功山寺決起

青山繁晴事務所から自由民主党の党員になりました。(2020年)

12月15日水曜の早朝6時15分から8時まで「飯田浩司のOK ! Cozy Up」(2021-12-13 22:21:09)

2021-12-13 22:40:36 | On the Road
▼あさって、12月15日水曜の早朝6時15分から8時ちょうどまで、ニッポン放送の飯田浩司のOK ! Cozy Up」の生放送に参加します。

▼このところ、あまりに日程が詰まりに詰まっていますから、ちょっとこの早朝番組は正直、厳しいです。
 しかし今、ほとんどふつうのメディアに現れないなかで、数少ない場です。ガンバリマス。




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新年2度目の独立講演会は、久しぶりに大阪で(2021-12-13 21:30:58)

2021-12-13 22:24:00 | On the Road
▼新年最初の独立講演会@東京の募集がきょう12月13日の午後1時に締め切りですと、このブログで伝えていましたが「気がつけば、終わっていた」、「何とかならないか」という書き込みが、ちょっと驚くぐらい何人ものかたから来ました。

 参加する意思があっただけでも嬉しいですね。
 感謝しています。


▼ただ、伝わっていなかったのは、残念です。
 また、何度申しあげたか分からないほど何度もお伝えしましたように、ぼくは5年前の参院選の途中にみずからの考えで独立総合研究所の代表取締役社長・兼・首席研究員を退任し、創業者株も無償で返上していますから、運営には一切、タッチしていません。
 独立講演会についてぼくは現在、講演主宰者である独立総合研究所から委託されて、講演そのものだけを行っています。これも、これまで申しあげてきた通りですね。

 独立総合研究所は「会社の利益ではなく、国益を追求する」という創業の理念をずっと掲げ続けています。
 したがって営業部はなく、営業の社員もおらず、宣伝も一切しません。
 だから、この小さなブログで、独立講演会の開催と締め切りを、ぼくの勝手な意思でお知らせしているだけです。

「何とかしてくれ」というご要望に、申し訳ないですが、応えることは致しません。

▼そのうえで、ぼくの知っていることは、ひとつあります。
 それは、ごくごく少人数の担当者で独立講演会を懸命に頑張って運営しているという実情が、ぼくの社長時代から何も変わっていないことです。
 締め切りが終わったあとにも、バラバラと、遅れたかたの対応をせねばならないとなると、担当者はほんとうに泣くでしょう。泣くだけではなく、心身の健康も、創業者として正直、心配します。
 ちなみに、この担当者は、ほっそりした真面目な、優しい女性社員です。ぼくが社長当時から、誠実に、勤めています。

 受講される大切なみなさんに迷惑をかけず、誰も泣かずに運営できる、そうしたことのための締め切り設定ですし、このささやかなブログでのお知らせです。
 できればご理解ください。ご理解くだされば、担当者も、講演者のぼくも、救われます。

▼新年2度目の独立講演会は、久しぶりに大阪で行われます。
 2月6日の日曜です。
 詳細はここにあります。
 それによると、募集は12月24日のクリスマスイヴに始まり、1月14日の午後1時に終わるとのことです。
 東京でお会いできなかったひとも、もしもよろしければ、大阪でお目にかかりたいですね。交通費などのことがありますから、とっても言いにくいですが、ご参考までに。

 イヴに募集が始まると知って、思わず、メリークリスマスと言いそうになりましたが、それはちょっと、早いですね、みなさん。





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「あなた、記者ならば、どんなに非難されても、この白梅のことを伝えてくれませんか」(2021-12-13 18:12:46)【速報版】

2021-12-13 20:13:00 | On the Road
・・・諦めずに、振り返り、振り返りしつつ記録していきます。

▼12月11日土曜に、まず築地本願寺にて、すぎやまこういち先生のお別れ会に参列しました。
 出逢いと別れは、ひとの常です。
 とはいえ、辛いことです。

 築地本願寺から、飛行機の時刻ぎりぎりで羽田空港に着き、那覇へ。
 沖縄は1月に名護市長選、2月には、わが盟友の中山義隆市長が4選を目指す石垣市長選、そして夏の沖縄県知事選など大切な選挙が続き、来年は選挙イヤーと呼ばれています。
 ぼくは不肖ながら26歳の時から、沖縄のことをライフワークのひとつとして取り組んできました。
 今は、思いがけず国会議員となっているからこそ、謙虚に、あくまでも謙虚に、取り組まねばなりません。
 そのうえで、できることは静かにやっていきます。

▼白梅の少女たちについては、これまでずっと発信し続けてきました。
 しかし、まったくご存じないかたも、まだまだいらっしゃる、と言うよりは、ご存じないかたの方が依然、はるかに多いと思います。こうしたことも謙虚に考えねばなりませぬ。

▼ぼくが初めて、白梅学徒看護隊のことを知ったのは、26歳の時です。
 共同通信に入社して最初の夏休みに、沖縄を訪れ、先の大戦の末期、悲惨な沖縄戦の南部戦跡を訪ねて回るために個人タクシーをチャーターしました。
 料金は、新人記者の給料で払えるぐらい、とても安かったです。

 回るうちに運転手さんが「あなた、若いのに、こんなに陰気なところばかり回らないで、ダイバーのライセンスも持っているんだから、海に行きましょう」と仰ったのです。
 ぼくは、新米の記者であることを明かし、「今回は戦跡だけを回ります」と言うと、運転手さんは「あなた、記者なのか。では、行くところが違うんだよ」と仰り、白梅学徒看護隊の自決壕に連れていってくださいました。
 それが現在は、写真の「白梅の塔」が建立されている地です。
 ぼくが最初に行ったときは、この塔はまだ、ありませんでした。

 沖縄戦の学徒看護隊とは、今で言えば女子高生 ( 当時の高等女学校の生徒さん ) が、日本の兵士の、たとえば足を切断するようなむごい手術を手伝って軍と行動を共にされ、米軍に殺されたり、自決をなさったり、凄まじい運命に直面された少女たちです。
 ひめゆり学徒看護隊は、広く日本国民に知られ、ぼく自身も訪ねたことがありました。ありのままに申せば、少女たちの悲劇は同じですが観光地にもなっています。
 ところが、白梅学徒看護隊をはじめ他の学徒看護隊は忘れられていて、運転手さんは厳しい表情で26歳のぼくに「沖縄県民だって忘れている。あなた、記者ならば、どんなに非難されても、この白梅のことを伝えてくれませんか」とぼくに言われたのです。

▼以来、ぼくは、沖縄県民を含む日本国民に語り続け、自決壕の暗い奥へ降りて、少女たちに祈りと感謝を捧げてきました。
 硫黄島の英霊と同じく、白梅の少女たちも決して犬死にではなく、この同胞のおかげで、いまのわたしたちがあります。

▼長い時間が過ぎ、やがて、当時参加していた関西テレビの「スーパーニュース・アンカー」という報道番組のロケをきっかけに、白梅の少女たちの生き残りのかたがたと出逢うことになりました。
 そのうちのおひとりが、写真の中山きくさんです。
 白梅学徒看護隊の生き残りのかたなどでつくる白梅同窓会の会長で、沖縄でもっとも高名な語り部のひとりです。
 93歳です。とても、とてもしっかりされています。
 武漢熱でお逢いできない日々もありましたが、こうやって昨日、12月12日の日曜に白梅の塔を再訪して、お逢いできました。
 いつものようにハグをすると、ぼくの腕のなかで16歳に戻られる気がしました。






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