追補2023/08/04河北省では少なくとも10万人が避難しているが、北戴河は被害を受けていない。
ご長寿であった。
1958年御真影
三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年〈大正4年〉12月2日 - 2016年〈平成28年〉10月27日)は、日本の皇族。三笠宮家初代当主。歴史学者(古代オリエント史)。称号は澄宮(すみのみや)、お印は若杉(わかすぎ)。身位は親王。敬称は殿下[2]。勲等は大勲位。
ご逝去ではない。薨去である。毎日、朝日、読売は失格。
まだ存命の老人として日本人が覚えておくべきなのは
前田 光繁(まえだ みつしげ、1916年9月25日- 100歳)は、日本の海軍軍人。八路軍の日本人兵士第1号。
10年以上前
前田氏は次のように語った。「午前(9月2日)、胡錦濤主席の演説を聞き、深い感銘を覚えた。現在、中国の人々が平和な暮らしをしているのは、中国が世界各国と友好関係を結び、発展させているからである。胡錦濤主席は特に日中関係の「政冷経熱」(冷え込んだ政治関係、熱い経済交流)の現状に触れ、事実、多くの日本国民は日中友好を願い、日本では数多くの有識者が日中友好の大業に取り組んでいるが、しかし、日本を軍事主義の方に引きずっていこうとする勢力もある。これは、日本を含む世界各国の人々にとって注意しなければならないことである。日本は中国と友好関係を保っていかなければならないと考える。そうしなければ、日本は発展することはできず、存在しつづけることもむずかしい。胡錦濤主席の演説を聞いて、大いに奮い立たせられた。今後も引き続き努力し、極端な思潮に反対し、日中関係の友好的発展のために努めると思う」と語った。
前田氏と小林氏は記者の質問に答え、「今から見れば、60年前の戦争は中国人民に非常に大きな損害をもたらした侵略戦争である。60年前に中国侵略に参加した日本軍兵士の多くは農民であり、その中の数多くのものが死傷した。この面から見れば、日本は加害者であるとともに、被害者でもある。最初に反戦連盟が発足した時は、わずか三人であったが、1945年8月15日の日本の敗戦の時には、反戦連盟にはすでに1000人以上のメンバーがいた。これから見ても、かなり多くの日本人が戦争の罪悪を意識しており、かなり多くの人たちが平和と正義の側に立っていたことが分かる」と語った。
最後に、両氏は日中両国の将来について希望を表明し、「日中両国人民は相互理解を深め、困難を乗り越え、歴史を鑑とし、世世代代友好を保つことを願っている」と語った。
「チャイナネット」 2005/09/04
京都府で小規模手工業者の家庭に生まれる[1]。京都市立商工専修学校を卒業後、1936年(昭和11年)に海軍へ志願。呉海兵団に所属するが病気のため除隊。1年間の療養生活を経て、1937年(昭和12年)南満州鉄道関連企業に就職。1938年(昭和13年)、河北省で鉄道用砂利採取場の現場監督時に八路軍に連行される。八路軍野戦政治部に送られ、1939年(昭和14年)1月2日、八路軍へ入隊を表明し、野坂参三に次ぐ日本人民解放連盟の2番手となる。同年11月には八路軍内において「日本兵士覚醒連盟」を組織した。朱徳と行動を共にして戦闘に参加した後、1942年(昭和17年)に反戦活動のため延安に移動し、終戦まで同地にとどまった。
終戦後満州に赴き、中国共産党および八路軍の活動に協力しながら、通化事件にも関与した。日本人居留民は通化劇場に集められ、前田光繁から川内亮通化県副県長たちの処刑について当事者の責任であるから仕方のないことであるとした旨の説明がなされた。
その後も八路軍のために活動を続け、1958年(昭和33年)に日本へ帰国した。共産軍の勝利に貢献した前田光繁は日本に帰国後、日中友好会理事を務めるなどし、2005年には北京で開かれた「中国人民抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利60周年記念」に出席し、胡錦濤主席の統治を称えるとともに日中関係の友好的発展のために努めることを表明している。
参考
アグネス・スメドレー(宮本百合子評初出:「婦人文芸」1937(昭和12)年7月号)
「スメドレーは1892年にミズーリ州のオスグッドで農家の5人兄妹の1人として生まれた。10歳の頃コロラド州へ移り、学校へと通いながら家計を助けるために働いていた。彼女は正規の教育を受ける機会はなかったが、学習に対する興味は失わなかった。1911年から1912年にかけて、スメドレーはアリゾナ州テンピの師範学校で特待生として学んだ。学内では学生新聞の編集を行っている。
その後、スメドレーはアーネスト・ブラディン(Ernest Brudin)と結婚し、カリフォルニア州へと移住した。この地で社会主義の思想に触れた彼女は、6年後に離婚するとニューヨークへと向かった。ニューヨークではマーガレット・サンガーと共にBirth Control Review誌で働いている。インド人の共産主義者ヴォレンドラナート・チャットパディア(Virendranath Chattopadhyaya)と関係を深めると、彼とともにドイツへ渡った。1929年には初の自伝を書き上げている。」
「スメドレーは次なる興味の目標を中国大陸へと定め中華民国の上海へ向かった。上海ではソビエト連邦のスパイであったゾルゲと親密に親交し、後に彼の協力者となる尾崎秀実を紹介した[2]。尾崎はスメドレーの著作を日本語に翻訳している。このような経緯から、マッカーサーの部下であったチャールズ・ウィロビーはスメドレーをソビエトのスパイであると主張していた。スメドレーはこの主張に対し戦後告訴を試みている。
スメドレーは1930年代に始まった国共内戦と日中戦争の取材を行い、記事をフランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥングやマンチェスター・ガーディアン紙などへ投稿した。中国共産党傘下の八路軍へ密着した取材などで詳細なレポートを表している。1937年には戦場の第一線の取材を離れ、医薬品の供給や総括記事の執筆などを、1938年から1941年にかけては国民党と共産党双方の上層部の取材を行っている。このような精力的な活動は中国大陸での戦争を取材する外国人記者としては飛び抜けたものであった。
その後アメリカに戻り、第二次世界大戦及び国共内戦における中国共産党への援助に関する活動に従事している。この間数冊の著作を執筆した。印税ほ全て社会のために使い、友人の家に間借りするような質素な生活を送っていた。戦後1947年になり、東西両陣営の間の冷戦が深まる中で、彼女はスパイの容疑をかけられた。
スメドレーの活動も影響してか、アメリカからの支援が減った国民党軍は敗北し台湾島に遷都し、1949年には国共内戦に勝利した中国共産党によって、中華人民共和国が設立された。その翌年の1950年に、米下院下院非米活動委員会からスメドレーに召喚状が発せられたが、彼女はその日にロンドンに飛び、その晩急死した[3]。スメドレーの死の2年後、1952年にFBIは彼女に関する捜査を打ち切っている。遺骨は北京の墓地へ埋葬された。
コミンテルン文書の公開によって、スメドレーがコミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明した。」C・A・ウィロビー『赤色スパイ団の全貌:ゾルゲ事件』福田太郎訳、東西南北社刊、1953年、226、239頁
「ソ連崩壊後にロシア現代史文書保存・研究センターによって公開されたアメリカ共産党とコミンテルンの関係機密文書によって、スメドレーがコミンテルンから資金援助を受けて欧米向けの対外宣伝活動に従事していたことが判明した[7]。1935年ごろ『Voice of China』紙を創刊し、アメリカ共産党書記長のアール・ブラウダーはその新聞編集の助手として、自分の秘書のグレース・グラニッチとその夫マニー・グラニッチを派遣した。ブラウダーは1935年にコミンテルン書記長ゲオルギ・ディミトロフに宛てた書簡で、「貴兄が熟知しておくべき問題」の一つに、スメドレーから要請された中国における「反帝国主義の英字紙」の創刊資金援助をあげている[8]。これが『Voice of China』として実現したが、マッキンノン夫妻の評伝『アグネス・スメドレー 炎の生涯』によると、この新聞刊行は宋慶齢との関係を悪化させたという[8]。」
7.^ アメリカ共産党とコミンテルン-地下活動の記録104~108頁「アグネス・スメドレー、コミンテルンの工作員」
8.^ a b 『ゾルゲ事件 覆された神話』pp.183 - 184
遷都の経緯
朕、今万機を親裁シ、億兆ヲ綏撫ス、江戸ハ東国第一ノ大鎮、四方輻輳ノ地、宜シク親臨以テ其政ヲ視ルベシ、因テ自今、江戸ヲ称シテ東京トセン、是レ朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ、衆庶此意ヲ体セヨ
江藤新平の提案はいかのとおり
慶喜へは成丈別城を与へ、江戸城は急速に東京と被定、乍恐、天子東方御経営の御基礎の場と被成度、江戸城を以て東京と被相定、行々之処は東西両京の間鉄路をも御開き被遊候程の事無之ては、皇国後来両分の患ひなきにもあらずと被考候、且東方王化にそまざる事数千年に付、於当時も江戸城は、東京と被相定候御目的肝要に奉存候、是は策略も謀計も入らざる事に而、公明正大に皇国之振合、且つ皇威煌揚之基礎より後来の患慮等まで腹心を披き、慶喜へ御諭し相成候はゞ、必然慶喜拝承心服仕可候、於是、右之通り公然御布告、江戸を以東京と被相定候はゞ、東京の人民も甚だ安堵大悦可致候、さらば皇威を恢張し東京を鎮定し後来を維持す、是れ此間の御処分如何に極り可申候、如斯は其関係甚大なりとす、深く御考量奉希望候也、鳳輦御東下無之くば此機会去り可申歟、鳳輦御東下之折に当り、徳川氏の悪政を順々御除き、深く下民の疾苦を御察し、極て善美の政を御興し被成度、所謂祭忠臣之墓表孝子之門、田租を除き、廃疾を憫み、賢才の士を抜擢し、滞留の獄を決し、匹夫匹婦も其所を得せしめ、以て人心を収攬し以て皇沢を下通す等、鳳輦御東下無之ては、是れとてもうまくは行はれ間敷、尤も之を為すは極めて人を得るに可有之候
この書面には、大木と連名になっているが、これはまったく江藤の意見から出て、大木が連名したと見るのが正当である。大木はのちの喬任のことであって、同じ佐賀藩に育ち、江藤と身分の上では大した相違はなかったけれど、大木の家は相当に富んでいたので、江藤が脱藩して薩長二藩の人々と相交わり、天下国家のことに奔走していた時分に、大木はいつも兵站部の受け持ちをしていたのである。されば江藤が事を成した半ばの功は、大木に帰さなければならぬ事情もあったのだから、むろんのこと江藤が考えて、大木はこれに同意してこの書面を出すの運びになったものと、見るのが正当であろう。