前回の記事では、恩を忘れろと申し上げた。
親の恩は海よりも深く、山よりも高い…
そう教えられてきた我々子世代としては、その恩の一文字を重く受け止め
親が弱ったとなると、恩返しを目論む。
それはスゴロクの上がり、つまりゴールのような位置にあって
親孝行から恩返しへと進めば
子供として百点満点が取れると思い込んでいるフシがある。
が、なかなかゴールはやって来ない。
親の世話をすることに慣れていなかった頃
物珍しさもあって、なまじ張り切ってしまったばっかりに
親はそれが当たり前と思うようになり、常に全身全霊の全力疾走を望み続ける。
不可能を可能にさせ、片時も休ませず
牛馬のごとく使い倒して甘ったれた挙句
やがてこっちが動けなくなれば
「不甲斐ない子」の称号を容赦なく与えて
選ぶ権利など無いにもかかわらず、次の交代要員を物色する…
それが未知の生命体、つまり超高齢者だ。
そこに愛は無い。
すでに愛を忘れた者に、恩を感じる必要は無い。
それでも我々子世代の深層心理に
恩の一文字はしっかり刻まれて消えないので
忘れるぐらいでちょうどいいんじゃないの?
というのが、私の主張である。
恩返しは、鶴と亀にやらせときゃいい。
罠にかかったところを助けてもらったお礼に
若い娘に化けて爺さん婆さんの家へ行き
自分の羽を使って豪華な布を織った、あの鶴じゃ。
いじめられていたのを助けてもらったお礼に
浦島太郎を竜宮城へ案内した、あの亀じゃ。
しかしアレらも、ロクなことにはならなかったけどな。
「見ないでね」と頼んだのに
はた織りしてるのをのぞき見された鶴は、どっか飛んで行っちゃったし
亀ときたら、乙姫様の土産に問題があって
浦島太郎はヨボヨボになっちまった。
げに恩返しとは、難しいものらしい。
恩を感じるのは自由だが、それを返そうとするのはやめた方がいい。
シロウトが、みだりに手を出すものではないと思う。
『寄り添うな』
お年寄りの心に寄り添いましょう…
近年の老人対策に、これがよく言われるようになった。
ケッ!
怒らず、責めず、優しく微笑みながら話に耳を傾け
温かく誠実に接するのが寄り添うということであれば
老人が相手じゃ無理。
血を分けた者同士だからこそ、常軌を逸した言動に当惑するし
腹も立つし悲しくもある、それが真っ当な家族だ。
寄り添いなら、寄り添うことが給料になるプロがやればいい。
しかし介護業界も人手不足。
だから家族にも、寄り添うように求め始めた。
甘いって。
そりゃあね、老人を囲んでアハハオホホ、みんな笑顔で平和な家庭…
理想よ。
それができれば、どんなに楽かしらね。
だけど、できんって。
老人は譲ることを知らないもの。
アハハオホホは、年長者の譲歩によって成立するんだもの。
アハハオホホと笑ってて、「何がおかしい!」
なんて言われてごらんなさいよ。
「こっちゃ足腰が痛いのに!」
「メシはまだか」
「頼んどいた、あれはどうなった?」
そうでなければ説教、昔の自慢、耳タコの思い出話の独壇場。
老人は、話題をすぐ自分のことに持って行きたがり
回りが譲ってくれないと怒り出す。
笑ってた家族は、口を閉じて去るよ。
家庭を暗くしているのは、老人なんだよ。
だから寄り添わなくていい。
ビシバシ行け。
寄り添ってもらいたければ、施設でどうぞ。
何が「長生きもつらい」だ。
つらいのは、こっちだ。
いたずらに長生きした代償は、自分で払うべし。
親の面倒を見る羽目になった人は大抵、逃げ遅れた優しい人である。
だから、これぐらいの気でやらないと
老人の発散する負のエネルギーにやられてしまうのだ。
同志諸君、気をしっかり持って心身のダメージを最小限にとどめ
できるだけ長生きをしよう。
その時には、今の経験が大いに役立つはずだ。
共にマイルド老害(まえこさんのキャッチコピー)を目指そうではないか。
《完》
こんな了見のせまい母に育てられた自分が大層なニンゲンであるはずがないし、
ましてや今より未熟で、その母の考えが概ね正しいと信じていた頃の自分の育児がまともだったはずがない
と思ってます。とほほです。
とにかくあの世代は差別意識が染みついてるのがほんと嫌です。
穏やかな品の良い老婦人(息子医者)がナチュラルに「あの人はどこの学校出てらっしゃるの?」と聞いているのを知って辟易しました。
実母も義母も無意識に農家をバカにしてます。野菜や米は安ければ安いほどよいと思っている。
その前の世代、私の祖父母は「世話になりたくない、恥ずかしい姿を見せたくない」という矜持がすごかった。
今の戦後生まれのご老人はそんなのなくないですか?
みんな「有り難い」を忘れすぎじゃよ。
これも比較教育の弊害だと思います。
実家の母はデイサービス、不登校になりました。
一度だけ行って、たまたま知り合いがいたまでは
良かったんですが、その人が東大に行った孫の自慢を
しつこくするので、すっかり嫌になったようです。
わかるよ…自慢するのは自分だけでないとね。
人から自慢話を聞かされるなんて拷問よね。
老婆ってみんな、人は見下げてナンボじゃん。
だから嫌われて、周りに人がいなくなるんだけど
本人はわからない。
そういうのこそ、あわれだと思います。
世話になりたくない…
確かに祖父母の代まではそういう矜持がありました。
そして実際に、それほど世話にならないうちに
つまり恥を大っぴらにさらさないうちに他界するか
それでも世話になるしかないのであれば
お金で、あるいは「済まない」「ありがとう」で
しっかり解決していました。
今の老人みたいに「世話になりたくない」
と口では言いながら、世話させ放題では
なかったと思います。
感謝を知らない人は、感謝を知るまで
あの世行きの切符が届かないから、必然的に
長生きになっちゃうんですよね〜!