公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

性善出家

2013-05-13 09:26:39 | 日記
19歳の夏(1977年)から私を悩ましていた問題は、この世を善と見るか、悪と見るかということだった。

性悪と見きって俗世を超越して出家するのか、性善と見て出家するのかでは覚悟が違うと、ある人物と議論した。とりあえず、性善と措いてみたが利害のせめぎ合う世間では何の役にも立たなかった。かと言って純情な連中まで悪と見るわけにもいかなかった。

結局、十把一絡げで、地獄と見ることにしたこの世が善悪無く、ともに地獄であるとわかれば、善悪が、互いに他を悪として言い争うことはない。

善悪の黒白では人の世は決まらない。よく生きるには死を知らなければならない。己の死を意識せずとも人は何十年も生きてゆくことはできるが、おのれを知らずに死に臨むことはできない。死を知らずに己を知ることはできない。なぜなら己そのものが死の要素であるとともに、死が己の一部分だからだ。老境になるまで生しか無い男は概してくだらない。

ここが地獄で皆してここに落ちてきたのだから、後は功徳を積んで来世の兆しがやってくるのを願うしか無い。演出家和田勉氏座右の銘「絶望の虚妄なること、希望の虚妄なるが如し」もまた同じ意味だろう。

かく思えるようになったのはつい10年ほど前のことだ。四半世紀も悩んでいたのだから、私は余程の苦行好きの馬鹿である。その上に安定した職業を捨てる苦労好きの馬鹿である。







私による、私のリンク集
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 肥やしになるのさ | トップ | 強奪社会とはこういう世界 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。