藤堂 高虎

2017年05月16日 | 近江の思想

   

☑ と

作成日:2017.05.16|更新日: 

♞ 藤堂 高虎    

☑生誕:1556 ~ 1630/近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀
        県犬上郡甲良町在士)

☑略歴:土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・
    高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主
    であったが、戦国時代にあって没落、帰農する。
    幼名を与吉と名乗った、☈その後、浅井長政に
    仕え、1570年15歳)姉川の戦に浅井方として出
    陣し功を立てる、☈1573年 (18歳)浅井長政
    の元を去り、同様に長政に見切りをつけて織田
    信長についていた阿閉貞征に仕え、3ヶ月で見
    限り、同じ信長方の磯野員昌に仕える、☈
1576
    年(21歳)
磯野員昌の元を去り、羽柴(豊臣)
    秀吉の弟、羽柴(豊臣)秀長に仕え、
信長の安
    土城築城に参加し、このとき築城術を学ぶ、☈
    
1577年(22歳)中国の毛利家攻略にあたるべく
    主君羽柴(豊臣)秀長とともに播磨国に赴任。
    
豪族を調略に成功、☈1580年(25歳)播磨国の
    三木城兵糧攻めに参加。
1582年(27歳)山崎の
    戦で、秀長の先鋒をつとめ功を立てる。
1583年 
    (28歳)
賤ヶ岳の戦で、柴田方先鋒の佐久間盛
    政を敗走させるなど活躍。
1584年(29歳)
    牧・長久手の戦で、伊勢国松ヶ島城攻めで功を
    立てる。
1585年(30歳) 紀州攻めでも活躍。
    水軍で有名な熊野党に知己を待つ。
主君豊臣秀
    長が紀伊国と和泉国の領主になり、和歌山城の
    普請奉行に。
四国攻めで貢献、☈豊臣秀長が大
    和国も拝領し110万石の大大名になると、1万石
    を拝領。1587年(32歳)九州攻めで貢献。1591
    年(36歳)豊臣秀長の死により、養子の豊臣秀
      保が家督を継ぎ、高虎も家老に。☈1592年(37歳)
    文禄の役では朝鮮へ渡海。1594年(39歳)豊臣
    秀保の変死により出家、高野山へ。
その後豊臣
    秀吉に呼び戻され、伊予国板島(現在の宇和島)
    7万石を拝領、丸串城(宇和島城)主に。
その
    後大洲城を居城に。
1597年(42歳)慶長の役(
    第二次朝鮮出兵)では、朝鮮水軍に勝利活躍。
    
1598年(43歳)帰国後、板島丸串城を改修し、
    宇和島城と改称。
豊臣秀吉の死後、徳川家康に
    接近、
☈1604年(49歳)今治城を築城。1608年
    (53歳)伊賀国一国と伊勢国8郡、合計23万石
    に加増の上転封、伊勢国津藩主に。津城を居城
    に。伊賀上野城を大改修し、日本一の高石垣や
    5重の天守を築く、☈1614年(59歳)~ 二度
    の大坂の陣(大坂冬の陣、大坂夏の陣)でも、
    徳川方として参戦。戦後は、徳川家康を守った
    功により32万石に加増される。1620年(65歳)
    徳川和子の入内の際、その露払いをつとめる。
    1630年(75歳)死没。

☑ プロフィール

藤堂高虎は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・
大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。
藤堂家宗家初代。何度も主君を変えた戦国武将として知
られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・
津城・伊賀上野城・膳所城などを築城し黒田孝高、加藤
清正とともに名人として知られる。高虎の築城は石垣を
高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反
りを重視する加藤清正と対比される。



✔ 江戸時代の設計者 異能の武将・藤堂高虎

伊予藩主・藤堂高虎は外様大名としては異例の信頼を幕
府から得た。それは彼が日本で初めて「藩」を構想しえ
た政治家だったからだ。司馬遼太郎に「世渡り上手」と
酷評された藤堂は、身長190センチメートルの偉丈夫にし
て、きめ細かな築城術にたけたテクノクラート。しかし、
彼がもっとも評価されるべきは、豊臣時代の中央集権に
限界を見出し、地方分権国家を構想して近世の扉を開い
たことにある。


☑ 平和志向のサバイバー高虎
 

近江国(滋賀県)出身の戦国大名は、たくさんいる。か
かわりを持ったという意味でいえば、
織田信長を筆頭に
豊臣秀吉、その甥の秀次、そして明智光秀などもそうだ
しかし、純粋に近江国出身者にかぎっていえば、次のよ
うな人々だ。浅荘長政、長康正家、
蒲生氏郷、石田三成、
片桐且元、増田長盛(尾張出身という説もあ否、木村重
成、藤堂高虎など
だ。多少歴史に関心をお持ちの方はす
ぐお気付きだろうが、この中で、藤堂高虎は最後まで生

き残った人物の一人である。他の大名は滅びてしまった。

藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現在の甲良町)の出
身である。甲良町には、八幡神社があっ
て、そこに見事
な藤がある。幹の大さが1メ
ートル近くで、棚までの高
さが約三メートルある
という。毎年、美しい花を咲かせ
る。この藤は、高虎から八代前の藤堂景盛が、石清水八
幡宮
にあった藤を二株もらってきたのがはじめで、藤堂
という姓も、この藤にちなんだのだといわ
れている。 

藤堂家では、高虎以後代々八幡神社に維持費を寄進した。
そのため、八幡様のほうでは、毎
年藤の花が咲くと、一、
ニ房を必ず藤堂家へ献上するという。藤堂家では、この
花を見ながら
藤見の宴を行うのが例になっていて、しか
も、このならわしは現在も続いているという。

このように、藤堂高虎を始祖とする藤堂家は、現在も連
綿として続いている。多くの戦国大
名が滅びてしまった
のに、藤堂高虎だけが、なぜ見事に生き抜いたのだろう
か。しかも彼は、
伊達政宗とともに、戦国期を生き抜い
たサバイバーとして、外様大名の中では、徳川幕府の重
鎮としての位置を占めた。藤堂高虎と伊達改宗の二人だ
けが、徳川時代に入っても、三代目の
将軍家光の頃まで
生き抜いたのである。

         ―― 中略 ――

彼が平和を願っていたというのは、近江国に生まれ、近
江国で育ったためである。近江国は、かつては佐々木源
氏が四〇〇年にわたって支配していた。ところが、織田
信長によって佐々木氏の本宗、六角氏が滅ぼされると、
その後近江国には際立った大名が育っていない。そのた
め、近江の民衆は放置され、戦国大名の渫頚する中を逃
げまどった。だから、日本列島の中でも近江の民衆ほど、
「早く戦争が終わって、平和な生活を営みたい」と願っ
た人々はいない。

藤堂高虎は、近江の民衆を通じて、そのころ生きていた
日本の戦国民衆のニーズを知っていた。そのニーズの最
大のものは、「早く日本を平和にしてほしい」というこ
とであった。農村は戦国大名に踏み荒らされ、また町は
放火で焼かれる。いつも生命と財産が不安だ。生きてい
る空がない。そんな思いを早く終わらせて、家族と共に
平和で豊かな生活を営みたいと願うのは、いつの時代で
も同じである。藤堂高虎は、そういう民衆のニーズの実
現をほかっていた。

その意味では、彼がやりたいことを実行するうえで、戦
争に強い大名という評判を立てられるよりも、平和を願
う大名だといわれているほうが、よほどよかった。高虎
はそういう路線を狙っていた。したがって、それまでの
戦争に大した勲功を立てず、また朝鮮侵略で連戦連敗を
重ねたことは、彼にとっては決して不名誉ではなかった
のである。

徳川家康もまた、いろいろいわれているが、究極的には、
「日本を一日も早く平和にしたい」と願う大名であった。
心の底にあるそういう願いで、徳川家康は、藤堂高虎こ
そおれと同じ志を持つ大名だという判断を下したのであ
る。だから、徳川家康と藤堂高虎の一面だけをとらえて、
「彼らは、互いに狸おやじとしての謀略性を認め合って
仲が良かったのだ」と考えるのは間違いだ。戦国大名の
中でも、徳川家康ほど平和を願った大名はいないし、ま
た藤堂高虎ほどその徳川家康の志を見抜いていた者もい
なかったのである。

徳川家康の指示によって、藤堂高虎は見違えるような仕
事をした。見違えるような仕事をしたというのは、合戦
は連戦連敗だった彼が、見事に日本軍を全員朝鮮から日
本に引き揚げさせたのである。このあざやかさは、人々
の評判になった。高虎は満足だった。それは、はじめて
自分の得意な能力を人々が認めてくれたという実感を持
てたからである。

      童門 冬二 「歴史に学ぶ生き残りの戦略」


順序は前後するが、童門は、藤堂高虎の特徴(特異性)
を以下のように挙げている。蓋し優れた見識であろう。

✓平和志向者であった。
✓時の流れを見抜く力を特っていた。つまり、時代に対
 する予見力を持っていた。

✓パフォーマンス(自己表現)志向が強かった。
✓目的に対する自分の能力の不足をよく認識していた。
 したがって、その不足分を他人の能
力によって補った。
✓自分の能力不足を補うだけでなく、特別技能者の組織
 化、集団化が得意だった。その特別
技能者も、どちら
 かといえば社会の底辺や陰に生きる者を組織した。組
 織しただけでな
く、そういう社会の底辺や陰に生きる
 特別技能者に、市民権を与えてこれをひなたに出し
た。
 たとえば、大工、石工、忍者などである。

✓かなり謀略姓に富んでいたが、主人に対する忠誠心は
 無垢で堅かった。

✓人の使い方が抜群で、情のかけ方が際立っていた。 

♚ 名言集

♟つねに良き友と咄(はな)し、異見を請け申すべく候
 
♟武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ

♟寝屋を出るより、その日を死番と心得るべし。かよう
 に覚悟をきわまるゆえに、ものに動ずることなし


【エピソード】    

 

【脚注及びリンク】
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  1. 藤堂高虎ふるさと館 観光拠点、いざ開業 地元食
    材の喫茶・食事所も 甲良 毎日新聞 2017.05.06 
  2. 戦国を武勇と知略で切り開いた武将 津藩祖 藤
    堂高虎 
  3. 高山公実録 藤堂高虎伝 全2巻 
  4. 戦国大名 藤堂高虎の故郷で古民家を再生し「農の
    暮らしと歴史」を伝えたい! - FAAVO滋賀 
  5. 上野東照宮と藤堂高虎の墓 
  6. 藤堂 高虎 Wikipedia 

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