穴太衆

2017年07月24日 | 近江の思想

   

☑ あ

作成日:2017.07.249|更新日:


 ♞  穴太衆(あのうしゅう)

☑誕生:織豊時代大津市坂本穴太周辺に居住した技術者集
    団

☑分野:石工/土木・建築工事

☑略歴:日本の近世初期にあたる織豊時代(安土桃山時代)
    に活躍した、石工の集団

❏ 概説

穴太衆は、織豊時代(安土桃山時代)に活躍した、石工の
集団。主に寺院や城郭などの石垣施工を行った技術者集団。
石工衆(いしくしゅう)/石垣職人(いしがきしょくにん)
と称される。古墳時代(3世紀末-7世紀)に大陸から渡
来し、比叡山麓(さんろく)の大津市穴太あたりを本拠と
した石工集団がルーツとされる。「穴太」の歴史的仮名遣
での読み仮名は「あ
なふ」。穴太衆は、近江の比叡山山麓
にある穴太(穴太ノ
里[あのうのさと]と俗称され。現在
の滋賀県大津市坂本
穴太。延暦寺と日吉大社の門前町・坂
本の近郊)の出身で、
古墳築造などを行っていた石工の末
裔である※6。

寺院の石
工を任され、高い技術を買われて、安土城の石垣
を施工し
たことで、織田信長や豊臣秀吉らによって城郭の
石垣構築
にも携わるようになる。以降は江戸時代初頭に到
るまでに
多くの城の石垣が穴太衆の指揮のもとで作られ、
彼らは全
国の藩に召し抱えられ、城石垣等を施工するよう
になる。諸説あるが、西日本を中心に現存する全国の城の
およそ八割を手掛ける。
現代でも、坂本の町に多数立ち並
ぶ「里坊(さとぼう)」
と呼ばれる延暦寺の末端の寺院群
は、彼らの組んだ石垣で
囲まれ、町並みに特徴を与える。

※ 延暦4年(785年)に延暦寺を創建した伝教大師・最澄
  は,俗名三津首、後漢献帝の末裔,登万貴王の後と伝
  える志賀の漢人の子孫である渡来氏族である。また出
  生地とされる古市郷は、現在の大津市膳所,石山付近
  とされているが,古くからの伝承では東坂本とされ、
  最澄と穴太氏との繋がりがあったと考えられている。

  「続正法論」によると、南北朝末期の応安元年(1368
  年)8月25日,延暦寺の衆徒が万所集会(寺内の諸般議
  決機関)を開き,28日に御輿を担いで入洛することを
  決定するが、京都側の西坂は大変険阻で通りにくいの
  で、 坂道を修築するよう穴太のの民に重ねて厳し
  く命令するように決議している。



  上記のことから、穴太氏が穴太衆積みの起源である横
  穴式石室墳の石室作りにたずさわり、その後最澄とと
  もに比叡山に登り土木工事を請け負うの民である
  技術者集団として結び付き各種堂塔伽藍の造成。基礎
  石垣,登山道の土留石垣,水田整備にともなう石垣畦,
  井戸の構築等を通じて穴太衆と呼ばれる職能集団を形
  成していったということが推測される(上写真)。

  
穴太衆が石工として最初に史料の上に登場するのは、
  京都吉田社の神官であった吉田兼見の日記「兼見卿記」
  であり、安土桃山時代天正5年(1577年)9月24日の条
  築という仕方があり古くから五輪塔の切出し加工を行
  っていたこと、そして天正4年(1576年)安土城築城に
  際し、穴太より石工が呼ばれ石垣築を行い、その技術
  が諸国の築城にも用いられ、次第に石垣作りが上達し
  五輪塔作りを止めて石築を専業とするようになり、以
  来諸国では、石垣築者を穴太といい、さらに技能者を
  穴太手筋の者、石垣を築く役人を穴太役と呼ぶように
  なったことなどを知ることができる。


  安土城普請や,醍醐寺清滝権現の寺社普請等の実績に
  より、文録2年頃には筑後,三河という受領名をもつ城
  郭石垣築成者として認められ,江戸開府後は穴太頭の
  制度ができ上がり活躍するようになる。※2

 

● 穴太積

穴太積(あのうづみ、穴太積み)は、野面積(野面積み)
を指して昭和初期以降に用いられるようになった俗称であ
り、穴太衆が手がけた野面積の石垣
。野面積のことを穴太
石垣と誤解されることもあり、
穴太衆は石垣職人であり、
実際は玉石積や切石積も行えている。諸家として、後藤家
や栗田家がある。✪石垣職人としての後藤家の始まりは、
後藤基次(又兵衛)が加藤清正からしばしば伝授を受け
石垣始秘伝抄』の「城取りの石垣の事」に顕れ、又兵
衛が大坂夏の陣で討死にする。夏の陣の前に又兵衛は異母
兄弟の初代後藤杢兵衛に対し、『石垣根元抄』として、元
和元年(1615年)4月に伝授する。この書は元和8年(1622
年)以来家宝とし、一子相伝の他これを許さずのもの也と
し以後、後藤家最大の財産として残される。後藤家が関わ
った石垣に加賀藩金沢城がある。✪粟田家は、会社組織と
して存続し、十三代目から株式会社粟田建設を興し、2005
年(平成17年)現在は十五代目が活動を行う。北垣聡一郎
の『近江の石垣築成者 穴太衆』(昭和51年(1976年))
によれば、粟田氏の話として、「先祖は阿波国から来た」
と伝たえられている。※1

穴太衆が石の組み方を考える際には、石の集積場に行き、
たくさんの石の周りを1、2日かけて周りながら、ひとつ
ひとつ違う石の性質を把握し、頭の中に配置を組み上げる
「石の心の声」を聞くことができる職能集団。穴太衆積の
技法は今日まで、口伝継承され、秘伝というよりは、文字
に表現が難しい。穴太衆は石の目利きであり、独特の空間
認識能力を備えた職人の集まりである。粟田建設 ※6は穴
太衆の末裔であり、安土城、彦根城、竹田城跡などの石垣
修復を手掛けてきた。巧みな技術で、現代建築への応用に
も貢献する。

※ 穴太積とは山石の野面石をあまり加工しないで積んだ
  石積。


※ 難攻不落の名城と言われた熊本城が、昨年4月の熊本
  地震で大きな被害を受けた石垣の修理について、前出
  粟田建設社長は、石垣は何度も修復を重ね、ある時期
  に直した箇所がごっそり崩れ落ちた可能性が高いので
  はとし、穴太衆が関与していない工事もあるはず、と
  指摘。言外には「穴太衆の技なら、一部の石が落ちて
  も石垣は崩壊しない」と自負をのぞかせている。※4


加州金沢城の石垣修築

また、甲賀市甲南町から水口町にかけての県立自然公園を
通る新名神高速道路で西日本高速道路大津工事事務所が、
自然環境との調和などを狙い穴田積の採用を考えた際、現
代建築に適用可能か実証実験――京都大学大学院による穴
太衆積とコンクリートブロックによる擁壁を並べて最大荷
重250トンの負荷試験――の結果、荷重200トン時点
でコンクリートブロックの方が先に亀裂が入るものの荷重
230トンでコンクリート崩壊のおそれがあり実験中止す
る。
この結果を踏まえ工事現場から出土した花崗岩などを
再利用した高さ3.5メートル、長さ260メートルの石
垣が同区間へ採用される。※7



☑ ご

作成日:2017.07.249|更新日:



 ♞  後藤基次(ごとう もとつぐ)

☑誕生:『大日本史』などによると、永禄3年(1560年)に
    播磨国姫路近郊の神東郡山田村に別所氏家臣で、
    後に小寺政職の下にいた後藤新左衛門の次男とし
    て生まれ、慶長20年(1615年)没
☑分野:武将/石垣職人

☑略歴:後藤基次は、安土桃山時代から江戸時代初期の武
    将。黒田氏、豊臣氏の家臣。通称は後藤又兵衛。
    黒田孝高(如水)、黒田長政、豊臣秀頼に仕え、
    数多くの軍功を挙げ、江戸時代に、「黒田二十四
    騎」「黒田八虎」、また大坂の陣の講談や軍記物
    語などで豪傑な英雄として描かれ、「大坂城五人
    衆」の一人に数えられた。
 

 

【エピソード】    

    

奈良/平安時代の日本仏教思想と安土/桃山時代武家政権
の興隆がこの滋賀の地で独自の石垣普請を発展させクロスオ
ーバーさせてきた無形文化財だと考える。

【脚注及びリンク】
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  1. 穴太衆 Wikipedia 
  2. 穴太衆石積みの歴史と技法 福原成雄 
  3. 近江古事風物誌 高橋 真名子
  4. 石積み職人集団「穴太衆」の末裔が語る「熊本城」
    修復にかかる課題とは!AERA dot. 2016.4.17
     
  5. 坂本と穴太衆積み 
  6. 株式会社粟田建設 公式HP  
  7. 新名神に穴太積み 歩道沿い石垣採用 コンクリ強
    度上回る 京都新聞 2008.02.03 
     
  8. 滋賀県出身の人物一覧 Wikipedia    

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