Iさんが、4月7日に動いていた話を記事にしていました。
🐶 4月7日に
https://blog.goo.ne.jp/nonahouse/e/fbcaa8074d1c8d0af3a25f28a36e5719
今思えば、平成から令和へと、世継ぎの為だったのかと、4月の私達の動きのことを思います。
Iさんは、7日に平将門の首塚から筑土神社、そして愛宕神社に行っていました。
4月14日は、なかなか集まることが出来ない、ソラタマ会(Iさん、K会長、いくちゃん、みこちゃん、みゆきちゃん、私)と、久しぶりだったSさんとみゆきちゃんの赤ちゃんのあかりちゃんが、熱海の私のマンションに集まりました。
4月21日は、1年以上ぶりに「魂の会」を初島で開催しました。
そして、4月28日はIさんとみこちゃんと私が、品川で会って羅臼に行く日程を決めていて、レムリアの妖精のリンダが話してきました。
日曜日ごとに、何だかイベントだったのは元号が代わった5月1日に向かってのことだったのではないか?とやっぱり思ってしまうのですね。
今年は令和元年となり、私は昭和で30年、平成で30年生きてきましたが、令和で30年を生きることが出来るでしょうか。
今や、人生100年時代と言われますが、神様達の言う通り死が別つまでは、がんばっていこうと思います。
5月5日に話してきたのは、平将門でした。
4月7日の続きになっているのですね。
上記の4月7日の記事の平将門の話を抜粋します。
そして、次の日に話してきたのは、平将門でしたが、いきなりでした。
友達の輪が広がることは、嬉しいことだ。
どなたですか?
平将門だ。
昨日、Iは私が言った通りに行ってくれたな。
はい。がんばっていました。
世継稲荷は、これからのことを託したいからだよ。
福壽稲荷は、虎ノ門の要だからな。
「久保田萬寿」ありがとうと伝えてくれ。
問題はないから、突き進んだらいいよ。
たまに、熱海に行ったらいいよ。
M子は、いい買い物をしたよ。
宝のような温泉だったということだな。
足も治っただろう。
友達の輪が広がることは、嬉しいことだ。
どなたですか?
平将門だ。
昨日、Iは私が言った通りに行ってくれたな。
はい。がんばっていました。
世継稲荷は、これからのことを託したいからだよ。
福壽稲荷は、虎ノ門の要だからな。
「久保田萬寿」ありがとうと伝えてくれ。
問題はないから、突き進んだらいいよ。
たまに、熱海に行ったらいいよ。
M子は、いい買い物をしたよ。
宝のような温泉だったということだな。
足も治っただろう。
抜粋終わり
そして、5月5日の話です。
平将門だ。
4月7日にIは、私が言った通りに動いてくれたな。
関東の武将は、天皇にあまりいい感情を持っていなかったからな。
私は新天皇を名乗ったが、坂東武士の願いだったのだよ。
坂東武士を調べてみると、
🌟坂東(坂東八箇国または関八州)とは、現在の関東1都6県とほとんど同じ地域を指します。
この地はかつては大和朝廷による支配の東の果てであったので、「坂東」は広くは奥州も含む東国の意味でも用いられます。
坂東武者(あるいは坂東武士)は、この地で活躍した強者たち、武骨で頼もしく、命よりも名を惜しんだ武士たちです。
この地はかつては大和朝廷による支配の東の果てであったので、「坂東」は広くは奥州も含む東国の意味でも用いられます。
坂東武者(あるいは坂東武士)は、この地で活躍した強者たち、武骨で頼もしく、命よりも名を惜しんだ武士たちです。
桓武天皇の血を引く高望王(たかもちおう)は臣籍に降下して平高望(たいらのたかもち)と名乗り、国司として赴任した上総国で武士団の勢力を拡大しました。
平将門(903年?-940年)はその孫ですが、父の死をきっかけに相続争いをし、925年叔父である平国香を殺害して禁獄、いったんは許されます。
しかし、平貞盛ら親族との対立は続きます。
しかし、平貞盛ら親族との対立は続きます。
彼は下総・猿島(さしま)郡で自分の武士団を組織する一方、重税を課す国司の横暴から農民を守り、原野を開墾して農地を拡げ、鉄製の農具を普及させるなどし、農民たちから敬愛されていたようです。
また、馬上から使いやすいように刀の刀身を反らせて、日本刀の原型を作ったのも将門だとされています。
平将門は関東八カ国の国府を次々に攻撃、国司を追放して代わりに自分の仲間を任命しました。
東国の独立をもくろみ、「新皇」と名乗ります。政権の根拠として、八幡大菩薩から天皇に任命されたと語ったともいわれます。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し鎮圧の為に派遣しますが、朝廷軍が到着する前に地元の武士、藤原秀郷と平貞盛との戦いで、戦場で流れ矢を額に受けて絶命したと伝えられます。
朝廷は藤原忠文を征東大将軍に任命し鎮圧の為に派遣しますが、朝廷軍が到着する前に地元の武士、藤原秀郷と平貞盛との戦いで、戦場で流れ矢を額に受けて絶命したと伝えられます。
ということで、私の昨年のBirthday Partyの時に、なぜ行ったこともない立川の阿豆佐味天神社(あずさみてんじんじゃ)に行ったのかということに繋がります。
この神社を創建したのは、平将門の祖父である高望王だからですね。
続きです。
力のある武士は、制定するために使われた。
名誉のために戦うというのは、乱暴な話だったのだ。
私は幼い頃から、疑問に思っていた。
国家はひとつだけではなくて、いいのではないかと思っていた。
古くは、東北の人達も酷い目にあっていたな。
世の中は、土地の奪い合いになっていった。
太平になるためには、搾取だけではダメだろう。
私は、今はいい機会だと思う。
天皇は、国民のためにいることを、アキヒトは身を持って示していた。
だから、国民が納得する形の退位が出来たと思う。
アキヒトが、戦争の中で考えたことだろう。
戦争は、何も生まないよ。
私の首塚に集まってくる「無念の念」が残ってしまったのは、私というより、周りの思いだからな。
Iは、わかってくれたな。
出世階段を駆け上がっていたよ。
お疲れ様だった。
ありがとう。
カラスに攻撃されても、怯まなかったよ。
龍神が助けていたからな。
味方が沢山いて、良かったな。
そう言えば、4月7日に「イカ」が欲しいと言いましたよね。
「イカ」と言ったよ。
葉っぱが落ちてきただろう。
ハッパロクジュウシだよ。
ハッパロクジュウシ(8×8=64)ですか?
いた魂達だよ。
最後はダジャレか?でしたが、Iさんは首塚で落ちてきた葉っぱをイカと共に、ずっと持って神社を巡り、今葉っぱはお家にあるとのことでしたよ。
Iさんからの📩
葉を矢の下に置いた直後のエゲツない空模様と虹と太陽。
家のそばの公園で撮った。