフェミニストもいる。
都知事として
財政運営面では、財政危機に対応し人件費の圧縮や福祉・教育及び学術研究予算の削減を行うが、「東京から国を変える」をスローガンに自らの発案になる大型プロジェクトや臨海開発事業へは積極的な投資を行うのが石原都政の特徴である。銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、浮遊粒子状物質(SPM)を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億もの都税を投入した新銀行東京の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。一方で、都財政に数千・数百億の損失をもたらすこととなった政策(新銀行東京設立や臨海副都心開発など)や、中途半端な段階のまま進行がみられなかったり断念した政策(横田基地返還、カジノ構想など)も多い。
就任から2007年まで週に2・3日ペースの登庁で、午後からの出勤も多い。知事公館は利用していない(民間に貸し付け)。自身や特別秘書らが飲食代として使った知事交際費の総額が7年間で約1615万円に達したり、四男をめぐる問題などの疑惑もある。
首都機能移転には強硬に反対している。
首都大学東京・新銀行東京・大江戸線・心の東京革命など、作家の感覚からネーミングを提案している。
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、バブル経済崩壊とその後の景気低迷の影響による都税収入の落ち込み、鈴木俊一元知事以来の臨海副都心開発の失敗などにより2006年度末に17兆円を突破しており、都民一人当たりの負債額は約140万円と共に全国最多である。特別会計や監理団体の財政は厳しく、これまで都が運営してきた多くの施設の財団化、もしくは指定管理者制度の導入による民営化を強行している。
都知事として二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とし、知事二期目は東京オリンピック誘致をテコにした大型開発拡大の姿勢を強めている。
臨海副都心開発
鈴木俊一元知事以来の第三セクターによるバブル崩壊後のお台場の臨海副都心開発計画は大赤字を出して行き詰まっていたが、石原知事は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度には第三セクター三社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらにはビルの都による借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年まで)も費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年5月12日には東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発の3社の第三セクターは財政破たんし、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
評価
メリハリの効いた予算編成という見方もある一方で、福祉の削減・弱者切り捨ての傾向、土建屋主導の予算編成であるという批判もある。
十分な準備・調査をせず他人に耳を貸さない強引な手法が仇になることが少なくなく、その政治手法には疑問の声もある。
二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約としているが、2008年北京オリンピックのすぐ後にまたアジアが選定される可能性は今までのオリンピック史からもほとんど有り得ないので、単なるゼネコン票対策の税金の無駄遣いだと批判を受けている。
側近であった浜渦武生を東京都副知事に据えた際に専横を許してしまったこと、内規を越えた高額な外遊費を使っても全く悪びれないこと(→都政の私物化問題)、四男で画家の石原延啓に東京都の仕事を回したこと(直接口利きをしたことも2006年12月16日のテレビ生出演で認めた)など、公私混同あるいは身内厚遇(縁故採用)の傾向も否めず、常に論争の種となっている。
首都大学東京開学に関して旧都立大関係者から批判を受けている。
東京都の職員のみならず国の職員や東京都民からも「石原都政となってからは周囲に目を配らず、上ばかり見て仕事をする人間が増えた」という声があり、権力構造が強化され組織がより硬直化・官僚主義化したとされる。
国民的人気に裏打ちされた巨大な集票力や、親米保守系企業グループであるフジサンケイグループのバックアップを背景とした強力な指導力は、短期間での政策実現を可能にする一方で、極端なトップダウン構造でボトムアップの意見集約が機能しないという非民主主義的な弊害も生んでいる。
事業の状況を限らない外形標準課税の導入に関する政府・国会内の議論を活発にし、また地方の財政問題に関する問題意識を高めたとの評価もある。
首都機能移転反対に関して、1990年に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、当時から衆院議員として反対していたと述べたが、新聞社の写真により実は採決で起立し賛成していたことが発覚し、矛盾点を批判された。(→エピソード)
不透明な政策・私物化疑惑
トーキョーワンダーサイト
新進・若手芸術家の育成を図る目的で「トーキョーワンダーサイト」を設立。既成の都文化施設では石原都政下予算を4~5割減らしたのに対し、新しく設立されたトーキョーワンダーサイトは予算が8倍以上増え、現在最も多額の予算を割り当てられている文化施設となっているが、家族や知人を運営に参画させたり事業計画・予算決算が不透明であるなど、公私混同の疑いを指摘されている。
海外出張旅費
2006年11月、「海外出張旅費の支出が条例の規定を大幅に上回る多額であること、それらが私的観光で妻の旅費も公費で負担させていたこと、それと四男が都の外郭団体の委嘱を受けて海外旅行をした」ことがしんぶん赤旗に掲載され、トーキョーワンダーサイトの問題も含め「不明瞭な支出、同族経営」と批判を受ける。定例記者会見でこれに対し「報道は共産党の情報操作によるものだ」と反論。一部の記者から「我々は共産党の尻馬に乗って報道しているわけではない」と応酬された。この件は朝日新聞・東京新聞も疑問を提し続けている。
東京マラソン
石原慎太郎主導で2007年から始まった東京マラソンに関して、石原慎太郎の次男である石原良純はフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。石原良純は今回の出演を依頼される以前に石原慎太郎都知事から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ。」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている。石原都知事の身内からの起用に関して、都知事とフジテレビとの不透明な関係性を批判する声がある。
エピソード
1983年の衆議院議員総選挙の時には東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、その秘書は現行犯逮捕された(いわゆる黒シール事件。政治家の常で、石原本人の関与の有無は明らかとなっておらず秘書のせいだということになっている)。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行うに至っている。
毎日新聞(1999年3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか。」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答える。しかし、後に都知事として国旗と国歌を徹底していく。
2001年3月九州新幹線に対し「不良債権」「一握りの政治家の利益誘導」「常識で考えたって採算が合うわけない。文句言っている知事が八代から鹿児島まで毎日毎日,新幹線に乗ったらどうか」「博多から鹿児島まで造るなら分かるが,鹿児島からとりあえず八代まで造ろうとしている」等批判を繰り返すが田中 JR九州社長に「石原都知事が運輸大臣だった時に決まったことで, 自分が決めておきながら批判するのはいかがなものか」といわれてしまう。
ベトナム戦争の「クリスマス停戦(トルース)」をサイゴン市内から一歩も出ずに取材。ベトナムでの経験をきっかけとして政治への参加を考えるようになる。また、現地で買春をしたことを著書『国家なる幻影』で告白した。
2001年11月21日の衆院の「国会等の移転に関する特別委員会」に参考人として出席し、1990年11月7日の「国会等の移転に関する決議」への賛否について、「私は終始反対でありました。」と述べ、また「私は金丸さんの割と近くに座っていまして、金丸さんが、おい、石原君、君反対かいと言うから、私は反対ですなと言って座った。」と明言したが、衆議院本会議の起立採決を撮影した新聞写真には起立している石原慎太郎が写っており、嘘を付いているのではないかと特別委の永井委員長から指摘、「大変遺憾なことである」と強く批判を受けた。
年譜
1932年9月30日:兵庫県神戸市須磨区に山下汽船に勤める父・石原潔、母・光子の長男として生まれる。父・潔は愛媛県の長浜に生まれ旧制宇和島中学(現・宇和島東高校)を中退後山下汽船に入社、店童(商店で言えば丁稚)から出発し関連会社とはいえ重役に出世した人物。母・光子は広島県宮島の出身(出生地は大阪市)。
1934年12月:弟・裕次郎が生まれる。
1936年6月:父・潔が小樽出張所主任となり北海道小樽市に転居。
1943年1月:父・潔が小樽支店長となる
1943年2月:父・潔が東京支店副長の辞令を受け神奈川県逗子市に転居。石原一家が逗子で最初に住んだ桜山の家は山下汽船創業者山下亀三郎の別邸。
1945年4月:神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
1949年:1年間、休学する。この頃描いた絵を「ゴーギャンさえも驚愕する名作である」と自賛。公式サイト内では「石原の迸る感受性の果実」と紹介している。
1951年10月:父・潔が脳溢血で急死。元々は京都大学フランス文学科に行くつもりであったが、父の上司の助言により公認会計士を目指し一橋大学を志望する。
1952年4月:一橋大学入学。簿記や会計学などの勉強に励んだが半年間やってみて向いてないと悟り公認会計士になることを断念する。
1955年12月:当時18歳だった石田由美子(広島市己斐町(現・西区己斐)生まれ。後に典子と改名)と結婚。由美子は小泉純一郎と縁戚になる(由美子の従兄弟の子にあたる美枝子が純一郎の実弟・正也と結婚した)。
1956年1月23日:弟・裕次郎の放蕩生活に想を得た『太陽の季節』により第34回芥川賞を受賞。史上最年少受賞(当時)。ベストセラーとなり、「太陽族」、「慎太郎刈り」が流行となる。
1956年3月:一橋大学法学部を卒業(法学社会学部に入学した。在学中に学部改組が行われ法学社会学部が法学部と社会学部に分離し、法学部を卒業)。
『太陽の季節』が日活で映画化され、当時無職だった弟・石原裕次郎が日活俳優としてデビューする。また自らも映画初出演を果たす。
1957年4月19日:長男・伸晃が誕生。
1958年:東宝で映画「若い獣」の監督を務める。
1962年1月15日:二男・良純が誕生。
1963年3月:『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
1964年6月19日:三男・宏高が誕生。
1966年:四男・延啓が誕生。
1967年:読売新聞社の依頼で、ベトナム戦争を取材。
1968年7月:自由民主党から参議院全国区(当時)に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。
1969年11月:『スパルタ教育』を光文社より出版。 子供はスパルタのように厳しく育てろと説いた。
1972年12月:参議院議員を辞職し衆議院選挙に東京2区から無所属で出馬して当選。後に自由民主党に復党
1973年7月:渡辺美智雄、中川一郎、浜田幸一らと憲法改正や金権政治の打破を謳ったタカ派集団「青嵐会」を結成。
1975年4月:現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選に自民党推薦で出馬。233万票を得票するも落選。なおこの落選については公式サイト内では全く触れられていない。
1976年:福田赳夫内閣で環境庁長官に就任。
1983年:自由民主党の派閥、中川派を継いで石原派の代表となる。
1983年:黒シール事件によって新井将敬の選挙活動を妨害し野村秋介より抗議を受ける。
1987年7月17日:弟・裕次郎が肝細胞癌で逝去(享年52)。
1987年11月:竹下登内閣で運輸大臣に就任。
1989年8月:亀井静香らに推される形で自民党総裁選に出馬するも竹下派が推す海部俊樹に敗れる。 『「NO」と言える日本』を盛田昭夫と共著で出版。
1990年:総選挙で伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
1995年4月:国会議員在職25年表彰の国会演説で突然の議員辞職を表明。
1996年:弟の故裕次郎をテーマに『弟』を発表。
1999年4月:再度、都知事選に出馬。立候補表明の記者会見での第一声の、「どうも、石原裕次郎の兄です」と言う挨拶ギャグが話題を呼ぶ。有力候補がひしめく中、166万票を得票して当選。
2003年4月:308万票(得票率史上最高)を得て、東京都知事に再選。
2004年:「弟」テレビドラマ化。
2006年5月14日:フジテレビの討論番組「報道2001」に生出演し、「オリンピック招致を言い出した以上、やらないわけにはいかない。それまで体力がもつかなあ」と発言し、2007年4月の都知事選への3選出馬の意向を示した。
2006年12月7日:都議会本会議で2007年の都知事選への出馬を正式表明。
2007年2月16日:記者会見で既に決定している自民党の推薦を受けるつもりのない事を明言。
(Wikipediaより)→
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F%E6%85%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E
どこまでが真実か分からないが、パワフルであり、実行力もある。しかし、その発言が強い批判を受けている。経歴・エピソードを読んだ限り、僕が気になったのは、僕と同じ「神戸市須磨区生まれ」という事がいちばん印象に残った。
出版社/著者からの内容紹介
戦後の青春はこの1冊から始まった。ドラマ化で話題の表題作のほか、伝説の名作「乾いた花」全面改稿決定版、あとがき「青春のピュリティ」、「処刑の部屋」、「完全な遊戯」、「ファンキー・ジャンプ」を収録。



