《ミツさん》
彼女のことは、以前書いたことがある。
春さんの次に現れたのが、当時53才のミツさんだ。
祖父は、娘のチーコの後に生まれた女の子を
赤ちゃんの時に亡くしている。
妻に先立たれ、残ったチーコまで失う日が近いと知った祖父は
支えを必要としており、入籍を前提にミツさんを迎えたのだった。
ミツさんはとりあえず、社保厚生年金とボーナスのついた
月給制の社員として家に入った。
家族で検討の結果、我々は彼女のことを
「おばあちゃん」と呼ぶことに決まった。
ミツさんは明るくて面白い人だったが
生真面目な母チーコは、水商売経験者の粋な印象を嫌った。
和服の襟を抜いて着るところや、テレビで水戸黄門が印籠を出すと
「ヨッ!待ってました!」と掛け声をかけるところなんかだ。
けれどもミツさんのそういうところが、私は好きだった。
ミツさんは、張り切ってチーコの看病をした。
癌に鯉の生き血がいいと聞いた祖父は、養殖場から毎日取り寄せ
女板前だったミツさんが、一刀のもとに頭を落として生き血を採取する。
鮎が好物のチーコのために、季節にはやはり養殖場から毎日取り寄せ
手際良く塩釜焼きや串焼きにした。
チーコの癌は、すでに手のほどこしようが無かった。
この植物がいい…あの生き物が効く…
あちこちで延命の方法を聞いては入手に奔走する祖父と
それをチーコのために工夫して調理するミツさんの連携は
子供だった私の目にユーモラスに映り
もうじき母親が死ぬ現実を忘れさせた。
ミツさんが来て1年後、チーコは死んだ。
チーコは弱っていくにつれて、ミツさんの真心を感じるようになり
死ぬ頃には、我々子供よりもミツさんをそばに置きたがった。
最期の言葉は「おばあちゃん」。
ミツさんのことである。
6年生になったばかりの私は、悲しみよりもホッとしたのが先だった。
チーコがやっと苦しみから解放された安堵であった。
チーコの看病、家の改築、チーコの死、父の再婚
うちに来て1年余りの間にあった出来事に
ミツさんは唯一の女手として、完璧な家事労働のかたわら
社交性や気配りの手腕をいかんなく発揮した。
論功行賞としては申し分なく、いよいよ社員から妻に転身と思われたが
肝心の祖父が渋り始めた。
ミツさんに娘がいることを知ったからだ。
一族にとって許されない結婚をしたので
絶縁になった一人息子がいるのは聞いていた。
しかしその妹にあたる、父親違いの娘がいるのは初耳だった。
当時20代後半だったミツさんの娘さんは
ご主人が病気になって生活に困窮していた。
ミツさんは祖父の援助を求めるために、娘の存在を告白したのだった。
…ということになっているが、逆説もまた真実である。
ミツさんが祖父と暮らすようになって経済的に安定したために
娘さんが出現したとも言えるのであった。
祖父はミツさんの懇願を受け入れ、娘夫婦の援助を承諾した。
しかしその代償として、ミツさんの第一希望である入籍は
うやむやになった。
入籍で家族を増産すると
自分の死後、不都合が持ち上がりそうな懸念が
祖父にあったからである。
娘さんは青白くて痩せこけたご主人と一緒に、時々うちへ来た。
ご主人の病名は結核で、完治したとはいえ
我々子供は近づいてはならないことになっていたが
漏れ聞こえる会話から、お金を受け取りに来ているのだと子供心にわかった。
夫婦はいつも、車を家の裏手に停める。
その車は二階の子供部屋から丸見えだ。
祖父のことを「お父さん」と呼び、調子のいい2人だったが
車に乗る時は、封筒のお金を数えていた。
家に帰るまでが遠足です…
私はその光景を眺めつつ、冷ややかに思うのだった。
私が高校生になった頃、祖父とミツさんはよく喧嘩をするようになった。
今思えば、無理もないことであった。
老いを前に身の上は未だ定まらず、家政婦と妻の間を宙ぶらりん。
キップのいいミツさんも、さすがに辛かったと思う。
喧嘩のたびに、ミツさんは弟一家の住む実家へ帰る。
生意気盛りの私は、祖父とミツさんに対して
冷淡な態度を取るようになった。
自分のことは棚に上げて、常識だの人の道だのガミガミ言う祖父に
自分はどうなんだと言いたい気持ちだった。
もう、祖父に関する男女のイザコザはうんざりだった。
ある日、ミツさんは何度目かの家出をして、そのまま帰って来なかった。
私と妹は、それきりミツさんに会うことは無かった。
祖父のほうは数年のブランクを経た後
癌になったミツさんからの連絡をきっかけに
時折見舞うようになっていた。
やがてミツさんは亡くなった。
最期の言葉は「ごめんね」だったと、祖父から聞いた。
その時初めて、チーコを看取ってもらった恩を思い出した
薄情な私であった。
《続く》
彼女のことは、以前書いたことがある。
春さんの次に現れたのが、当時53才のミツさんだ。
祖父は、娘のチーコの後に生まれた女の子を
赤ちゃんの時に亡くしている。
妻に先立たれ、残ったチーコまで失う日が近いと知った祖父は
支えを必要としており、入籍を前提にミツさんを迎えたのだった。
ミツさんはとりあえず、社保厚生年金とボーナスのついた
月給制の社員として家に入った。
家族で検討の結果、我々は彼女のことを
「おばあちゃん」と呼ぶことに決まった。
ミツさんは明るくて面白い人だったが
生真面目な母チーコは、水商売経験者の粋な印象を嫌った。
和服の襟を抜いて着るところや、テレビで水戸黄門が印籠を出すと
「ヨッ!待ってました!」と掛け声をかけるところなんかだ。
けれどもミツさんのそういうところが、私は好きだった。
ミツさんは、張り切ってチーコの看病をした。
癌に鯉の生き血がいいと聞いた祖父は、養殖場から毎日取り寄せ
女板前だったミツさんが、一刀のもとに頭を落として生き血を採取する。
鮎が好物のチーコのために、季節にはやはり養殖場から毎日取り寄せ
手際良く塩釜焼きや串焼きにした。
チーコの癌は、すでに手のほどこしようが無かった。
この植物がいい…あの生き物が効く…
あちこちで延命の方法を聞いては入手に奔走する祖父と
それをチーコのために工夫して調理するミツさんの連携は
子供だった私の目にユーモラスに映り
もうじき母親が死ぬ現実を忘れさせた。
ミツさんが来て1年後、チーコは死んだ。
チーコは弱っていくにつれて、ミツさんの真心を感じるようになり
死ぬ頃には、我々子供よりもミツさんをそばに置きたがった。
最期の言葉は「おばあちゃん」。
ミツさんのことである。
6年生になったばかりの私は、悲しみよりもホッとしたのが先だった。
チーコがやっと苦しみから解放された安堵であった。
チーコの看病、家の改築、チーコの死、父の再婚
うちに来て1年余りの間にあった出来事に
ミツさんは唯一の女手として、完璧な家事労働のかたわら
社交性や気配りの手腕をいかんなく発揮した。
論功行賞としては申し分なく、いよいよ社員から妻に転身と思われたが
肝心の祖父が渋り始めた。
ミツさんに娘がいることを知ったからだ。
一族にとって許されない結婚をしたので
絶縁になった一人息子がいるのは聞いていた。
しかしその妹にあたる、父親違いの娘がいるのは初耳だった。
当時20代後半だったミツさんの娘さんは
ご主人が病気になって生活に困窮していた。
ミツさんは祖父の援助を求めるために、娘の存在を告白したのだった。
…ということになっているが、逆説もまた真実である。
ミツさんが祖父と暮らすようになって経済的に安定したために
娘さんが出現したとも言えるのであった。
祖父はミツさんの懇願を受け入れ、娘夫婦の援助を承諾した。
しかしその代償として、ミツさんの第一希望である入籍は
うやむやになった。
入籍で家族を増産すると
自分の死後、不都合が持ち上がりそうな懸念が
祖父にあったからである。
娘さんは青白くて痩せこけたご主人と一緒に、時々うちへ来た。
ご主人の病名は結核で、完治したとはいえ
我々子供は近づいてはならないことになっていたが
漏れ聞こえる会話から、お金を受け取りに来ているのだと子供心にわかった。
夫婦はいつも、車を家の裏手に停める。
その車は二階の子供部屋から丸見えだ。
祖父のことを「お父さん」と呼び、調子のいい2人だったが
車に乗る時は、封筒のお金を数えていた。
家に帰るまでが遠足です…
私はその光景を眺めつつ、冷ややかに思うのだった。
私が高校生になった頃、祖父とミツさんはよく喧嘩をするようになった。
今思えば、無理もないことであった。
老いを前に身の上は未だ定まらず、家政婦と妻の間を宙ぶらりん。
キップのいいミツさんも、さすがに辛かったと思う。
喧嘩のたびに、ミツさんは弟一家の住む実家へ帰る。
生意気盛りの私は、祖父とミツさんに対して
冷淡な態度を取るようになった。
自分のことは棚に上げて、常識だの人の道だのガミガミ言う祖父に
自分はどうなんだと言いたい気持ちだった。
もう、祖父に関する男女のイザコザはうんざりだった。
ある日、ミツさんは何度目かの家出をして、そのまま帰って来なかった。
私と妹は、それきりミツさんに会うことは無かった。
祖父のほうは数年のブランクを経た後
癌になったミツさんからの連絡をきっかけに
時折見舞うようになっていた。
やがてミツさんは亡くなった。
最期の言葉は「ごめんね」だったと、祖父から聞いた。
その時初めて、チーコを看取ってもらった恩を思い出した
薄情な私であった。
《続く》