前々回6月2日の記事「剣山(つるぎさん)の神様」の中で、私とIさんのやり取りの続きの話です。
抜粋すると、
満濃池(まんのういけ)にツナの龍神の奥さんはいたみたいと言ったら、Nさんが行ってくれて写真を送ってくれたの。
ブログの四国のNさんは、竹生島(ちくぶじま)に呼ばれてるのー
そうなの?
そーだな。
ま、ねーさんだから神様にきいてみたらどーかな。
次の日(5月10日)の朝に、振り子を持つと、話してきたのは、Iさんが言っていた竹生島の弁天でしたが、いきなりだったので、やっぱり驚きました。
Nは、私が呼んでいますよ。
どなたですか?
竹生島の弁天です。
なぜ、呼んでいるのですか?
近くに弁天がいるでしょう。
多分そうみたいですね。
私の代わりにいるのですよ。
時間が出来たら、来てくださいと、伝えてください。
私は、Nさんの📩の中に、弁天様の話があったことは、覚えていましたが、詳しくはよくわからなかったので、今一度📩を見直して、彼女が丁寧に貼り付けてくれた資料を読んでみました。
初めはNさんの「シドの神の話」の最後に入れていたことだったのかと、今下書きをしながら思っています。
抜粋すると、
最後に、余談ですが実家のあるさぬき市には志度(シド)という街があり「死渡」が語源だという説があります。
地理的には香川県の東部に位置し、鳴門にもそう遠くないし、ふと「死渡」ってアトランティス?根の国の入口?とブログを読み始めて思いました。
ここは藤原の不比等さんにまつわる「海女の玉取り伝説」(龍神さんに宝物の玉を奪われた不比等さんが身分を隠して奪還のために訪れ、当地で恋仲になった海女さんが命がけで龍神さんのもとに玉を取り返しに行く)もある土地です。
彼女が貼り付けてくれた物語を記してみます。
「海女の玉取り物語」は国の重要文化財の「志度寺縁起」第二巻『讃州志度道場縁起』に記されている伝説です。
それはおよそ1300年前…大化の改新を成し遂げた藤原鎌足の息子・藤原不比等(ふじわらのふひと)は自分の妹を、現在の中国にあたる唐の高宗行程に嫁に出し、高宗妃になった妹から宝玉『面向不背の玉(めんこうふはいのたま)』を1つ賜り、日本に持って帰っていました。
しかしその宝玉は途中で竜神に奪われてしまいます。
親睦の証として宝玉を賜ったにも関わらずそれをなくしてしまった不比等。
彼は身分を隠し、なんとかその宝玉を取り返すべく今の志度の地にとどまります。
そこで出会ったのが、現在の志度の「天野」地区の由来にもなった漁師一族の娘の海女。
二人は恋仲になり、子ども(房前)を生みます。しかし、幸せは長くは続かず、不比等は本来の目的である龍神からの宝玉の奪取のことを海女に伝えます。
すると海女は、自分の命と引き返えに宝玉を奪ってくるだから、房前(ふささき)を藤原家の正式な跡取りとして欲しいとお願いし海に飛び込むのです。
龍神との死闘の末、海女は自分の胸を切り裂いて、乳房に宝玉を隠し持ちなんとか志度の真珠島に戻ってきたのです。
しかし、海女は不比等に玉を渡すとそのまま静かに息を引き取りました。
それから房前は藤原家を嗣ぎ、若干13歳で大臣となっていた房前は東大寺建立のため全国を行脚していた行基について志度に訪れ、母の死の理由を知ります。
そして、房前は母である海女を偲んで志度寺の堂を広く立て直し、そこに千基の石塔を建てたと言い伝えられています。
房前はその後も活躍し、藤原家のその後の栄華へとつながっていくわけとなります。
海女が息を引き取った真珠島では現在でも真珠神社としてさぬき市志度に残っています。
10月6,7日に行われる多和の秋祭りの次の週末には、志度寺にてお経があげられています。
藤原家が活躍した平安時代は父方の血筋より母方の血筋が重要とされた時代。
はっきりとした素性のしれない海女のことは藤原家の家系図には記されておらず、歴史の表舞台にその名を刻んではいません。
しかし、平安末期のプリンス、後白河天皇が今様の和歌を記した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に志度という地名が登場する程、朝廷では志度はなんらかの理由で名の通った土地だったことは窺い知ることができます。
そして、なんとこの記述が、、、
海女が取り返した宝玉『面向不背の玉』はその後は無事に興福寺に届けられ、現在は滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)におさめられています。
🌟『面向不背の玉(めんこうふはいのたま)』
前から見ても後ろから見ても表裏がなく美しく見える玉。
あぁ、だから竹生島の弁天がNさんに来て欲しいと言っていたのか。。。
そして、Iさんにもそれが伝わったのだなと、私は今改めて思いましたが、その時は訳もわからず、Nさんに伝えようと電話をしていました。
続きます。