(01)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
② 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也。
③ 食(馬)者不〔知(其能千里而食)〕也。
といふ「3通リの管到(スコープ)」が考へられる。
然るに、
(02)
① 食馬者不知其能千里而食也=
① 食レ馬者不レ知二其能千里一而食也=
① 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也⇒
① (馬)食者〔(其能千里)知〕不而食也=
① (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知ら〕ずして食ふなり=
① 馬の飼い主は、自分の馬が千里も走る能力があることを知らないで飼うのである。
然るに、
(03)
② 食馬者不知其能千里而食也=
② 食レ馬者不下知二其能千里一而食上也=
② 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也⇒
② (馬)食者〔(其能千里)知而食〕不也=
② (馬を)食ふ者は〔(其の能の千里なるを)知りて食は〕ざるなり=
② 馬の飼い主は、自分の馬が千里も走る能力があることを知って飼うことをしない。
cf.
(旺文社、漢文の基礎、1973年、154頁)
然るに、
(04)
(ⅰ)
1(1)馬は飼ふが(その馬の能力を知ら)ずに、馬を飼ふ。 A
1(2) その馬の能力を知らない。 1&E
(ⅱ)
1 (1)馬は飼ふが(その馬の能力を知って、馬を飼ふ)といふことは無い。 A
1 (2)馬を飼ふ。 1&E
1 (3) (その馬の能力を知って、馬を飼ふ)といふことは無い。 1&E
4 (4) 馬を飼ふ。 A
5(5) その馬の能力を知る。 A
45(6) (その馬の能力を知って、馬を飼ふ) 45&I
145(7) (その馬の能力を知って、馬を飼ふ)といふことは無く、
(その馬の能力を知って、馬を飼ふ)。 36&I
14 (8) その馬の能力を知らない。 57RAA
1 (9)馬を飼ふならば、その馬の能力を知らない。 49CP
1 (ア) その馬の能力を知らない。 29MPP
cf.
① P& ~Q&P ├ ~Q
② P&~(Q&P)├ ~Q
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 食レ馬者不レ知二其能千里一而食也。
② 食レ馬者不下知二其能千里一而食上也。
であるならば、すなはち、
① 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
② 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也。
であるならば、すなはち、
① 馬の飼い主は、自分の馬が千里も走る能力があることを知らないで、飼うのである。
② 馬の飼い主は、自分の馬が千里も走る能力があることを知って、飼うことをしない。
であるならば、いづれにせよ、
① 自分の馬が千里も走る能力があることを知らない。
② 自分の馬が千里も走る能力があることを知らない。
然るに、
(06)
③ 食馬者不知其能千里而食也=
③ 食レ馬者不レ知二其能千里而食也一=
③ 食(馬)者不〔知(其能千里而食)〕也⇒
③ (馬)食者〔(其能千里而食)知〕不也=
③ (馬を)食ふ者は〔(其の能く千里にして食ふを)知ら〕ざるなり=
③ 馬を飼う者は、その馬が千里を走ることができて、(一食に、5.9リットルも)食べるのだということを知らない。
cf.
(日栄社、1日1題30日完成 漢文〔高校上級用〕、解答、1980年、11頁)
従って、
(06)により、
(07)
③ 食レ馬者不レ知二其能千里而食也一。
であるならば、すなはち、
③ 食(馬)者不〔知(其能千里而食)〕也。
であるならば、
③ 自分の馬が千里も走る能力があって、(一食に、5.9リットルも)食べるのだということを知らない。
従って、
(05)(07)により、
(08)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
② 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也。
③ 食(馬)者不〔知(其能千里而食)〕也。
といふ「管到(スコープ)」であれば、
① 自分の馬が千里も走る能力があることを知らない。
② 自分の馬が千里も走る能力があることを知らない。
③ 自分の馬が千里も走る能力があって、一石を食べるということを知らない。
といふ「意味」になる。
従って、
(08)により、
(09)
① 食(馬)者不〔知(其能千里)〕而食也。
② 食(馬)者不〔知(其能千里)而食〕也。
③ 食(馬)者不〔知(其能千里而食)〕也。
といふ「管到(スコープ)」であれば、「命題」として、
①=② であるが、
②=③ ではない。
(01)
[例]先生不レ知二何許人一。
[読み]先生は何許の人なるかを知らず。
[訳]先生がどこの出身の人であるかは分からない。〈陶潜・五柳先生伝〉
(注)この文の「先生」は主文の主語ではなく、名詞節の主語である。意味内容からすれば、「我不レ知二先生何許一」ということだが。
この文のように表現するから注意を要する。
(天野成之、漢文基本語辞典、1999年、60頁)
然るに、
(02)
① 鳥吾知其能飛=
① 鳥吾知(其能飛)⇒
① 鳥吾(其能飛)知=
① 鳥については、私は、飛べることを知ってゐる。
(史記、老子韓非列伝)
従って、
(02)により、
(03)
② 鳥吾不知其能飛=
② 鳥吾不〔知(其能飛)〕⇒
② 鳥吾〔(其能飛)知〕不=
② 鳥については、私は、飛べることを知らない。
然るに、
(04)
② 鳥吾不知其能飛。
に於いて、
鳥=先生
能飛=何許人
といふ「代入」を行ふと、
③ 先生吾不知其何許人=
③ 先生吾不〔知(其何許人)〕⇒
③ 先生吾〔(其何許人)知〕不=
③ 先生は、吾〔(其の何許人ならかを)知ら〕不=
③ 先生については、私は、どこの出身の人であるかは分からない。
といふ「漢文」になる。
従って、
(01)~(04)により、
(05)
③ 先生_不知_何許人。
といふ「漢文」は、
③ 吾 其
が「省略」されてゐる。
といふ風に、「解釈」出来るし、そのため、
③ 先生吾不知其何許人。
に於いて、
③ 先生=其
である。
然るに、
(06)
③ 先生吾不知其何許人。
③ 先生=其
であるといふことは、
③ 吾不〔知(先生何許人)〕。
といふこと、すなはち、
③ 我不レ知二先生何許一。
といふことに、他ならない。
(01)
① 鳥吾知其能飛=
① 鳥吾知(其能飛)⇒
① 鳥吾(其能飛)知=
① 鳥は吾(其の能く飛ぶを)知る=
① 鳥についていえば、(わたしはそれが飛ぶ能力のあることを)知っている(西田太一郎 訳)。
(02)
② Birds,I know that they can fly=
② Birds,I know[that〔they can(fly)〕]⇒
② Birds,I [〔they (fly)can〕that]know=
② 鳥たち、私は[〔彼らが(飛べ)る〕といふことを]知ってゐる。
従って、
(01)(02)により、
(03)
① 鳥吾知其能飛。
② Birds,I know that they can fly.
に於いて、
①=② である。
然るに、
(04)
that の作る名詞節が主節の目的語になる場合:
主節の動詞が日常会話でよく使う、think、say、know、hear などの場合には省略されることが多いです。
I know (that) he went with her.(彼が彼女と付き合っていたのを知っている)
(英文中のthatが「省略」される場合はどんな時か?)
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 鳥、吾知其能飛。
② Birds,I know they can fly.
に於いて、
①=② である。
然るに、
(06)
① 鳥=其
② Birds=they
従って、
(05)(06)により、
(07)
「番号」を付け直すと、
① 鳥、吾知其能飛。
② 鳥、吾知鳥能飛。
③ Birds,I know they can fly.
④ Birds,I know Birds can fly.
に於いて、
①=②=③=④ である。
従って、
(07)により、
(08)
① 鳥、吾知其能飛。
③ Birds,I know they can fly.
といふ、
① 漢文
③ 英文
は、両方とも、
①『「従属節の主語β」が、「主節の主語α」の前に、前置されて、「従属節の主語β」が、「代名詞γ」に置き換はった、「文型」である。』
②『「従属節の主語β」が、「主節の主語α」の前に、前置されて、「従属節の主語β」が、「代名詞γ」に置き換はった、「文型」である。』
然るに、
(09)
第17節 大主語・提示語・副詞的修飾語
主語・述語の順序で並べられた文章で、述語の上に置かれる語が一つの主語ではなく、主語が重なっている場合がある。
また何かについて述べようとしてその語をまず先に掲げておいて、その次にそれについて具体的に説明する場合がある。
そのほか行為や事件のあった時や所を何の媒介する語もなしで述語より前に置くことがある。
(西田太一郎、漢文の語法、1980年、120頁)
従って、
(09)により、
(10)
「提示語」とは、 「何かについて述べようとしてその語をまず先に掲げておいて、その次にそれについて具体的に説明する場合の語」を言ふ。
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 鳥、吾知其能飛。
③ Birds,I know they can fly.
といふ、
① 漢文
③ 英文
は、両方とも、
①『「従属節の主語β」が、「提示語」として、「主節の主語α」の前に、前置されて、「従属節の主語β」が、「代名詞γ」に置き換はった、
「文型」である。』
②『「従属節の主語β」が、「提示語」として、「主節の主語α」の前に、前置されて、「従属節の主語β」が、「代名詞γ」に置き換はった、
「文型」である。』
従って、
(12)
① 鳥吾知其能飛。
といふ「漢文(史記、老荘申韓列伝)」は、「提示語・主節の主語・従属節の主語」といふ「用語」によって、「高校生にも理解可能な形」で
「説明」出来る。
従って、
(13)
逆に言ふと、「主節の主語・従属節の主語」といふ「用語」を用ひなければ、
① 鳥吾知其能飛。
といふ「漢文(史記、老荘申韓列伝)」は、「高校生にも理解可能な形」で「説明」することは、出来ない。
cf.
これを、諸君たち得意の英文法の用語でいえば、「従属節の主語が主節の主語の前に置かれた強意の構文」てなことになろう。
(二畳庵主人、漢文法基礎、1984年、329頁)
然るに、
(14)
「主語」を廃止しようというのは、この用語のままでは困るからである。困ることが前提である。だから、まず困ってもらわないと、困るのである。困ったことには、まず困るというところへも行かない人がかなり多いらしい。
(三上章、日本語の論理、1963年、148頁)
従って、
(13)(14)により、
(15)
(ⅰ)これを、諸君たち得意の英文法の用語でいえば、「従属節の主語が主節の主語の前に置かれた強意の構文」てなことになろう。
(ⅱ)「主語」を廃止しようというのは、この用語のままでは困るからである。困ることが前提である。
とは、言ふものの、
(ⅱ)「主語」といふ「用語」を廃止する。
といふのであれば、私自身は、例へば、
① 鳥吾知其能飛=
① 鳥吾知(其能飛)⇒
① 鳥吾(其能飛)知=
① 鳥は吾(其の能く飛ぶを)知る=
① 鳥についていえば、(わたしはそれが飛ぶ能力のあることを)知っている(西田太一郎 訳)。
といふ「漢文訓読」を、「理解」出来ない。
といふ、ことになる。
従って、
(16)
(ⅱ)「主語」といふ「用語」を廃止する。
といふのであれば、私自身は、「大いに、困る」ことになる。
(17)
困ったことには、まず困るというところへも行かない人がかなり多いらしい。
とは、言ふものの、「三上文法」は、「日本語の古典文法(学校文法)」よりも、はるかに難しくて、困ったことに、私には、全く、理解出来ない。
(01)
① 不二甚善一=
① 不(甚善)⇒
① (甚善)不=
① (甚だしくは善か)ら不。
(02)
② 甚不善⇔
② 甚不レ善⇔
② 甚不(善)⇒
② 甚(善)不=
② 甚だ(善から)不。
然るに、
(03)
つまり、「否定語+副詞」のときはその副詞をふくめた内容が否定されるので、否定されることがらが副詞によって修飾されて部分的に限定されることになる。
逆に「副詞+否定詞」のときは、副詞が不定語を修飾することになるので、否定されることがらは否定語の下におかれた全般にわたることになる。
(旺文社、漢文の基礎、1973年、73頁)
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
「漢文訓読」といふ「語法」からすれば、
①(甚だしくは、善から)不。
② 甚だ(善から)不。
に於いて、
①(大変、善い)とまでは、言へない。
② 大変(、善くない)。
である。
従って、
(04)により、
(05)
①(甚だしくは、善から)不。
② 甚だ(、善から)不。
に於いて、
① それなりに、善い。
② とても、善くない。
である。
従って、
(05)により、
(06)
①(驚くほどは、上手く)ない。
② 驚くほど、(上手く)ない。
に於いて、
① それなりに、上手いが、驚くほどではない。
② とても、下手で、驚いてしまふ。
である。
然るに、
(07)
①(アマチュアである、あなたの演奏は)それなりに、上手いが、驚くほどではない。
②(アマチュアである、あなたの演奏は)とても、下手で、驚いてしまふ。
に於いて、
② のやうに言はれれば、「傷付く」であらうが、
① のやうに言はれても、「傷付く」ことは、ないはずである。
然るに、
(08)
私の場合は、私よりも一つ年上の女性に対して、
②(あなたの演奏は、)驚くほど、上手くない。
とは言はず、
①(あなたの演奏は、)驚くほどは上手くない。
と言ったところ、『ものすごい剣幕で、怒られた』といふことを、経験してゐる。
然るに、
(09)
ひとりの人間の発達史において、文系・理系の区分が初めて明確に意識されるようになるのは、一般には大学受験に備える高校の高学年からである。[12]しかしながら、大学受験という一回のチャンスに人生が大きく影響されるという考えが根強い日本では、幼いころから「この子は算数や理科が得意だから理系」「この子は社会や国語を好むから文系」などと言われるようである。
(ウィキペディア)
然るに、
(10)
その方は、「理系の高校生」であったため、「文系の高校生」であった、私ほどには、「漢文」を、勉強していなかったに違ひない。
従って、
(04)(07)(10)により、
(11)
「漢文の語法」といふ「日本語の語法」に従って、
①(アマチュアである、あなたの演奏は)それなりに、上手いが、驚くほどではない。
と、私が、発言したにも拘はらず、
②(アマチュアである、あなたの演奏は)とても、下手で、驚いてしまふ。
といふ「意味」に、「誤解」してしまひ、その「結果」として、その女性は、『ものすごい剣幕で、怒られた』のではないのか。
といふ風に、私自身は、思ってゐる。
(12)
守株(韓非子)
〔返り点〕
① 宋人有 耕二田者一。
② 田中有レ株、兎走觸レ株、折レ頸而死。
③ 因釋其耒一而守株、冀二復得一レ兎。
④ 兎不レ可二復得一、而身爲二宋國笑一。
⑤ 今、欲下以二先王之政一、治中當世之民上、皆守株之類也。
〔括弧〕
① 宋人有〔耕(田)者〕。
② 田中有(株)、兎走觸(株)、折(頸)而死。
③ 因釋(其耒)而守(株)、冀〔復得(兎)〕。
④ 兎不〔可(復得)〕、而身爲(宋國笑)。
⑤ 今欲〔以(先王之政)、治(當世之民)〕、皆守(株)之類也。
〔訓読〕
① 宋人に〔(田を)耕す者〕有り。
② 田中に(株)有り、兎走りて(株に)觸れ、(頸を)折りて死す。
③ 因りて(其の耒を)釋てて(株を)守り、〔復た(兎を)得んことを〕冀ふ。
④ 兎〔(復た得)可から〕ずして、身は(宋國の笑ひと)爲れり。
⑤ 今〔(先王之政)以て、(當世之民)治〕欲、皆(株)守の類なり。
〔通釈〕
① 宋の国の人で、畑を耕作しているものがあった。
② 畑の中に、木の切り株があって、兎が走ってきて、切り株に突っ込み、首の骨を折って死んだ。
③ そこで、畑を耕作しているものは、耒を手放し、株を見守り、もう一度、兎を手に入れるたいものだと、願った。
④ 兎は、二度とは、手に入らず、その人は、宋の国の、笑い者になった。
⑤ 昔の聖王の行なった政治によって、今の国民を治めようとすることは、すべて、このような話と、同じことである。
(13)
④ 兎不〔可(復得)〕。
⑭ 兎復不〔可(得)〕。
であれば、「訓読の語順」は、両方とも、
④ 兎〔(復得)可〕不。
⑭ 兎復〔(得)可〕不。
である。
従って、
(13)により、
(14)
④ 兎不〔可(復得)〕。
⑭ 兎復不〔可(得)〕。
であれば、
④ 兎、復た、得べからず。
⑭ 兎、復た、得べからず。
となって、「訓読」すれば、「区別」が無い。
然るに、
(03)(13)(14)により、
(15)
④ 兎不〔可(復得)〕。
⑭ 兎復不〔可(得)〕。
に於いて、それぞれ、
④ 兎を、「2度得る」ことは、来なかった。 ⇒「兎を、1度は、得ること」が出来た。
⑭ 兎を、「得ること出来ない」ことが、2度、続いた。⇒「兎を、1度も、得ること」が出来なかった。
である。
従って、
(14)(15)により、
(16)
④ 兎不〔可(復得)〕。
⑭ 兎復不〔可(得)〕。
であれば、
④ 兎、復た、得べからず。
⑭ 兎、復た、得べからず。
となって、「訓読」すれば、「区別」が無いが、
④ 兎を、一度は、得ることが出来た。
⑭ 兎を、一度も、得ることが出来なかった。
となるため、「命題」としては、
④=⑭ ではない。
従って、
(03)(16)により、
(17)
④ 兎不可復得。
⑭ 兎復不可得。
といふ「漢文」の、
④ 兎不〔可(復得)〕。
⑭ 兎復不〔可(得)〕。
といふ「括弧」は、極めて、「重要」である。
(01)
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 我不常読漢文。
であるならば、
① 我=主語
① 常=修飾語
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=修飾語
① 文=補足語
である。
然るに、
(03)
① 我=主語
ではなく、
① 我=連用修飾語
であるとし、
① 我=連用修飾語
① 常=連用修飾語
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=連体修飾語
① 文=補足語
であるとする。
然るに、
(04)
「連用修飾語」を「 副詞 」とし、
「連体修飾語」を「形容詞」とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
① 我=副詞
① 常=副詞
① 不=叙述語
① 読=叙述語
① 漢=形容詞
① 文=補足語
であるとする。
然るに、
(06)
① 我不〔常読(中文)〕。
に於いて、
不〔 〕⇒〔 〕不
読( )⇒( )読
といふ「移動」を行ふと、
① 我不〔常読(漢文)〕⇒
① 我〔常(漢文)読〕不=
① 我〔常には(漢文を)読ま〕ず。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
然るに、
(07)
「管到」とは、ある語句がそのあとのどの漢字までかかっているか、という範囲のことである。白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、143頁)。
然るに、
(08)
「副詞」は、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」とする。
従って、
(05)~(08)により、
(09)
① 我不〔常読(漢文)〕。
に於いて、
① 我( 副詞 ) は、「不(叙述語)」を介して、〔常読(漢文)〕に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 不(叙述語) は、「不(叙述語)」として、 〔常読(漢文)〕に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 常( 副詞 ) は、「読(叙述語)」を介して、 読(漢文) に、「管到する(掛かってゐる)」。
① 読(叙述語) は、「読(叙述語)」として、 読(漢文) に、「管到する(掛かってゐる)」。
然るに、
(10)
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
□[ ]⇒[ ]□
□{ }⇒{ }□
□〈 〉⇒〈 〉□
といふ「移動」を、行ふと、
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也⇒
② 我〈必{[〔(中文)解法〕以(漢文)解]求}不者〉非也=
② 我は〈必ずしも{[〔(中文を)解する法を〕以て(漢文を)解せんことを]求め}不る者に〉非ざる也。
といふ「訓読の語順」を、得ることになる。
従って、
(07)(08)(10)により、
(11)
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
② 我(副詞) は、「非(叙述語)」を介して、〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉に、「管到する(掛かってゐる)」。
従って、
(09)(11)により、
(12)
① 我不〔常読(漢文)〕。
② 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
に於いて、
「我」は「副詞」であって、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」。
従って、
(07)(12)により、
(13)
「白文の訓読では、それぞれの漢字の意味や品詞を自分で考え、その漢字が後ろのどこまでかかっているか、考えねばならない。」
といふことが、あるものの、その場合は、
「我」は「副詞」であって、「叙述語」を介して、「補足語」に「管到する(掛かってゐる)」。
といふことを、「確認」する、「必要」がある。
従って、
(14)
例へば、
① 読書。
② 我読書。
③ 我不読書。
④ 我不常読書。
⑤ 我解漢文者也。
⑥ 我非解漢文者也。
⑦ 以解中文法解漢文。
⑧ 求以解中文法解漢文。
⑨ 不求以解中文法解漢文。
⑩ 不求以解中文法解漢文者。
⑪ 非不求以解中文法解漢文者。
⑫ 我非不求以解中文法解漢文者。
⑬ 我非不求以解中文法解漢文者也。
⑭ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「白文」を「訓読」する際に於いて、
② 我
③ 我
④ 我
⑤ 我
⑥ 我
⑬ 我
⑭ 我
は、すべて「副詞」である。
然るに、
(01)により、
(15)
⑮ 我日本人也(I am a japanese)。
の場合は、
(一)主述構造 主語―述語
である。
従って、
(15)により、
(16)
⑮ 我日本人也(I am a japanese)。
であれば、
⑮ 我 は「名詞」であって、「副詞」ではない。
従って、
(01)~(16)により、
(17)
「白文訓読」といふ「観点」からすると、
「我」は、時に、「副詞」であって、時に、「名詞」である。
然るに、
(18)
修辞法でも、自分のことをわざと気取って第三者的に「人」と呼んだり、身分面では、天子は「朕」、諸侯は「寡人」、臣下は「臣」と称するなど、漢文における一人称および一人称的に使われる語彙はきわめて豊富である。この感覚は日本人にもわかりやすい(加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、36頁)。
(19)
「日本語に即した文法の樹立を」を目指すわれわれは「日本語で人称代名詞と呼ばれているものは、実は名詞だ」と宣言したい。どうしても区別したいなら「人称名詞」で十分だ。日本語の「人称代名詞」はこれからは「人称名詞」と呼ぼう(金谷武洋、日本語文法の謎を解く、2003年、40・41頁)。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
「白文訓読」といふ「観点」からすると、
「我」は、「副詞」であって、「名詞」であるとしても、「(英文法でいふやうな)人称代名詞」といふ、わけではない。
(01)
漢語文法の基礎となっている文法的関係として、次の四つの関係(構造)をあげることができる。
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、281・282頁改)
従って、
(01)により、
(02)
① 我非必欲以美田養妻子者。
といふ「漢文」を、
① 我*非必欲以美田養妻子者。
と書くならば、
① 我* は、「主語*」である。
同じく、
(01)により、
(03)
① 我*非必+欲以美+田養妻子+者。
と書くならば、
① +以 は、「+被修飾語」であって、
① +田 は、「+被修飾語」であって、
① +者 は、「+被修飾語」である。
然るに、
(04)
① 我非必欲以美田養妻子者也=
① 我非[必欲〔以(美田)養(妻子)〕者]也⇒
① 我[必〔(美田)以(妻子)養〕欲者]非也=
① 我は[必ずしも〔(美田を)以て(妻子を)養はんと〕欲する者に]非ざる也。
然るに、
(05)
漢語における語順は、国語と大きく違っているところがある。すなわち、その補足構造における語順は、国語とは全く反対である。しかし、訓読は、国語の語順に置きかえて読むことが、その大きな原則となっている。それでその補足構造によっている文も、返り点によって、国語としての語順が示されている(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、296頁)。
従って、
(01)(04)(05)により、
(06)
① 我*非[必+欲〔以(美+田)養(妻子)〕+者]也。
と書くならば、
①[ 〔 ( )( ) 〕 ] は「補足構造」である。
然るに、
(01)(06)により、
(07)
① 我*非[必+欲〔以(美+田)養(妻・子)〕+者]也。
と書くならば、
① ・子 は「・並列語」である。
従って、
(01)~(07)により、
(08)
① 我非必欲以美田養妻子者。
といふ「漢文」を、
① 我*非[必+欲〔以(美+田)養(妻・子)〕+者]也。
と書くならば、その中には、
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
といふ「構造」が、四つとも、示されてゐる。
然るに、
(09)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君子不{以[其所‐以〔養(人)〕者]害(人)}⇒
② 君子{[其〔(人)養〕所‐以者]以(人)害}不=
② 君子は{[其の〔(人を)養ふ〕所‐以の者]以て(人を)害せ}不。
に於いて、
②「所‐以」は、「複合語」であって、「複合語」といふ「カテゴリー」は、
(一)主述構造 主語―述語
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
(三)補足構造 叙述語―補足語
(四)並列構造 並列語―並列語
といふ「四つ」の中には無い。
そのため、
(10)
「複合語」を表す「記号」として、「‐(接続線)」を導入する。
従って、
(08)~(10)により、
(11)
② 君子不以其所以養人者害人=
② 君+子*不{以[其+所‐以〔〔養(人)〕+者]害(人)}。
である。
(12)
③ 欲呼張良与倶去=
③ 欲〔呼(張良)与倶去〕=
③ 欲〔呼(張良)与(張良)倶去〕=
③ 〔(張良)呼(張良)与倶去〕欲=
③ 〔(張良を)呼びて(張良)と倶に去らんと〕欲す。
従って、
(12)により、
(13)
③ 欲呼張良与倶去。
の場合は、
③ 欲呼張良与張良倶去。
の、 張良 が、「省略」されてゐる。
従って、
(08)(12)(13)の場合は、
(14)
③ 欲呼張良与倶去。
の場合は、
③ 欲〔呼(張良)与(##)倶+去〕。
といふ風に、書くことにする。
(15)
④ 所謂、致知在格物者、言欲致吾之知、在物而窮其理也=
④ 所‐謂、致(知)在〔格(物)〕者、言[欲〔致(吾之知)〕、在〔即(物)而窮(其理)〕]也=
④ 所‐謂、(知)致〔(物)格〕在者、[〔(吾之知)致〕欲、〔(物)即而(其理)窮〕在]言也=
④ 所‐謂、(知を)致し〔(物に)格るに〕在りトハ、[〔(吾ノ知を)致さんと〕欲すれば、〔(物に)即きテ(其の理を)窮はむる〕在るを]言ふ也。
従って、
(15)により、
(16)
④「者」=「トハ」。
④「之」=「ノ」。
④「而」=「テ」。
であるものの、これらの「助詞」は、「太字で、書く」ことにする。
従って、
(08)(10)(16)により、
(17)
④ 所謂、致知在格物者、言欲致吾之知、在物而窮其理也=
④ 所‐謂、致(知)在〔格(物)〕者、言[欲〔致(吾之知)〕、在〔即(物)而窮(其+理)〕]也。
従って、
(01)~(17)により、
(18)
例へば、
① 我非必欲以美田養妻子者。
② 君子不以其所以養人者害。
③ 欲呼張良与張良倶去。
④ 所謂、致知在格物者、言欲致吾之知、在物而窮其理也。
といふ「漢文の基本構造」は、例へば、
① 我*非[必+欲〔以(美+田)養(妻・子)〕+者]也。
② 君+子*不{以[其+所‐以〔〔養(人)〕+者害(人)}。
③ 欲〔呼(張良)与(##)倶+去〕。
④ 所‐謂、致(知)在〔格(物)〕者、言[欲〔致(吾之知)〕、在〔即(物)而窮(其+理)〕]也。
といふ風に、表すことが、出来る。
(19)
【君子】クンシ ① 徳の高い立派な人。
【コ】シ ② 男子の通稱。
(大修館、大漢和辞典)
従って、
(19)により、
(20)
君子=君(立派な)+子(男子)
である。
従って、
(01)(21)により、
(21)
君子=君(立派な)+子(男子)
君子=君(修飾語)+子(被修飾語)
であるが、
形容詞(修飾語)+名詞(被修飾語)
だけでなく、
副詞(修飾語)+動詞(被修飾語)
の場合も、
(二)修飾構造 修飾語―被修飾語
であるため、「注意」が、必要である。
(01)
① 雨降。(雨降る)
(笠間書院、漢文の語法と故事成語、2005年、32頁改)
然るに、
(02)
① 雨降。
② 降雨。
に於いて、「普通」は、
① ではなく、
② である。
然るに、
(03)
② 天降レ雨=天、雨を降らす。
に於いて、
② 天(主語)
を「省略」すると、
② 降雨。
となる。
cf.
天(2)天にいます最高の神(学研、新版 漢字源、1999年、1543頁)。
(04)
③ 小人之学、入乎耳(小人の学は耳よる入る)。
に於いて、
③「乎」は「前置詞(from)」である。
(05)
④ 病従口入(病は口より入る)。
に於いて、
④「従」は「前置詞(from)」である。
従って、
(04)(05)により、
(06)
③ 小人之学、入乎耳(小人の学は耳よる入る)。
の「語順」に合はせるのであれば、
④ 病従口入(病は口より入る)。
ではなく、
④ 病入従口(病は口より入る)。
でなければ、ならない。
(07)
⑤「人を知らず」は「不レ知レ人」であるが、
⑤「己を知らず」は「不ニ己知一」である。
(岩波全書、漢文入門、1957年、23頁改)
従って、
(08)
⑤ 不己知(己を知らず)。
である以上、
⑤ 不己如(己に如かず)。
でなければ、ならない。
然るに、
(09)
「論語、学而」の場合は、何故か、
⑤ 不己如(己に如かず)。
ではなく、
⑥ 不如己(己に如かず)。
である。
(10)
⑦ 如雪(雪の如し)。
は、「(転倒のない)普通の語順」である。
然るに、
(11)
「何」「誰」などの疑問代名詞(が補語)であるときは、例外もあるけれども、一般的にいって、その語順が轉倒し、「何事(何をか事とす)」となる。
(岩波全書、漢文入門、1957年、23頁改)
従って、
(10)(11)により、
(12)
⑦ 如何(いかん)。
の、何」は、「転倒」されて、
⑧ 何如(いかん)。
となる。
然るに、
(13)
⑧ 何如(いかん) ⇔ どうであるか(どのやうか)。
に対して、
⑨ 如何(いかんせん)⇔ どうするか(いかにするか)。
である。
従って、
(13)により、
(14)
⑧ 何如(いかん) ⇔ どうであるか(どのやうか)。
⑨ 如之何(これをいかんせん)⇔ これをどうするか(これを、いかにするか)。
といふ、ことになる。
然るに、
(15)
コ・ラ・ム 「何如」と「如何」の違い ―
状況・程度などを問うときは「何如」を、手段・方法などを問うときは「如何」を用いる。しかし、混用されこともあり、文の前後関係から判断する必要がある。
(桐原書店、【基礎から解釈へ】漢文必携、2004年、47頁)
(11)により、
(16)
もう一度、確認すると、
「英語」と同様、「何(What)、誰(Who)」は、「普通」は「前置(強調)」される。
然るに、
(17)
⑩ 孰爲夫子(論語、微子)。
に於いて、
孰=Who
為=is
夫子=the teacher
である。
従って、
(17)により、
(18)
⑩ 孰爲夫子(だれをか夫子となす)。
の場合は、そのまま、
⑩ Who is the teacher?
である。
然るに、
(19)
⑪ 子為誰(論語、微子)。
の「語順」は、
⑪ You are who?
であって、
⑪ Who are you?
ではない。
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
⑩ 誰が先生か(誰爲夫子)。
⑪ あなたは誰か(子為誰)。
に於いて、
⑩ の「誰」は「前値(強調)」され、
⑪ の「誰」は「前値(強調)」されない。
従って、
(11)(20)により、
(21)
確かに、
「何」「誰」などの疑問代名詞(が補語である場合)の「転倒(前置)」には、「例外」が有る。
(22)
⑫ 復不得兎=
⑫ 復不レ得レ兎=
⑫ 復不〔得(兎)〕⇒
⑫ 復〔(兎)得〕不=
⑫ 復た〔(兎を)得〕ず。
の場合は、
⑫「1度目は、兎を得ることが出来ず」、
⑫「2度目も、兎を得ることが出来なかった」。
といふ「意味」である。
然るに、
(23)
⑬ 不復得兎=
⑬ 不レ復得一レ兎=
⑬ 不〔復得(兎)〕=
⑬ 〔復(兎)得〕不⇒
⑬ 〔復た(兎を)得〕ず。
の場合は、
⑬「1度目は、兎を得ることが出来たが」、
⑬「2度目は、兎を得ることが出来なかった」。
といふ「意味」である。
従って、
(24)
⑫ 復不得兎(復た兎を得ず)。
⑬ 不復得兎(復た兎を得ず)。
の場合は、「訓読」をすれば「同じ」であるが、「語順」が「異なる」ことによって、「意味」も変はって来る。
ただし、
(25)
⑫ 復レ不レ得レ兎(兎を得ざること、復たなり)。
⑬ 不レ復レ得レ兎(兎を得ること、復たはならず)。
といふ風に「訓読」すれば、「訓読・語順・意味」は、すべて、「同じ」ではない。
(26)
⑭ 看雁還。
であるならば、
⑭ 看雁還(雁を看て、私は還る)。
なのかも、知れないし、
⑭ 看雁還(私は、雁が還って行くのを看る)。
なのかも、知れない。
然るに、
(27)
⑮ 看雁而返(雁を看て還る)。
であれば、
⑮ 看雁還(私は、雁が還って行くのを看る)。
といふ「意味」では、有り得ない。
従って、
(28)
⑭ 看雁還(雁を看て、私は還る)。
であって、
⑭ 看雁還(私は、雁が還って行くのを看る)。
ではない。
といふことを、ハッキリさせたい場合は、
⑮ 看雁而還(雁を看て還る)。
といふ風に、書くことになる。
(29)
⑯ 越与呉戦、大敗。
⑰ 越与呉戦、大敗之。
に於いて、
⑯ 越、呉と戦ひ、大敗す。 ⇒ 負けたは越、勝ったのは呉。
⑰ 越、呉と戦ひ、大ひに之を敗る。⇒ 負けたは呉、勝ったのは越。
であると、加藤徹先生が、述べてゐる(白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、39頁)。
(30)
質問者:cake-2009質問日時:2009/11/09 19:31回答数:1件
ラテン語は、英語の10倍難しいと聞いたのですが、本当ですか? 難しいという感覚は主観的なものなので、人によって違うかもしれませんが…
No.1ベストアンサー
回答者: Oubli 回答日時:2009/11/09 22:13
動詞は直接法が6時制、接続法が4時制あり、1~3人称、単数と複数でそれぞれ6形に語尾変化し、能動相と受動相も語尾変化で区別されます(他に命令法や分詞もあります)。語尾変化の体系は第一活用から第四活用まであります(単語によって決まる)。
名詞は6つの格、単数と複数で語尾変化し、男性・女性・中性のどれかに決まっており、語尾変化の体系は第一変化から第五変化まであります(単語によって決まる)。形容詞も名詞に似た感じで変化します。 要するに、日本語で動詞+助動詞+主語の人称・数、名詞+助詞+文法性・数といった情報が語尾変化によって1語に凝縮されており、しかもその変化体系が均一ではありません。もちろん私はラテン語をマスターしていませんが、文法をひととおりみてみると、フランス語の動詞活用やドイツ語の格変化はかなり簡易化されており、英語にいたっては児戯に等しいことが解ると思います。主観的には10倍どころではありません(教えて!goo)。
といふこと(語形変化)は、「ラテン語」には有っても、「漢文」には、一切、無い。
従って、
(31)
「語順こそ」が、「漢文の文法」である。
といふ風に、言へないこともない。
(01)
[三] 借虎威(戦國策)
① 虎求百獸而食之得狐。
② 狐曰子無敢食我也。
③ 天帝使我長百獸。
④ 今子食我是逆天帝命也。
⑤ 子以我爲不信吾爲子先行。
⑥ 子隨我後觀。
⑦ 百獸之見我而敢不走乎。
従って、
(01)により、
(02)
「括弧」を付けると、
① 虎求(百獸)而食(之)得(狐)。
② 狐曰子無〔敢食(我)〕也。
③ 天帝使〔我長(百獸)〕。
④ 今子食(我)是逆(天帝命)也。
⑤ 子以(我)爲〔不(信)〕吾爲(子)先行。
⑥ 子隨(我後)觀。
⑦ 百獸之見(我)而敢不(走)乎。
従って、
(02)により、
(03)
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒〔 〕□
といふ「移動」を行ふと、
① 虎(百獸)求而(之)食(狐)得。
② 狐曰子〔敢(我)食〕無也。
③ 天帝〔我(百獸)長〕使。
④ 今子(我)食是(天帝命)逆也。
⑤ 子(我)以〔(信)不〕爲吾(子)爲先行。
⑥ 子(我後隨)觀。
⑦ 百獸之(我)見而敢(走)不乎。
従って、
(03)により、
(04)
「平仮名」を加へると、
① 虎(百獸を)求めて(之を)食ひ(狐を)得たり。
② 狐曰く子〔敢へて(我を)食ふこと〕無かれ。
③ 天帝〔我をして(百獸に)長たら〕使む。
④ 今子(我を)食はば是(天帝の命に)逆ふなり。
⑤ 子(我を)以て〔(信なら)ずと〕爲さば吾(子の)爲に先行せん。
⑥ 子(我が後に隨ひて)觀よ。
⑦ 百獸の(我を)見て敢へ(走ら)ざらんや。
然るに、
(05)
【走】ス(呉)、ソウ(漢)
②《動詞》にげる(にぐ)、速足でにげる。
(学研、漢和大辞典、1978年、1269頁)
従って、
(01)~(05)により、
(06)
「文脈」と、「走」の「意味」からすると、
(ⅱ)敢不走乎。
といふ「漢文(反語)」は、
(〃)(逃げたいが、逃げたいといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げない。といふことは、出来るだらうか(、いや、出来ない)。
といふ、「意味」である。
従って、
(06)により、
(07)
① 敢 走。⇔(逃げたくないが、逃げたくないといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げる。
② 敢不走。⇔(逃げたいが、 逃げたいといふ 気持ちを、押しとどめて、)逃げない。
③ 不敢 走。⇔(逃げたくないが、逃げたくないといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げる。 といふことが出来ない。
④ 不敢不走。⇔(逃げたいが、 逃げたいといふ 気持ちを、押しとどめて、)逃げない。といふことが出来ない。
従って、
(07)により、
(08)
① 敢 走。⇔(逃げたくないが、逃げたくないといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げる。
② 敢不走。⇔(逃げたいが、 逃げたいといふ 気持ちを、押しとどめて、)逃げない。
③ 不敢 走。⇔(逃げたくないが、逃げたくないといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げる。 といふことが出来ない。⇔ 逃げない。
④ 不敢不走。⇔(逃げたいが、 逃げたいといふ 気持ちを、押しとどめて、)逃げない。といふことが出来ない。⇔ 逃げる。
従って、
(08)により、
(09)
「結果」だけからすると、
① 敢 走。⇔ 逃げる。
② 敢不走。⇔ 逃げない。
③ 不敢 走。⇔ 逃げない。
④ 不敢不走。⇔ 逃げる。
であるものの、
① 敢 走。⇔(逃げたくないが、逃げたくないといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げる。
④ 不敢不走。⇔(逃げたいが、 逃げたいといふ 気持ちを、押しとどめて、)逃げない。といふことが出来ない。⇔ 逃げる。
であって、
② 敢不走。⇔(逃げたいが、 逃げたいといふ 気持ちを、押しとどめて、)逃げない。
③ 不敢 走。⇔(逃げたくないが、逃げたくないといふ気持ちを、押しとどめて、)逃げる。 といふことが出来ない。⇔ 逃げない。
であるため、「内容」としては、「同じ」ではない。
然るに、
(10)
③ 昆弟妻嫂、側レ目不二敢視一。
③ 兄弟や妻や兄嫁は目をそらし、まともに見ることができなかった。
(三省堂、明解古典学習シリーズ18、1973年、92頁)
従って、
(08)(09)(10)により、
(11)
① 敢
② 敢不
③ 不敢
④ 不敢不
に於ける、
③ 不
④ 不
には、
③ ・・・・・といふことが(は)出来ない。
④ ・・・・・といふことが(は)出来ない。
といふ「意味」が、「含まれてゐる」。
然るに、
(12)
④ ・・・・・といふわけにはいかない。
のであれば、
④ ・・・・・といふことは出来ない。
従って、
(11)(12)
(13)
③ 不三敢加二兵於趙一(敢へて、兵を趙に加へず)。
④ 不ニ敢不一レ告(敢へて、告げずんばあらず)。
といふ「漢文」は、「簡単に言ふ」と、それぞれ、
③(趙を攻めたいが、勇気が足りず、)趙を攻める。というふことが出来ない。
④(告げずに済むことではないので、)告げない。といふわけにはいかない。
といふ、「意味」である。
然るに、
(14)
Ken dare not try again.
ケンは再度試みる勇気がない。 - Tanaka Corpus
He dare not say so to your face.発音を聞く例文帳に追加
彼は君に向かってそう言う勇気は有るまい - 斎藤和英大辞典
従って、
(13)(14)により、
(15)
「不敢」は、「dare not」に、似てゐる。
(01)
P≡兎を得る。
Q≡兎を得る。
とする。
従って、
(01)により、
(02)
P&Q≡兎を得て、兎を得る。
従って、
(02)により、
(03)
P&Q≡兎を二度得る。
従って、
(03)により、
(04)
~(P&Q)≡(兎を二度得る)といふことはない。
然るに、
(05)
(ⅰ)
1 (1)~(P&Q) A
2 (2) P A
3(3) Q A
23(4) P&Q 23&I
123(5)~(P&Q)&
(P&Q) 14&I
12 (6) ~Q 35RAA
1 (7) P→~Q 26CP
(ⅱ)
1 (1) P→~Q A
2 (2) P& Q A
2 (3) P 2&E
12 (4) ~Q 13MPP
2 (5) Q 2&E
12 (6) ~Q&Q 45&I
1 (7)~(P&Q) 26RAA
従って、
(05)により、
(06)
① ~(P& Q)
② P→~Q
に於いて、
①=② である。
従って、
(01)~(06)により、
(07)
① ~(P& Q)≡(兎を二度得る)といふことはない。
② P→~Q ≡(前に)兎を得ているならば、(次に)兎を得ることはない。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(08)
[二] 守株(韓非子)
① 宋人有 耕田者。
② 田中有株、兎走觸株、折頸而死。
③ 因釋其耒而守株、冀復得兎。
④ 兎不可復得、而身爲宋國笑。
従って、
(08)により、
(09)
「括弧」を加へると、
① 宋人有〔耕(田)者〕。
② 田中有(株)、兎走觸(株)、折(頸)而死。
③ 因釋(其耒)而守(株)、冀〔復得(兎)〕。
④ 兎不〔可(復得)〕、而身爲(宋國笑)。
従って、
(09)により、
(10)
□( )⇒( )□
□〔 〕⇒( )□
といふ「移動」を行ふと、
① 宋人〔(田)耕者〕有。
② 田中(株)有、兎走(株)觸、(頸)折而死。
③ 因(其耒)釋而(株)守、〔復(兎)得〕冀。
④ 兎〔(復得)可〕不、而身(宋國笑)爲。
従って、
(10)により、
(11)
「平仮名」を加へると、
① 宋人に〔(田を)耕す者〕有り。
② 田中に(株)有り、兎走りて(株に)觸れ、(頸を)折りて死す。
③ 因りて(其の耒)釋て(株を)守り、〔復た(兎を)得んことを〕冀ふ。
④ 兎〔(復た得)可から〕ずして、身は(宋國の笑ひと)爲れり。
従って、
(07)~(11)により、
(12)
④ 兎不可復得=
④ 兎不〔可(復得)〕⇒
④ 兎〔(復た得)可から〕ず。
といふことは、
④ 一度目は、兎を得たが、二度目には、兎を得なかった。
といふことに、他ならない。
従って、
(12)により、
(13)
⑤ 不復返=
⑤ 不(復返)⇒
⑤ (復た返ら)ず=
⑤ 一度目は、返ったが、二度目には、返らなかった。
といふ、ことになる。
然るに、
(14)
崔顥の「黄鶴楼」詩の「黄鶴一去不二復返一」の場合は、
「前には一度返ったことがあるのか」と質問されると返答に窮し、「部分否定」とすることはできない。
(原田種成、私の漢文講義、1995年、156頁改)
従って、
(13)(14)により、
(15)
⑤ 昔人已乗黄鶴去(昔人已に黄鶴に乗りて去り、)
⑤ 此地空餘黄鶴楼(此地空しく餘す黄鶴楼。)
⑤ 黄鶴一去不復返(黄鶴一たび去りて復た返らず。)
に於ける、
⑤ 黄鶴一去不復返(黄鶴一たび去りて復た返らず。)
の場合は、「理詰めで(論理的に)」考へれば、
⑤ 黄鶴一去、不返(黄鶴一たび去りて、返らず。)
でなければ、ならない。
従って、
(12)~(15)により、
(16)
④ 兎不可復得=
④ 兎不〔可(復得)〕⇒
④ 兎〔(復た得)可から〕ず。
といふ「漢文」は、「論理的」であるが、
⑤ 不復返=
⑤ 不(復返)⇒
⑤ (復た返ら)ず=
といふ「漢文」は、「論理的」ではない。
然るに、
(17)
「この副詞は、どういう意味なのか?」と理づめで考えても、わからない箇所も多い。漢文の原文を中国語で読むと、それらの字は、音読のリズムを作るための「字数稼ぎ」や「箸休め」であることも多い。
(加藤徹、白文攻略 漢文法ひとり学び、2013年、18頁改)
従って、
(16)(17)
(18)
昔人已乗黄鶴去(昔人已に黄鶴に乗りて去り、)
此地空餘黄鶴楼(此地空しく餘す黄鶴楼。)
黄鶴一去不復返(黄鶴一たび去りて復た返らず。)
白雲千載空悠悠(白雲千載空しく悠悠。)
晴川歴歴漢陽樹(晴川歴歴たり漢陽の樹。)
芳艸萋萋鸚鵡洲(芳艸萋萋たり鸚鵡洲。)
日暮郷関何處是(日暮郷関何れの處か是なる。)
煙波江上使人愁(煙波江上人をして愁へしむ。)
といふ「七言律詩」に於ける、
⑤ 不復返(復た返らず。)
といふ「漢文」を、「論理的」に「読解」しようとしも、「無駄」である。
(01)
① 世有伯楽、然後有千里馬=
① 世有二伯楽一、然後有二千里馬一=
① 世有(伯楽)然後有(千里馬)⇒
① 世(伯楽)有然後(千里馬)有=
① 世に(伯楽)有りて、然る後に(千里馬)有り=
① 世の中に、伯楽がゐて、初めて、千里馬もゐる=
① 世の中に、伯楽がゐなければ、千里の馬もゐない。
然るに、
(02)
② 無世不有伯楽而有千里馬=
② 無下世不レ有二伯楽一而有中千里馬上=
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]⇒
② [世〔(伯楽)有〕不而(千里馬)有]無=
② [世に〔(伯楽)有ら〕不して(千里馬)有るは]無し=
② 世の中に伯楽がゐないのに、千里の馬がゐるといふことは無い。
然るに、
(03)
① 世の中に、伯楽がゐなければ、千里の馬もゐない。
② 世の中に、伯楽がゐないのに、千里の馬がゐるといふことは無い。
に於いて、
①=② は、「直観」として、「正しい」。
従って、
(01)(02)(03)により、
(04)
① 世有伯楽、然後有千里馬(世に伯楽有りて、然る後に千里馬有り)。
② 無世不有伯楽而有千里馬(世に伯楽有らずして千里馬有るは無し)。
に於いて、
①=② である。
然るに、
(05)
① 世有伯楽、然後有千里馬。
② 無世不有伯楽而有千里馬。
に於いて、
① を書いたのは、韓愈であって、
② を書いたのは、韓愈ではなく、日本語しか話せない、私である。
然るに、
(06)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
韓 愈(かん ゆ、768年(大暦3年) - 824年12月25日(長慶4年12月2日))は、中国唐代中期を代表する文人・士大夫である。字は退之(たいし)。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 世有伯楽、然後有千里馬。
② 無世不有伯楽而有千里馬。
に於いて、
① は、確かに、「漢文」であるが、
② は、あるいは「漢文」ではないのかも、知れない(?)。
然るに、
(08)
日本人が漢文を書く場合、漢文直訳体の日本語である漢文訓読は、有力な道具となり得る。実際に漢詩・漢文を自分で書いてみればわかることだが、日本人が音読直読だけで純正漢文を書くことは、なかなかに難しい(そもそも漢文の音読直読ができる現代中国人でも、純正漢文が書ける者は少ない)。
(加藤徹 他、「訓読」論、2008年、265頁改)
従って、
(08)により、
(09)
「訓読(漢文直訳体の日本語)」が書けて、その、
「訓読(漢文直訳体の日本語)」を、「漢文の語順」に、「書き換へる」ことが出来るのであれば、「中国語を、全く知らない、私のやうな日本人」であっても、
② 無世不有伯楽而有千里馬。
③ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」くらいは、書けることになる。
従って、
(08)(09)により、
(10)
② 世に伯楽有らずして千里馬有るは無し。
③ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
といふ「訓読(漢文直訳体)」を、
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
③ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の語順」に、改めた「それ」が、
② 無世不有伯楽而有千里馬。
③ 我非必不求以解中文法解漢文者也。
といふ「漢文」である。
といふ、ことになる。
然るに、
(11)
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
といふ「英文(?)」を、「グーグル翻訳」に掛けたところ、
② 伯楽がその国にいなければ、千里馬がその国にいることは不可能です。
③ 私は必ずしも中国語を理解する方法を使用して中国の古典を理解しようとしない人ではありません。
といふ「翻訳」を、得ることが出来たため、果たして、
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
は、「英語」であった。
然るに、
(12)
② 世に伯楽有らずして千里馬有るは無し。
③ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
といふ「訓読(漢文直訳体)」を、
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
③ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の語順」に、改めたとしても、もちろん、
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
といふ「英語」には、ならない。
従って、
(10)(11)(12)により、
(13)
「漢作文」と、
「英作文」とでは、「やってゐること」が、「全然、違ふ」。
然るに、
(10)~(13)により、
(14)
「結論」だけを、述べるとすると、言ふまでもなく、
② 世に伯楽有らずして千里馬有るは無し。
③ 我は必ずしも中文を解する法を以て漢文を解せんことを求め不る者に非ざるなり。
といふ「訓読(漢文直訳体)」を、
② 無[世不〔有(伯楽)〕而有(千里馬)]。
③ 我非〈必不{求[以〔解(中文)法〕解(漢文)]}者〉也。
といふ「漢文の語順」に、改めるよりも、
② 国に伯楽がいないのに、千里馬がいることは、無い。
③ 私は、必ずしも中国語を理解する方法を用ひて、漢文を理解することを求めない者では、ないのです。
といふ「日本語」を、
② If 伯楽 is not in the country, it is impossible for 千里馬 to be in the country.
③ I am not necesarily a person who doesn't try to understand Chinese classics using the method of understanding chinese.
といふ「英語の語順」に、改める方が、「遥かに、難しい」。
然るに、
(15)
返り点・送り仮名をつけて訓読みすることが「日本人として徹底的にわかることを意味する」というところに私は大きな衝撃を受けた。それに対して韓国ではそのまま外国語として音読みし、翻訳して意味を理解する道をとった(呉善花、漢字廃止で韓国に何が起きたか、2008年、89・90頁)。
然るに、
(16)
少数の天才的なひとたちあるいは秀才たちは、返り点・送り仮名をつけなくとも正確な漢文の理解に至るであろう。李氏朝鮮の儒学のレベルの高さはそういう少数の秀才や天才に負うものである。・・・・・・しかし大多数のコリア人にとって、シナの古典は近づき難い高峰であった」(渡辺昇一、『英文法を撫でる』PHP新書、頁は不明)。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
日本のような漢文訓読法がなかった朝鮮では、純正漢文を読めたのは上流知識人に限られた。読書層は日本にくらべると薄く、朝鮮の対日認識は限定的なものにとどまった。極論すれば、漢文訓読法をもてなかったことが、朝鮮が近代において日本に圧倒されるようになった遠因の一つとなった(加藤徹、漢文の素養、2006年、199頁)。
といふことは、「確かに、さうであったのであらう」と、思はれる。
然るに、
(18)
しかし、倉石の鋭さは、なによりもまず先にも触れた「漢文訓読塩鮭論」に余すところなく現われていると言える。
それはすなわち次のような一節である。
論語でも孟子でも、訓読をしないと気分が出ないといふ人もあるが、これは孔子や孟子に日本人になってもらはないと気が済まないのと同様で、漢籍が国書であり、漢文が国語であった時代の遺風である。支那の書物が、好い国語に翻訳されることは、もっとも望ましいことであるが、翻訳された結果は、多かれ少なかれその書物の持ち味を棄てることは免れない、立体的なものが平面化することが想像される。持ち味を棄て、平面化したものに慣れると、その方が好くなるのは、恐るべき麻痺であって、いはば信州に育ったものが、生きのよい魚よりも、塩鮭をうまいと思ふ様なものである(「訓読」論 東アジア漢文世界と日本語、中村春作・市來津由彦・田尻祐一郎・前田勉 共編、2008年、60頁)。
従って、
(16)(17)(18)により、
(19)
「漢文訓読法」があった日本に於いては、 「少数の天才的なひとたちあるいは秀才たち」ではなくとも、「正確な漢文の理解」が、「可能」であったにも、かかわらず、
「漢文訓読法」を「否定」することによって、「少数の天才的なひとたちあるいは秀才たち」ではなくては、「正確な漢文の理解」を「不可能」な「モノ」に、変へてしまった。
といふ、その人こそが、倉石先生であった。 といふ、ことになる。
(01)
⑭ 小学而大遺「学レ小而遺レ大」とすべきところを意味を強めるために倒置した。
「小学レ之、大遺レ之」の「之」を省略した形。このような場合には、普通の場合
との区別がよくわかるように「小ハ・・・大ハ・・・」または「小ヲバ・・・大ヲバ・・・」などと読む。
(三省堂、明解古典学習シリーズ20、1963年、54頁)
従って、
(01)により、
(02)
「学小而遺大」といふ、「漢文としての、通常の語順」を、
「小学而大遺」といふ、「国語としての、通常の語順」に変へた場合は、
「(漢文としての)倒置」となり、その「結果」として、「小(補語)」と「大(補語)」が、「強調」される。
従って、
(02)により、
(03)
例へば、
① 入(危邦)⇒
① (危邦)入=
① (危邦に)入る。
に対して、
② 危邦入=危邦に入る。
の場合は、
②「危邦(補語)」が、「強調(倒置)」されてゐる(?)。
従って、
(03)により、
(04)
② 不〔入(危邦)〕⇒
② 〔(危邦)入〕不=
② 〔(危邦に)入ら〕ず。
に対して、
③ 危邦不(入)⇒
③ 危邦(入)不=
③ 危邦に(入ら)ず。
の場合も、
③「危邦(補語)」が、「強調(倒置)」されてゐる(?)。
然るに、
(05)
危険の兆候のある国には、足を踏み入れない。
(吉川幸次郎、論語上、1960年、252頁)
従って、
(04)(05)により、
(06)
「日本語」としては、
② 危邦に(入ら)ず。
ではなく、
③ 危邦には(入ら)ず。
である。
然るに、
(07)
枕草子の専門家が次のような頭注をつけている。
「春は」は総主語の提示語的用法。「春は曙いとをかし」などの略で。「曙いとをかし」などの述部の主語。
総主語の提示語のような総主語であり、かつ、主語である、とは難儀な話である。
(三上章、日本語の論理、1963年、148・9頁)
従って、
(07)により、
(08)
「提示語(~ハ)」といふ「文法用語」がある。
従って、
(06)(08)により、
(09)
② 危邦に (入ら)ず。
③ 危邦には(入ら)ず。
に於いて、
②「危邦」は、「 補語 」であるが、
③「危邦」は、「提示語」であって、
「日本語」に訳した際に、「提示語(ハを伴ふ)」となる「漢文の補語」は、「倒置」をしても、「強調」されることはない。
といふ風に、「仮定A」する。
然るに、
(10)
④ 父母の年ハ、知らざるべからざるなり(論語、里仁第四 21)。
の場合は、
④ 父母之年、不レ可レ不レ知也。
である。
従って、
(09)(10)により、
(11)
「仮定A]を認めるのであれば、
④ 父母之年、不レ可レ不レ知也。
に於ける、
④「父母之年」は、「倒置による、強調形」ではなく、「提示語」である。
然るに、
(12)
⑤ 世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。千里の馬ハ常に有れども、伯楽ハ常には有らず(韓愈、雜説)。
の場合は、
⑤ 世有二伯楽一、然後有二千里馬一。千里馬常有、而伯楽不二常有一。
である。
従って、
(09)(10)(11)(12)により、
(13)
「仮定A]を認めるのであれば、
⑤ 千里馬常有、而伯楽不二常有一。
に於ける、
⑤「千里馬」は、「倒置による、強調形」ではなく、「提示語」である。
⑤「 伯楽 」も、「倒置による、強調形」ではなく、「提示語」である。
(01)
① 我有父母=
① 我有(父母)⇒
① 我(父母)有=
① 我に(父母)有り=
① I have parents.
(02)
② 人皆有兄弟=
② 人皆有(兄弟)⇒
② 人皆(兄弟)有=
② 人皆(兄弟)有り=
② Everybody has brothers.
従って、
(01)(02)により、
(03)
「有」とは、即ち、「Have(持つ)」である。
然るに、
(04)
【有】ユウ(イウ・ウ)、ある
〈解字〉会意。意符号「月」(肉)と音と意を表す「又(イウ・ウ)」(右手)。肉を己の所有とする意。
「有無」の「有」はその延長義。「有」は「もつ」が原義だから「・・・・・がある」にあたり「・・・・・である」ではない。(対)無。
(中沢希夫、同訓異字辞典、1980年、21頁)
従って、
(03)(04)により、
(05)
「有」の「原義」は、「持つ(Have)」である。
然るに、
(06)
③ 居上位而不驕=
③ 居(上位)而不(我驕)⇒
③ (上位)居而(驕)不=
③ (上位に)居て(驕ら)ず=
③ 上座に座ってゐても、驕らない。
然るに、
(07)
【在】サイ・ザイ、ある
〈字義〉ある・おる(在)。
(中沢希夫、同訓異字辞典、1980年、21頁)
(08)
【在】4881
(ロ)をる。云々にをる。
(大修館、大漢和辞典)
(09)
を・り【居る】[一](動詞)自ラ変
① 存在する。いる。ある。
② 座っている。
(旺文社、全訳古語辞典、2006年、935頁)
(10)
従って、
(06)~(10)により、
(11)
「在」の「原義」は、「座ってゐる(Sitting)」に近い。
従って、
(05)(11)により、
(12)
「有」の「原義」は、「持つ(他動詞)」であって、
「在」の「原義」は、「座ってゐる(自動詞)」に近い。
然るに、
(13)
存在と出現・消滅の表現法
存在を表す動詞として、古代においても、「有」と「在」とが常用されている。しかし、その存在するものと、存在する場所とをいふ単語の語順は、次のように、全く反対である。
A式 場所語―有―存在物
例 机上有レ書。(机上に書あり)
B式 存在物―在―場所語
例 書在ニ机上一。(書、机上にあり)
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、346頁)
従って、
(12)(13)により、
(14)
① 机上有書。
② 書在机上。
に於いても、
①「有」は「他動詞」の「語順」を取り、
②「在」は「自動詞」の「語順」を取る。
然るに、
(15)
主語や補語は省略されることが多い。
(片桐功雄、究める漢文、2010年、16頁改)
従って、
(14)(15)により、
(16)
① 机上有書。
② 書在机上。
といふ「漢文」は、
① 机上(主語)と、
② 机上(補語)が、「省略」されて、
① 有書。
② 書在。
となることが、多い。 然るに、
(17)
「漢文」と「日本語(訓読)」に於いて、
①「他動詞の語順」は、「逆」であって、
②「自動詞の語順」は、「順」である。
従って、
(16)(17)により、
(18)
① 有書。
② 書在。
に於いて、
① の「語順」は、「日本語」と「逆」になり、
② の「語順」は、「日本語」と「順」になる。
然るに、
(19)
返読文字とは、先に述べた「ヲ・ニ・ト・ヨリ」がなくとも返り点を打つ文字のことである。
(高等学校古文/漢文の読み方/返読文字)
従って、
(17)(18)(19)により、
(20)
①「(漢文の)有」が、「他動詞」であって、
②「(漢文の)在」が、「自動詞」であるが故に、
① 有書。
② 書在。
に於いて、
①「有る」は、「返読文字」であって、
②「在る」は、「返読文字」ではない。
といふ、ことになる。
然るに、
(16)により、
(21)
① 机上有書(机上に、書有り)。
② 書在机上(書、机上に在り)。
であるため、
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
である。
従って、
(20)(21)により、
(22)
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
といふ「語順」に対して、
① 此在人(此に、人在り)。
② 人有此(人、此に有り)。
といふ「語順」は、無い。
然るに、
(23)
因みに、「加藤徹、白文攻略 漢文ひとり学び、2013年、95頁」によると、
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
は、それぞれ、
①「(誰か)人がここにいる。」
②「(さっきから話題にしている、あの)人がここにいる。」
といふ「意味」である、との、ことである。
然るに、
(24)
② 沛公在此(沛公、此に在り)。
に於いて、
② 此(ここに)
は、「補語」である。
cf.
② 沛公 is here.
従って、
(24)により、
(25)
③ 沛公在安(沛公、安くにか在る)。
に於いて、
③ 安(いづくに)
は、「補語」である。
(26)
前置による強調
動詞についての目的語は、その動詞の後に置かれるのが、漢語における基本構造としての単語の配列のしかたである。また、漢語における介詞は、ほとんど、動詞から発達したものであって、その目的語(補語)も、その介詞の後に置かれるのが、通則であるということができる。しかし、古代漢語においては、それらの目的語(補語)が疑問詞である場合には、いずれも、その動詞・介詞の前におかれている。このように、漢語としての通常の語順を変えて、目的語の疑問詞を前置することは、疑問文において、その疑問の中心になっている疑問詞を、特に強調したものにちがいない。
(鈴木直治、中国語と漢文、1975年、334・5頁改)
従って、
(25)(26)により、
(27)
③ 沛公在安(沛公、安くにか在る)。
ではなく、
③ 沛公安在(沛公、安くにか在る)。
でなければ、ならない。
cf.
③ Where is 沛公?
③ WH移動(生成文法)。
従って、
(22)(23)(27)により、
(28)
① 此有人(此に、人有り)。
② 人在此(人、此に在り)。
③ 人安在(人、安くにか在る)。
に於いて、
① Here is someone.
② The man is here.
③ Where is the man.
といふ、「意味」なる(はずである)。