奥揖斐山荘

奥揖斐の山、揖斐の伝統文化や料理など紹介

あのころ(45年前)の徳山  No221 0722

2021-07-23 06:51:22 | 奥揖斐の歴史など

あのころの徳山(昭和50年代前半の徳山村)

2021年 7月22日(木)

 朝、パソコンを起動中に血圧を測るのが私の日課。ブログを開くとブログ開設777日と書いてあった。書いた話題は220話程、約3.5日に一回ブログを書いた計算になる。カテゴリー1位は「山登り146話」、2位「奥揖斐の歴史など30話」、その他17話、雑談17と続く

 では、ラッキーNo777の記念に、タイトル奧揖斐山荘の名にちなみ、ほぼ45年前に撮った奧揖斐 徳山村の風景(フィルムで撮ったものをデジタルにしたもの)を紹介します

 徳山村徳山(本郷)のメインストリート

 昭和53(1978)年ころの9月21日(横断幕参照)電話がダイヤル化された。それまでは電化された黒電話ダイヤル0を回して(停電時は旧型電話の右のハンドルを回して)交換に〇〇番と話して通話先に繋いでもらった。「ここ徳山村では昭和38(1963)年ころまで、村の生活は明治以後と、あまり変わらなかった。この年になって、中部電力の電気導入があり、テレビをはじめ、いろいろな電気器具が購入され、生活も急速に変化した(徳山村史p3~4)。電気導入時、反対者がでたと聞いた。その理由は「※」、本当かどうかは聞いた話だから分からない

 徳山村役場と右に消防倉庫

徳山診療所、医師と看護師数名がおられた。山で転んでけがした時、こめかみの下3針縫うと言われたが、麻酔が効かず2針にまけてもらった

 

徳山小学校

徳山駐在所

徳山郵便局 就職して結婚するまで郵便局で毎月1万円現金書留で母に送った。22歳当時の手取りは寮費を引くと4万円切っていた

上開田にあった、岐阜県徳山ダム現地対策室と徳山村徳山ダム対策室

私が一番行った飲み屋さん、村の人はどこで(旅館?)飲んだか、小料理屋などは村にはなかった

バーがあり、ときどき飲みに行ったが、上司からは、夜は余り出歩くなと言われていた

徳山(本郷)の旅館前に、いつもこのトラックが停まっていた。日中に荷を積んで、翌朝出発するのだろう

上開田のメインストリート、子供がおしゃれだ

山手のメインストリート

戸入、旅館 増山屋 徳山のカメラばあちゃん、増山たづ子さん経営の旅館

本郷から上開田へ渡る池田橋。上開田は昔「池田村」といったし、揖斐川右岸(山手を除く)は池田郡であった(左岸は大野郡)

徳山橋:下開田から徳山(本郷)方面

山手橋(揖斐川左岸から右岸へ)の欄干

ダム建設が進む中、欄干の銘板がどこもかしこも剥ぎ取られたりした(剥がれた写真載せず)、誰かが記念に持って行かれたと思うが、私は寂しい思いがした

山手(揖斐川右岸)から山手橋を望む

門入、西谷川本流を下流側から望む

村営バスのバス停 門入

 看板では、朝9:10発と夕方4:45発がある[昭和45(1970)年11月開通、冬場(11月下旬から4月中旬は運休(徳山村史p10)]

 

☆ あとがき

・奧美濃のヤブ山(矢代竜也 著)の”あとがき”にでてくる”奧美濃ヤブ山登山”の主(ヌシ)の某氏は門入出身、昭和30年代はまだ本郷へ行くバスはなく、門入の若者は高校へ行くとき、日曜午後に家をでてホハレ峠経由で坂内川上まで歩き、バスに乗って揖斐へ、帰りは土曜の午後、川上バス停から同じコースで門入に帰っていたと聞いた。片道15キロ?3時間?

・徳山の方達が、徳山村から移転されて30数年。新聞その他、徳山の記事などが少なくなった(あるのは年1回の元服式くらい)。ダムで移転された人々のことが忘れられていないか?

 

注:徳山村には、徳山(本郷)、下開田(漆原村)、上開田(池田村)、山手、櫨原、塚、戸入、門入の8つの集落があった(漆原村と池田村が合併して開田になったので、徳山村の大字は7つしかない)

※ 電気導入時、反対者がでたと聞いた。その理由とは” 夜ばいができなくなる ”、本当かどうかは聞いた話だから分からない

 

徳山郵便局消印切手(44年前の7月22日)

 昨年9月1日のブログ「昔の切手など」で、公共施設等であれば、この切手、差し上げますと書いたが、希望者なし。この切手などの徳山グッズ、僕の代で廃棄か!!

 

 

コメント (2)
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