《みりこんさん》
私の前半生に大きく関わった3人の女性…
彼女達の性質に共通点があるのは、おわかりだと思う。
明るい、肝っ玉が大きい、料理上手…などである。
つまり一家に一台は欲しい、好ましい人物ばかりだ。
結局お金、というのは早い時期に知ったものの
好ましい人物には、苦難の人生が与えられるのか…
それとも援助の必要性から、好ましい人物になっていくのか…
この疑問は残ったままだった。
しかしそれは、歳月が教えてくれた。
おばちゃんと呼ばれるのに抵抗が無くなった頃
人の言葉に、はたと気がついた。
「明るい」「肝っ玉が大きい」「料理上手」
人が私に持つ印象は、私が春さん、ミツさん、キミさんに対して
持っていた印象と同じであった。
だが、その印象は私だけのものではなかった。
変わり者でもない限り、おばちゃんと呼ばれる人のほとんどに
これらの印象が備わっていたのだ。
親身に慰めてくれる人達は死んでしまったし
クヨクヨしたってどうにもならないと知ったから
明るくやり過ごすしかない。
「どうしたらいいか、わかんな~い」と首をかしげてみたって
誰もカワイイとは言ってくれず
経験済みのことは、先でどうなるかがわかっているので
ひどく驚いたり嘆いたりする必要が無いため
はた目には肝っ玉が大きく見える。
奥さんやお母さんを長くやってりゃ、得意料理もいくつかできる。
おばちゃんという生き物の大半が、そうだったのである。
好ましい人物に苦難が訪れるのではなく
言うか言わないか、人に知られるか知られないかの問題だけで
人間、生きてりゃいろいろあるのが人生だったのだ。
援助の必要性から好人物を演じるわけではなく
そこに山があるから登るだけだったのだ。
私でお役に立てるなら…
誰だって最初は、美しい真心で新生活の幕が開く。
この私とて、夫の両親の面倒を見ることになった時はそうであった。
慈悲だの奉仕だの言ったって、しょせんただのヒト。
現実は厳しく、サンザンやゲンナリを繰り返すたびに
慈悲も奉仕もどこへやら、日に日にすさんで行くのが自分でわかる。
やるのは自分しかいない…
それは最初、崇高な使命感だったはず。
でも、ちょっと体調が悪かったり用事が重なったりすると
「自分しかいない」の意味が変わってきて
自分だけが損をしているような気持ちになってしまう。
のん気にテレビを見る笑い声にムッとする。
「言ってくれればやったのに」のつぶやきにカッとする。
「こっちだって気兼ねしてる」なんて言われた日にゃ
ぶっ飛ばしたくなる。
いろんな小さなことが積み重なっていっていくと
自分を動かす燃料の効率が落ちていくのがわかる。
そこに老化が追い打ちをかける。
動かなくなった身体に、義務だの家族の笑顔だの
あり合わせの燃料を突っ込んだら、空焚きになる。
ところが、この空焚き中に臨時収入があったりすると
急に元気が出る。
そりゃもう、ユンケルどころの騒ぎじゃない。
自分を動かす燃料は、お金が一番だと知る。
お金しかなくなってきたとも言える。
副作用として、機嫌良く動き回った分、次の空焚きが早く訪れ
空焚きの倦怠感は、前回より強いことが挙げられる。
これを繰り返して、結局お金になっていくのだ。
祖父の彼女達も、同じだったのではなかろうか。
結局お金だったとしても
私は彼女達が注いでくれる愛情を確かに感じていた。
似合いそうな洋服があった、と包みをほどく笑顔
体調や好物を考慮して出される三度の食事
夜なべで編んでくれたリコーダーの袋…
結局お金だったとしても、よその子にそれをする自信が
私には無い。
私は、彼女達が本当に愛しているのは誰かを
よく知ってもいた。
それは祖父ではなく、もちろん我々であるはずもなく
血を分けた子供や孫、甥や姪だ。
その思慕は、言動として頻繁に現れる。
お金が渡るのはもちろんだが
家にいただき物があると、そっちへ渡したがったり
「あんた達も頑張って、あの子のようになりなさいね」
賞賛も惜しみない。
それを見聞きするたび、現在の自分を否定されているような気がして
孤児のような気持ちになったものだ。
どうして知らない誰かをお手本にしなければいけないのか。
どうしてそんなに立派で素晴らしい人達から離れて
ここで暮らしているのか。
なさぬ仲の他人と暮らすということは
このような疑問との戦いである。
私は戦いに疲れ、やがて無関心という線引きをするようになった。
愛情を感じつつも、100%じゃないならいらないという
ふてくされた気持ちがあった。
3人それぞれ、しんどい時もあっただろうし
たまには病気やケガもした。
皿洗いや掃除ぐらいは手伝えたのに
「いつもありがとう」ぐらいは言えたのに
私は無関心を通したダメ子だった。
そのダメ子に、今同じ境遇が与えられている。
お金という目的無しに、彼女達の人生をなぞっているような気がする。
それはもしかしたら、光栄なことではないのか。
大好きだったあの人達の、結局お金でかき消されたあの愛情を
再び噛み締め、輝かせる役目を引き受けたのではないか。
この役目、過酷はあるが燃料安定供給のシステムは無い。
ダメ子だから条件悪いんじゃ。
新燃料を開発するしかないんじゃ。
この新燃料だが、現在会社で着手している
エネルギー開発事業とマッチングしているところが面白い。
言っておくが、太陽光はもう古い。
《完》
私の前半生に大きく関わった3人の女性…
彼女達の性質に共通点があるのは、おわかりだと思う。
明るい、肝っ玉が大きい、料理上手…などである。
つまり一家に一台は欲しい、好ましい人物ばかりだ。
結局お金、というのは早い時期に知ったものの
好ましい人物には、苦難の人生が与えられるのか…
それとも援助の必要性から、好ましい人物になっていくのか…
この疑問は残ったままだった。
しかしそれは、歳月が教えてくれた。
おばちゃんと呼ばれるのに抵抗が無くなった頃
人の言葉に、はたと気がついた。
「明るい」「肝っ玉が大きい」「料理上手」
人が私に持つ印象は、私が春さん、ミツさん、キミさんに対して
持っていた印象と同じであった。
だが、その印象は私だけのものではなかった。
変わり者でもない限り、おばちゃんと呼ばれる人のほとんどに
これらの印象が備わっていたのだ。
親身に慰めてくれる人達は死んでしまったし
クヨクヨしたってどうにもならないと知ったから
明るくやり過ごすしかない。
「どうしたらいいか、わかんな~い」と首をかしげてみたって
誰もカワイイとは言ってくれず
経験済みのことは、先でどうなるかがわかっているので
ひどく驚いたり嘆いたりする必要が無いため
はた目には肝っ玉が大きく見える。
奥さんやお母さんを長くやってりゃ、得意料理もいくつかできる。
おばちゃんという生き物の大半が、そうだったのである。
好ましい人物に苦難が訪れるのではなく
言うか言わないか、人に知られるか知られないかの問題だけで
人間、生きてりゃいろいろあるのが人生だったのだ。
援助の必要性から好人物を演じるわけではなく
そこに山があるから登るだけだったのだ。
私でお役に立てるなら…
誰だって最初は、美しい真心で新生活の幕が開く。
この私とて、夫の両親の面倒を見ることになった時はそうであった。
慈悲だの奉仕だの言ったって、しょせんただのヒト。
現実は厳しく、サンザンやゲンナリを繰り返すたびに
慈悲も奉仕もどこへやら、日に日にすさんで行くのが自分でわかる。
やるのは自分しかいない…
それは最初、崇高な使命感だったはず。
でも、ちょっと体調が悪かったり用事が重なったりすると
「自分しかいない」の意味が変わってきて
自分だけが損をしているような気持ちになってしまう。
のん気にテレビを見る笑い声にムッとする。
「言ってくれればやったのに」のつぶやきにカッとする。
「こっちだって気兼ねしてる」なんて言われた日にゃ
ぶっ飛ばしたくなる。
いろんな小さなことが積み重なっていっていくと
自分を動かす燃料の効率が落ちていくのがわかる。
そこに老化が追い打ちをかける。
動かなくなった身体に、義務だの家族の笑顔だの
あり合わせの燃料を突っ込んだら、空焚きになる。
ところが、この空焚き中に臨時収入があったりすると
急に元気が出る。
そりゃもう、ユンケルどころの騒ぎじゃない。
自分を動かす燃料は、お金が一番だと知る。
お金しかなくなってきたとも言える。
副作用として、機嫌良く動き回った分、次の空焚きが早く訪れ
空焚きの倦怠感は、前回より強いことが挙げられる。
これを繰り返して、結局お金になっていくのだ。
祖父の彼女達も、同じだったのではなかろうか。
結局お金だったとしても
私は彼女達が注いでくれる愛情を確かに感じていた。
似合いそうな洋服があった、と包みをほどく笑顔
体調や好物を考慮して出される三度の食事
夜なべで編んでくれたリコーダーの袋…
結局お金だったとしても、よその子にそれをする自信が
私には無い。
私は、彼女達が本当に愛しているのは誰かを
よく知ってもいた。
それは祖父ではなく、もちろん我々であるはずもなく
血を分けた子供や孫、甥や姪だ。
その思慕は、言動として頻繁に現れる。
お金が渡るのはもちろんだが
家にいただき物があると、そっちへ渡したがったり
「あんた達も頑張って、あの子のようになりなさいね」
賞賛も惜しみない。
それを見聞きするたび、現在の自分を否定されているような気がして
孤児のような気持ちになったものだ。
どうして知らない誰かをお手本にしなければいけないのか。
どうしてそんなに立派で素晴らしい人達から離れて
ここで暮らしているのか。
なさぬ仲の他人と暮らすということは
このような疑問との戦いである。
私は戦いに疲れ、やがて無関心という線引きをするようになった。
愛情を感じつつも、100%じゃないならいらないという
ふてくされた気持ちがあった。
3人それぞれ、しんどい時もあっただろうし
たまには病気やケガもした。
皿洗いや掃除ぐらいは手伝えたのに
「いつもありがとう」ぐらいは言えたのに
私は無関心を通したダメ子だった。
そのダメ子に、今同じ境遇が与えられている。
お金という目的無しに、彼女達の人生をなぞっているような気がする。
それはもしかしたら、光栄なことではないのか。
大好きだったあの人達の、結局お金でかき消されたあの愛情を
再び噛み締め、輝かせる役目を引き受けたのではないか。
この役目、過酷はあるが燃料安定供給のシステムは無い。
ダメ子だから条件悪いんじゃ。
新燃料を開発するしかないんじゃ。
この新燃料だが、現在会社で着手している
エネルギー開発事業とマッチングしているところが面白い。
言っておくが、太陽光はもう古い。
《完》