お盆は広範囲で雨が降って、大変でしたね。
皆さまがお住まいの地域は大丈夫でしたか?
引き続き、気をつけてまいりましょう。
さて『現場はいま…』シリーズのコメント欄でモモさんと話していて
ふと昔を思い出したので、お話ししようと思う。
いつものことながら、私のアホぶりをさらけ出す内容になるが
ご辛抱いただきたい。
少女期から娘時代にかけて、私はひたすら幸せに憧れていた。
幸せになって、幸せ者と呼ばれたい…
これが私の望み。
幸せがどのようなものか、興味はなかった。
人から見て幸せそうと評価されれば、それでよかった。
やがて結婚。
私のやることに何でも反対する祖父は、予想通り猛反対した。
優しい父まで、よした方がいいと言う。
どちらの反対理由も共通していた。
「バカと結婚したら不幸になる」
けれども私は馬耳東風。
じゃあ祖父は、父は、自分の妻を幸せにしたのか…
そうは思えなかったからだ。
病身の祖母は、祖父から優しい言葉一つかけられることなく
60才で死んだ。
母にいたっては、父と離婚秒読みの段階で癌になり
別れるよりも死ぬ方が早かっただけ。
バカは人を幸せにできないという彼らの定義に
反抗心を抱いた私は結婚を強行した。
「お幸せに」
披露宴では、皆が言ってくれるではないか。
どうやら幸せになる予定らしい…
結婚こそ、手っ取り早く幸せ者になれる方法だったのかもしれない…
ウシシ…
私は幸せに王手をかけたつもりだった。
だが、幸せはなかなか訪れない。
子供が生まれたのは、確かに幸せなことかもしれないが
その幸せと引き換えに、寝る自由や遊びに行く自由を失ったため
求めていた幸せとは違うような気がした。
そして気がついたら、私が幸せ者になるより先に
伴侶が浮気者になっとるじゃんか。
これはどうしたことじゃ。
恋に狂って常軌を逸した伴侶の素行に加えて、選ぶ相手も悪目立ち。
息子の通う小学校の女教師、ヤクザの情婦を営業中の未亡人…
センセーショナルな噂は界隈を駆け巡る。
私は夫の不実だけでなく
あれが女房だ…と後ろ指を指される恥とも戦う羽目になった。
幸せ者どころか、笑い者よ。
祖父や父の言った“バカ”とは、理性の少ない人間…
同じ過ちを何度繰り返しても懲りない人間のことだったのだ…
ここで初めてわかった。
結婚で自動的に幸せが手に入ると思い込んでいた自分こそ
大バカ者だと知った時、幸せ病は全快した。
長らく罹患していた幸せ病が治ると、すでに中年。
40才を過ぎた私は、自分の未来について考えるようになった。
それは、夢や希望に満ち溢れたものではない。
ささやかな年金で細々と生き延びる、ショボい老後だ。
こうして先のことも考えるが、同じ割合で過去のことも考える。
「先で何とかなるんじゃな〜い?」とタカをくくり
雑に生きてきた私でも、さすがに40代ともなると
人生の半分が終わったことぐらいはわかるし
どうあがいてもあと半分ぐらいしか生きられないのもわかる。
だから、自分の“これから”と“今まで”を意識するようになる。
40代って、そういうお年頃なのかもしれない。
で、自分の人生について、つらつら考えるんだけど
これが成績表みたいになってしまう。
そしてその成績表は、赤点、及第点、要追試ばっかり。
40代はまだ青いといおうか謙虚といおうか、自分に付ける点がからいのだ。
中でも成績が悪いのは、継続科目。
せっかく生まれてきたというのに、私は一体何を成し遂げたのか…
周りに振り回されては、仕事も趣味も出直しや方向転換ばっかりで
長続きしたことが何も無いじゃないか…
何があろうと、歯を食いしばってでも続ける根性が無かった…
これから何をどう頑張ったって、残り時間が少ないんだから手遅れ…
色々なことを後悔しながら、つまらぬ老後を過ごして人生を終えるのだ…
ああ、なんと惨めで恐ろしいことよ…。
私の未来予想図は、揺るぎない決定事項と思われた。
ここで罹患したのが、“ひとすじ病”。
働く同年代の女性を見回すと、みんな頑張っているように見える。
40代ともなれば、仕事でそこそこの給料をもらい
責任ある立場になったりしている。
この道一筋というのは、なんと輝かしく気高いものよ…
ああ、素晴らしい…最敬礼。
何かをやり遂げた実感が無いのは、当時の私にとってザンネンなことであり
全ては自分の根性無しが原因だと思った。
そしてこのザンネンと、死ぬまで付き合うのだとも思った。
この病いが一番重症だったのは、40代後半。
50代に入ると自分に残された時間がますます減るので
焦りが強くなるかと思いきや、夫の両親は寝付くわ義父の会社は倒産寸前だわで
自分の過去や未来なんて悠長なことを考えるどころではなくなった。
義理親と会社の問題が落ち着くと、ひとすじ病はいつの間にか治っていた。
一つの仕事を続けるのは多くの人にできようが
親の介護をしながら山師のような大博打で倒産を回避する人は
そんなにたくさんいないと思えたからだ。
合併相手の会社選びから細かい交渉ごとまで、私は完全に山師だった。
自分の中にはそのような血が確かに流れている…
仕事でも何でも、一つの事柄をコツコツと続けるようにはできていないのに
コツコツに憧れるのは無い物ねだりだったわい…
そう納得したのである。
すると、ひとすじ病の頃には輝いて見えた人々のカラクリも見えてきた。
仕事を続けた人々には、子守りがいただけ。
子供の夏休みも冬休みも病気の時も
娘が仕事を続けられるように、親が子供の面倒を見てくれていたのだ。
私に無かったのは根性ではなく、親。
例外もあろうが、大半はこんなものだ。
やがて、あれよあれよという間に還暦を過ぎ
中年以降から考え続けた恐怖の未来予想図が、もうそこまで来ている。
ギャ〜!
で、実際に年寄りになってみると、恐れていたほどでもなかった。
人生舞台のメインは若い時で、若いうちに大方の決着をつけておき
年を取ったら、そのオマケで食いつなぐ…
そう思っていたが、どうも違うようで大変暮らしやすい。
その理由として、まず周りが気にならなくなる。
年を取ったら自動的に、周りにいた年上の人間がいなくなったり
弱ってくる。
それは自分を押さえつける者が減るということであり
発言権と決定権が自分に回ってくることだ。
おうかがいを立てたり遠慮をしなくていいのだから
自由自在のやりたい放題。
周りを気にしなくなると、気を遣うことに費やしていた時間が
いかに膨大なものだったか、初めてわかるというものだ。
そうは言っても、発言や決定の責任は付いてまわるだろうって?
年寄りは無責任と決まっておろう。
「年だから忘れた」と言えばいい。
特権は有効に活用するべきだ。
次に、年を取ると人の親切、思いやり、優しさを始め
食べる物の旨さ、楽しいひと時を過ごした喜びが身にしみる。
そりゃもう、若い頃とは全く違うしみようだ。
すると同じ24時間でも、昔より濃厚な時間を過ごしている気がする。
若い頃は早回しのメリーゴーランドに乗っているみたいで余裕が無かったのが
年寄りになるとゆっくり回るようになって
馬の一頭ずつや周りの景色がよく見えるようになり
それらを眺める楽しみが増えた感覚。
1日が濃くなるということは
例えば若い時の1年と今の1日が同じ比重になるということだ。
物理的には残り時間が少なくても、時間の流れ方が変わったわけだから
精神的にはたっぷり楽しんで面白がることができ、何ら遜色は無いということになる。
もっと年を取ると病気や痛い所が出てきて、また変わるかもしれないけど
とりあえず今のところ、心配はいらなかったようだ。
で、唐突なようだが、以前の私のように様々な焦りや後悔を持つ人がいれば
伝えたいのはこれ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/11/9a5dde2934b45942f6e3a3e0fb39b8bc.jpg)
『凡(およ)そ 榮譽のあるところ 必ず苦禍の因ありと知れ』
“名誉や栄華は、必ず苦しみや災いの原因になると知りなさい”みたいな意味かしら。
誰が書いたものか、おわかりだろうか。
かの有名な宮澤賢治。
直筆だけど、もちろんコピーよ。
去年、彼の研究をしている人と知り合いになり、もらった。
宮澤賢治といえば『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』など
有名な小説を執筆し、37歳で病没した偉人。
彼の作品で、特に有名なのが以下の一文であろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/7d/4b517119435a97de0ccf21bfb15c6e51.jpg)
この『雨ニモ負ケズ』が、どのような状況で書かれたかを知る人は少ないと思う。
これは死の床についた賢治が小さなメモ帳に書きなぐり
死後、彼が寝ていたベッドの下から発見されたものである。
『雨ニモ負ケズ』は机上で思いついた美句ではなく
死を目前にした彼の魂の叫びだったことに、私はシビれた。
冒頭の、『凡(およ)そ 榮譽のあるところ 必ず苦禍の因ありと知れ』は
この『雨ニモ負ケズ』のラスト、“サウイウモノニ ワタシハナリタイ”までを書きなぐった後
“南無妙法蓮華経”の文字を1ページに7行書きつらねた次のページにある。
その後のページは病状がさらに悪化したのか
字が乱れてほとんど読めない短文と、少し長めの詩のようなものが続き
最後はやはりお経。
『雨ニモ負ケズ』が有名になり過ぎて
『凡(およ)そ 榮譽のあるところ 必ず苦禍の因ありと知れ』の一文は
かすんでしまったが、宮澤賢治が一番言いたかったのはこれかもしれない。
「だから、ありのままでいいんだよ」
そう言われているような気がするんだよ。
皆さまがお住まいの地域は大丈夫でしたか?
引き続き、気をつけてまいりましょう。
さて『現場はいま…』シリーズのコメント欄でモモさんと話していて
ふと昔を思い出したので、お話ししようと思う。
いつものことながら、私のアホぶりをさらけ出す内容になるが
ご辛抱いただきたい。
少女期から娘時代にかけて、私はひたすら幸せに憧れていた。
幸せになって、幸せ者と呼ばれたい…
これが私の望み。
幸せがどのようなものか、興味はなかった。
人から見て幸せそうと評価されれば、それでよかった。
やがて結婚。
私のやることに何でも反対する祖父は、予想通り猛反対した。
優しい父まで、よした方がいいと言う。
どちらの反対理由も共通していた。
「バカと結婚したら不幸になる」
けれども私は馬耳東風。
じゃあ祖父は、父は、自分の妻を幸せにしたのか…
そうは思えなかったからだ。
病身の祖母は、祖父から優しい言葉一つかけられることなく
60才で死んだ。
母にいたっては、父と離婚秒読みの段階で癌になり
別れるよりも死ぬ方が早かっただけ。
バカは人を幸せにできないという彼らの定義に
反抗心を抱いた私は結婚を強行した。
「お幸せに」
披露宴では、皆が言ってくれるではないか。
どうやら幸せになる予定らしい…
結婚こそ、手っ取り早く幸せ者になれる方法だったのかもしれない…
ウシシ…
私は幸せに王手をかけたつもりだった。
だが、幸せはなかなか訪れない。
子供が生まれたのは、確かに幸せなことかもしれないが
その幸せと引き換えに、寝る自由や遊びに行く自由を失ったため
求めていた幸せとは違うような気がした。
そして気がついたら、私が幸せ者になるより先に
伴侶が浮気者になっとるじゃんか。
これはどうしたことじゃ。
恋に狂って常軌を逸した伴侶の素行に加えて、選ぶ相手も悪目立ち。
息子の通う小学校の女教師、ヤクザの情婦を営業中の未亡人…
センセーショナルな噂は界隈を駆け巡る。
私は夫の不実だけでなく
あれが女房だ…と後ろ指を指される恥とも戦う羽目になった。
幸せ者どころか、笑い者よ。
祖父や父の言った“バカ”とは、理性の少ない人間…
同じ過ちを何度繰り返しても懲りない人間のことだったのだ…
ここで初めてわかった。
結婚で自動的に幸せが手に入ると思い込んでいた自分こそ
大バカ者だと知った時、幸せ病は全快した。
長らく罹患していた幸せ病が治ると、すでに中年。
40才を過ぎた私は、自分の未来について考えるようになった。
それは、夢や希望に満ち溢れたものではない。
ささやかな年金で細々と生き延びる、ショボい老後だ。
こうして先のことも考えるが、同じ割合で過去のことも考える。
「先で何とかなるんじゃな〜い?」とタカをくくり
雑に生きてきた私でも、さすがに40代ともなると
人生の半分が終わったことぐらいはわかるし
どうあがいてもあと半分ぐらいしか生きられないのもわかる。
だから、自分の“これから”と“今まで”を意識するようになる。
40代って、そういうお年頃なのかもしれない。
で、自分の人生について、つらつら考えるんだけど
これが成績表みたいになってしまう。
そしてその成績表は、赤点、及第点、要追試ばっかり。
40代はまだ青いといおうか謙虚といおうか、自分に付ける点がからいのだ。
中でも成績が悪いのは、継続科目。
せっかく生まれてきたというのに、私は一体何を成し遂げたのか…
周りに振り回されては、仕事も趣味も出直しや方向転換ばっかりで
長続きしたことが何も無いじゃないか…
何があろうと、歯を食いしばってでも続ける根性が無かった…
これから何をどう頑張ったって、残り時間が少ないんだから手遅れ…
色々なことを後悔しながら、つまらぬ老後を過ごして人生を終えるのだ…
ああ、なんと惨めで恐ろしいことよ…。
私の未来予想図は、揺るぎない決定事項と思われた。
ここで罹患したのが、“ひとすじ病”。
働く同年代の女性を見回すと、みんな頑張っているように見える。
40代ともなれば、仕事でそこそこの給料をもらい
責任ある立場になったりしている。
この道一筋というのは、なんと輝かしく気高いものよ…
ああ、素晴らしい…最敬礼。
何かをやり遂げた実感が無いのは、当時の私にとってザンネンなことであり
全ては自分の根性無しが原因だと思った。
そしてこのザンネンと、死ぬまで付き合うのだとも思った。
この病いが一番重症だったのは、40代後半。
50代に入ると自分に残された時間がますます減るので
焦りが強くなるかと思いきや、夫の両親は寝付くわ義父の会社は倒産寸前だわで
自分の過去や未来なんて悠長なことを考えるどころではなくなった。
義理親と会社の問題が落ち着くと、ひとすじ病はいつの間にか治っていた。
一つの仕事を続けるのは多くの人にできようが
親の介護をしながら山師のような大博打で倒産を回避する人は
そんなにたくさんいないと思えたからだ。
合併相手の会社選びから細かい交渉ごとまで、私は完全に山師だった。
自分の中にはそのような血が確かに流れている…
仕事でも何でも、一つの事柄をコツコツと続けるようにはできていないのに
コツコツに憧れるのは無い物ねだりだったわい…
そう納得したのである。
すると、ひとすじ病の頃には輝いて見えた人々のカラクリも見えてきた。
仕事を続けた人々には、子守りがいただけ。
子供の夏休みも冬休みも病気の時も
娘が仕事を続けられるように、親が子供の面倒を見てくれていたのだ。
私に無かったのは根性ではなく、親。
例外もあろうが、大半はこんなものだ。
やがて、あれよあれよという間に還暦を過ぎ
中年以降から考え続けた恐怖の未来予想図が、もうそこまで来ている。
ギャ〜!
で、実際に年寄りになってみると、恐れていたほどでもなかった。
人生舞台のメインは若い時で、若いうちに大方の決着をつけておき
年を取ったら、そのオマケで食いつなぐ…
そう思っていたが、どうも違うようで大変暮らしやすい。
その理由として、まず周りが気にならなくなる。
年を取ったら自動的に、周りにいた年上の人間がいなくなったり
弱ってくる。
それは自分を押さえつける者が減るということであり
発言権と決定権が自分に回ってくることだ。
おうかがいを立てたり遠慮をしなくていいのだから
自由自在のやりたい放題。
周りを気にしなくなると、気を遣うことに費やしていた時間が
いかに膨大なものだったか、初めてわかるというものだ。
そうは言っても、発言や決定の責任は付いてまわるだろうって?
年寄りは無責任と決まっておろう。
「年だから忘れた」と言えばいい。
特権は有効に活用するべきだ。
次に、年を取ると人の親切、思いやり、優しさを始め
食べる物の旨さ、楽しいひと時を過ごした喜びが身にしみる。
そりゃもう、若い頃とは全く違うしみようだ。
すると同じ24時間でも、昔より濃厚な時間を過ごしている気がする。
若い頃は早回しのメリーゴーランドに乗っているみたいで余裕が無かったのが
年寄りになるとゆっくり回るようになって
馬の一頭ずつや周りの景色がよく見えるようになり
それらを眺める楽しみが増えた感覚。
1日が濃くなるということは
例えば若い時の1年と今の1日が同じ比重になるということだ。
物理的には残り時間が少なくても、時間の流れ方が変わったわけだから
精神的にはたっぷり楽しんで面白がることができ、何ら遜色は無いということになる。
もっと年を取ると病気や痛い所が出てきて、また変わるかもしれないけど
とりあえず今のところ、心配はいらなかったようだ。
で、唐突なようだが、以前の私のように様々な焦りや後悔を持つ人がいれば
伝えたいのはこれ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/11/9a5dde2934b45942f6e3a3e0fb39b8bc.jpg)
『凡(およ)そ 榮譽のあるところ 必ず苦禍の因ありと知れ』
“名誉や栄華は、必ず苦しみや災いの原因になると知りなさい”みたいな意味かしら。
誰が書いたものか、おわかりだろうか。
かの有名な宮澤賢治。
直筆だけど、もちろんコピーよ。
去年、彼の研究をしている人と知り合いになり、もらった。
宮澤賢治といえば『銀河鉄道の夜』や『注文の多い料理店』など
有名な小説を執筆し、37歳で病没した偉人。
彼の作品で、特に有名なのが以下の一文であろう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/7d/4b517119435a97de0ccf21bfb15c6e51.jpg)
この『雨ニモ負ケズ』が、どのような状況で書かれたかを知る人は少ないと思う。
これは死の床についた賢治が小さなメモ帳に書きなぐり
死後、彼が寝ていたベッドの下から発見されたものである。
『雨ニモ負ケズ』は机上で思いついた美句ではなく
死を目前にした彼の魂の叫びだったことに、私はシビれた。
冒頭の、『凡(およ)そ 榮譽のあるところ 必ず苦禍の因ありと知れ』は
この『雨ニモ負ケズ』のラスト、“サウイウモノニ ワタシハナリタイ”までを書きなぐった後
“南無妙法蓮華経”の文字を1ページに7行書きつらねた次のページにある。
その後のページは病状がさらに悪化したのか
字が乱れてほとんど読めない短文と、少し長めの詩のようなものが続き
最後はやはりお経。
『雨ニモ負ケズ』が有名になり過ぎて
『凡(およ)そ 榮譽のあるところ 必ず苦禍の因ありと知れ』の一文は
かすんでしまったが、宮澤賢治が一番言いたかったのはこれかもしれない。
「だから、ありのままでいいんだよ」
そう言われているような気がするんだよ。